頬や下顎《あご》の辺りにくっついていた飯粒を、踊りながら指の先で口に入れる狂女を半囲いにして集い合う人々にまじって、卯八はつい今し方しかと見定めてきた司祭館で働く父親の姿をのみ、念頭においていた。あれは何を相談していたのか、フランス寺敷地だという地面に張りめぐらされた黒糸の傍で、図面をひろげる異人宣教師を中心に、首を突っ込まんばかりにして、数人の職人たちと談合していたのだ。
しかも彼がそこにいることがわかっても、他の大工たちと同様、兼七は振り向きもせず気にする素振りさえ見せなかったのである。地ならしを終えた囲いの四方には、赤・黄・紺などの紙きれをつけた棒杭《ぼうくい》が立てられており、縦横に掘鑿《くつさく》した溝《みぞ》のあちこちに埋められた土台石の、骨太い橋桁《はしげた》に似た構え。見詰める彼の存在を歯牙《しが》にもかけぬごとく、彼等は異人の指差すままに頷き、かつ動いた。
「稲佐で魯西亜《ロ シ ヤ》人の相手ばしとって、あげんなったとげな。魯西亜人の水兵は二人にひとりはあげな病気ば持ってるちゅうけん、おとろしかよ」
「そいじゃぬしは、魯西亜人の半分は狂うとるというとな」
「そいが相手ばしたおなごにしかでんちゅう話たい。そいで文句のつけようもなかと」
「ぬしは何時でも見てきたごというけんな。あの女、昔は戸町のひゃぁはちやったとおるはきいとるばい」
「ひゃぁはちはひゃぁはちたい。そいから稲佐のマタロス休息所に行ったと。こりゃでどころのはっきりしとる話じゃけんね」
「あんまりつじつまの合う話じゃなかごたるね。ぬしのいうとがほんなこつなら、稲佐行きの女郎はみんなそんひとのごとならにゃいけんじゃなかか。二人にひとり病気ば持っとるとなら、そんげん理屈になるやろう」
「そいけん今じゃ、女郎のひとりひとりにちゃんと消毒ばさせとるとたい」
「何処まで信用でくるか。ぬしの話はようとわからんばい」
周囲の耳を意識して軽口をかわす、片方の男に見覚えがあるような気もするがはっきりとは思いだせない。卯八が人ごみを離れようとしたちょうどその途端に、「おーい、戸浦の浜に土左衛門があがったぞお」という声がきこえた。
「土左衛門。男か女か」
「男たい。何でも廻船《かいせん》問屋の番頭らしかぞ」
「そりゃあまた大事《おおごと》たい」
それまで狂女を囲んでいた人々は、なだれるように声の方に移動する。卯八もそこに行くと、身ぶり手ぶりで喋っているのは、遊び人風の若造だ。
「廻船問屋の番頭ちゅうことがどんげんしてわかったとね」
「なんかそんげん目印のあったとやろう。役人がそういうとばきいた者のおるとよ。土左衛門になってからまだそう時刻も経っとらんちゅう話やった」
「身投げにしちゃ、妙な場所でやったもんやね」
「身投げかどうかわからんらしかと。身投げなら身形の何処かにそんげん覚悟のあらわれとるとに、そういうものが見えんというとらした。どっちにしろ、廻船問屋の方にあたれば事情のつかめるやろう」
「番頭というなら、大方店の金でも使い込んだとと違うか。そいとも商売のいざこざで、相手方から突き落とされたか……」
そこからあまり遠くない距離なので、卯八は海沿いを小走りに駈けて大浦居留地から戸浦に通じる道にでた。水死人の死骸を見てもどうということはなかろうが、廻船問屋の番頭ということに、引っかかるものを感じたのである。今朝方、仁昌寺住職の尾行に失敗している後ろめたさも、何処かに絡んでいた。
