染田屋の主人太兵衛が船乞食の一統に襲われて手傷を負ったという事件は、五ツ半(午後九時)頃にはもう丸山、寄合町一帯に知れ渡っていた。溜牢《ためろう》に引っ張られる途中で逃げ出した又次がやったという者もおれば、狙った者の数は五人余りで、中には女もまじっていたと見てきたように話する人もいて、尾鰭《おひれ》のついた噂はまたたくうちに口から口に伝わったのである。
一方、戸浦の浜に土左衛門となって打ち上げられた廻船問屋の番頭についてのあれこれも、負けず劣らず口の端にのぼり、どのやりとりに首を突っ込めばよいのか、色街の人々は舌なめずりをしながら、まつわる話のひとつひとつを選《よ》り分けたり、穿鑿《せんさく》したりした。
井吹重平は門屋でそれをきいたが、小萩はわずかの間さえ惜しむかの口調で、「もう止めまっしょ」といった。
「うちたちには、もうあんまり人のことを話す時刻はなかとだけんね」
「軍《いくさ》にでも行くごというとじゃな」井吹重平は胡麻《ごま》和《あ》えの菜をつまもうとする箸《はし》を止めたままいう。「半年か一年位、すぐ経ってしまうばい」
「一年……」小萩は声を詰まらせる。「長うして半年といいなさったとじゃなかとへ」
「そりゃそうたい。ひょっとしたら三カ月もせんで戻ってくるごとなるかもしれんと」井吹重平はいう。「今の世の中じゃ、どっちに風の吹くかそれもようわからんとじゃけんな。風向き次第で素っ飛んで帰るかもしれん。明日と明後日でがらりと変ってしまう。今はもう誰も彼も自分の乗っとる船の行先さえわからんとよ」
「風向き次第といいなさるばってん、もしもその風向きのわるうなったらどんげんしなさるとへ」小萩は身をもむようにしていう。「待てといわるるなら待ちますばってん、何時までも戻れんごとなったら、考えただけでも目の前の暗うなってきますと」
「そんげんこともなかろうが、風向きのわるうなって、何時までも続くごたるなら、ぬしをおいのおるところに呼ぶたい。約束するばい、そりゃ……」
「そんげんこと……」
できるはずもなか、という思いを胸の内に、小萩の語尾は顫えた。
「どっちみちぬしを身請けするつもりじゃけんな。金さえおくれば長崎におろうと上方におろうと同じことたい。……遊びに行くとじゃなか。そん金ば稼《かせ》ぎに行くとよ」
小萩は激しくかぶりを振った。
「何か気に障ることでもいうたか」
「身請けのことより、一日でも早う戻ってきなさるとがうちはうれしかと。……一年も二年も会われんごとなったら、生きて行く甲斐もなかとですよ」
「心配することはなか」井吹重平は盃《さかずき》を口に持って行く。「風向きのことをいうたけん、もしやという気になったとかしれんが、世の中はちゃんと、おいの思惑通りに動いとるとじゃけんな。万にひとつの間違いもなかとよ。長崎を出んならんとは、ちょっと時化《し け》になったけん、そいばやり過ぐるまでじっとしとるまでのこと。動きだして弾みのついとる時勢はもう後には戻らんとよ。……半年というたら半年、きっと戻ってくるたい」
「長うして半年ですよ」
「そうそう長うして半年。……」井吹重平は盃と一緒に頷く。「それより長うなったら、おいの方が辛抱できんごとなってしまう」
「そいばってん……」
「そいばってん、どうした。先ばいわんとわからんたい」
「先