波止めの杭を横手に、潟《かた》とも砂地ともつかぬ小さい河口に近い現場には、先程の男がいったように、すでに数人の役人が出向いており、莚《むしろ》をかぶせた死体を遠巻きにした野次馬たちの人数は予想外に多い。そして卯八がその間にまぎれ込もうとした時、肩に触れる手があった。目顔でついてこいという峰吉に従って、人気のない窪《くぼ》地にしゃがむ。
「さすがに早かな」
「大浦の方ばちょうど当たっとりましたけん」
「仁昌寺の見当はついたごたるね」
「そいが……」
尾行に失敗した一部始終を、卯八は伝えた。峰吉はそれをきくと、「どっちみち動きのとれん相手じゃけん」と、一旦は慰めるようにいった。
「そいでも相手に勘づかれたのはまずかったな。相手の方で要心するけんな」
「すみまっせん」
「それより、大事なことのわかったとたい。井吹重平はもう仁昌寺におらんとよ」峰吉はいった。「何処かに隠れて住んどる。ひょっとすると、あん住職は今朝、そこば訪ねようとしたのかもしれん。……ああたは何もきいとらんね」
卯八はそれに答えなかった。知っておれば真っ先に伝えるはずではないか、という思いをあらわにするかのように。うちはまた井吹さんのしゃんすはひとりかと思うとった、という咲の言葉が胸の内を走る。うちがきいとるとは阿茶《あちや》さんとのあいの子たい。なんでも英語の塾に通うとる娘さんらしかとよ。……何処かは知らんばってん、井吹さんは今そん人と一緒に住んどらすとじゃなかと。
「清瀬さんは絵図の出所を有田らしかというとらしたが、おいの推量じゃどうもその井吹重平が直接一枚噛んどるとじゃなかかと思うとたい。仁昌寺の中じゃやきもんだけじゃのうして、ほかにも何か作っとった具合にみゆるし、誰にも居場所を明かさんごとしとるとが、どうもきな臭か匂いのすると。……」
「そいでも、仁昌寺にゃずっと今まで住んどったとでっしょ」
「隠れてな。誰にも知らせんごとして……卯八さんまでが知んなさらんやったとじゃなかね」
「そりゃ、そうですばってんね」
「仁昌寺の坊主を締めあげれば簡単じゃろうが、それじゃ肝心の魚ば逃がしてしまう恐れもあるけん、その辺のところは心してかからにゃいかんと思うとる」峰吉はそういういい方をしたが、卯八に念を押しているのかもしれなかった。「ひょっとすると、奉行所で考えとる以上にふとか魚かも知れんばい。こいはおいの勘ばってんな」
「そんげんふうには見えませんでしたばってんね」卯八はいった。「そいで今、井吹さんは何処に住んどらすとですか」
「さっきもいうたごと、そいがつかめんとたい。そいでも今日明日の問題たい。仁昌寺は動かんし、どっちみちあの坊主と結びついとるとだけんな」
新しい女を咲にさえ知られているとすれば、確かに時刻の問題かも知れぬ。第一、阿媽《あま》上がりの女は明日、井吹重平と会う手筈になっているのだ。昼前、此処にきなさるとよか。一緒に行けばどんげんかよろこびなさるとでっしょ。……
「ああたは、これからどんげんするつもりな」
「どんげんといいますと」
「真っ直ぐ家に戻りんさっとじゃろ」
「朝からしくじっとりますけん、ほんなこつは仁昌寺を張っとらにゃいかんですばってんね」
「まあ仁昌寺は明日からのことにすったい。一緒にちょっとお茶でもどうな」
「今は遠慮しときまっしょ。少し頭ば冷やしとかにゃ、自分で何ばしとるとかわからんごとなりますもんね」
「今日はいろいろ騒動の多か日ばい。又次の一件がようよう落ち着いたかと思うと、増屋の番頭じゃけんな。こいでまた奉行所はきりきり舞いたい」
増屋というと、椛島町の増屋か。二つのことをいっぺんにいわれて、卯八は取りあえず又次の一件についてきいた。
「又次といえば、あの噂のでとった……」
「そうたい。船乞食の又次たい。そいがつかまったとよ」
「つかまった。そしたら染田屋の太夫も。……」
「そんげんことになったら大事じゃろう。噂はあくまで噂じゃけんな」
それならなぜ、又次ひとり捕らえたのか。卯八の不審を外すかのような口調で峰吉はさらりという。
「又次はほかの事件にかかわりのあってしょっぴかれたとたい。こんげん時勢じゃけん、火種ひとつでどげな騒動でも起きる。連中にとっちゃそこが付け目たい。どげな騒ぎでもよか、長崎中ひっくり返っても、船乞食の一統はかえってよろこびよるじゃろう。世間が逆さまになれば、自分たちも逆さまになるとでも考えとっとじゃなかか」
奉行所の目安方か盗賊方のような口を峰吉はきく。
「増屋の番頭といいなさったが、椛島町の増屋ですか」
「主人もきとるばい。何か要領のつかめん話ばしとるそうな」
「薬種問屋に今度は廻船問屋か。塩辛売りも絡んどるし、底の方に大分わけのわからんもんの流れとるごたる」
井吹重平などを追うより、もっと大きな鼠がいると卯八はいいたいのだ。金ケ江屋の別宅で行われた会合さえ突き止めているのに、梶屋正輔の名前がでた途端、探索を打ち切らせた目安方の謎《なぞ》。
峰吉と別れて、土手を越えると、卯八は波止めの杭に寄りかかって、暮れなずむ港の海面に千鳥のようにおどる光と影を眺めた。いちばんいいのは井吹重平が行方をくらましてしまうことだ、という思いが波間をすうっとひろがって行く。フランス寺で働く父親のことから、峰吉の下っ引になった事情まで、何もかもありのままを話してしまえば、井吹重平自身は少なくとも奉行所の手を逃れ得る。五年か十年か、或いは断罪の恐れさえ生じるかもしれぬ井吹重平を救う手だてはそれしかあるまい。とすれば、どんな方法で。そうか、小萩か。卯八は足許の石を握りしめ、自分の心に踏んぎりをつけるように、力一杯海に向けて投げた。
実行するなら早い方がよい。今すぐにでも門屋に直行したい気持ちの背後にゆらめくのは、むろん異人の宣教師と談合する兼七の姿だ。かまわぬ、と卯八は思う。小萩を通じてありのままの事情を話せば、井吹さんならわかるに違いない。
そこから近道しようとして、卯八は土手の間を仕切る竹の柵《さく》をまたいだ。石垣を右手に少し歩くと、海に迫る岩場に行き当たり、そこを迂回《うかい》してふたたび土手と潟に挟《はさ》まれる道にでた。すると思いがけぬところに掘りの深い溝川が流れており、渡るべき場所を探そうとしてうろつく卯八の前に、漁師のような風態をした二人連れの男が立ちふさがった。
「わりゃそこで何ばしとっとな。猫のごとうろちょろして」
「大浦ん方にでる道ば見つけよっとたい」
「道はなかぞ、此処には。でまかせいうたっちゃすぐわかっとじゃけんな。大方、わりゃ探索方の手先じゃろう」
「戸浦に土左衛門のあがったというけん、そいば見に行ったとたい。その帰りに近道ばしようと思うて迷い込んだと。こんげん川のあっとは知らんやったもんな」卯八は筋道を立てるようにいった。きっと近くに船乞食の集落があるのかもしれぬ。
「その手にゃ乗らんたい。戸浦から大浦にでるのに、だいが選《よ》りにも選って、道もなかところに迷い込むもんか。わるの見当はちゃんとわかっとるぞ。泥棒猫のごとこそこそ辺りば窺うて、今度はだいばつかまえるつもりや」
「そうですか、道に迷いなさったとですか、というて貰うつもりじゃなかろうな」もうひとりの男が言葉を重ねた。「とにかくついてきて貰おうか」
「おるがああた達に何ばしたというとな」
「何ばしたか、そいばこれからじっくりきかせて貰うとたい。さあいうごとせんか。この場になってごまかそうと思うても、そうはいかんばい。又次のことでみんな気の立っとるとだけんな。わるの出方次第でどんげんこつになるか。しっかい覚悟を決めとくとよか」
駈け出したとしても、恐らく逃げおおせることはできなかろう。見えない影からじっと覗《のぞ》かれてでもいるような感じで、卯八は男たちの後に従う。峰吉と組みになっていると知る筈もない相手に、又次の名前はおろか、船乞食の騒動は知らぬ存ぜぬで押し通せばよいのだ。
二人連れの男は卯八の前後に、ものもいわず一町程も川溝伝いに歩いて、低い櫓《やぐら》の半鐘と狭い石段の坂を挟んで向かい合う家々を望む台地の手前にでた。少なくとも目に入る限り人影はなく、童の姿さえ見えぬ貧寒とした場景の中に、ただひとつ二階家の桟に干されている丹前がかえって不気味である。
二人連れは地蔵堂の傍から奥に折れる路地を通って暗いまるっきり陽の差さぬ家の中に、卯八を連行した。土間からじかにあがる六畳敷きには家具さえ殆どおかれていない。
「さっきもいうたごと、わるの出方次第で決まるとだけんな。手間ばかりかけんごと、はっきり返事ばして貰おうか」
卯八が坐ると、いきなりひとりがいう。
「こん次、奉行所が狙うとるとはなんな。……おい、誰ば狙うとるとかときいとるとぞ」
「何のことかようわからんと。奉行所にかかわりでん持っとっとなら何か返事の仕様もあろうばってん、おるには何のことかようわからん」
「わりゃ、そいじゃ奉行所には何のかかわりもなかというとか」
「おるは八幡町に住んどる指物の職人ですばい。名前は卯八。調べて貰えばすぐわかることですたい」
「そん指物職人がなして探り番の峰吉と通じとるとな」
「そりゃ……あんひととは以前からの知り合いですけん」卯八はいった。戸浦で話しているのを見られたのか。それとも何処か別の場所で……。「そいでも峰吉さんの仕事とは何のかかわりもなかとですよ」
「八幡町に住んどる指物師が、わざわざ戸浦まで水死人ば見物にきて、それもろくに眺めもせずに戻って、道でもなか場所にまぎれ込むというとか」
きっと峰吉と話しているのを見られたのだ。そしてそこからつけられていたに違いない。卯八は咄嗟《とつさ》のいい抜けを口にした。
「大浦の居留地に用事のあって、そん帰りに水死人のことばきいたとですよ。そいで見に行ったら、峰吉さんに声ば掛けられて、ちょっと急用ば頼まれてくれんかといわれて、そいで、なるべく早う戻ろうとして……」
「急用ちゃなんな」
「椛島町の増屋に行って、死んだ番頭の身内ば呼んできて貰うごと言伝てば頼まれたと」
「たったそいだけんことに、頭ば突き合わせるごとして長話ばしたとな」男がいう。「そんげんこつならまあ、此処にいっときおって貰わにゃいかんたい。ひとりで考えるとまたよか了見の浮かぶかもしれん。……いうとくばってん、逃げ道はいくら見つけようとしてもそいは無理じゃけんな」
男たちは去り、ようやく慣れた卯八の目に、土間の壁に立てかけられた鍬《くわ》と笊《ざる》がまるで判じ物のように映る。偶然のことにせよ、奉行所の手先だと知っていて監禁した以上、尋常に放免されるはずはないのだと思いながら、卯八の気持ちにはまだ幾分余裕があった。笊の傍に蹲《うずくま》っている手鞠《てまり》に似た塊はまさか鼠ではあるまい。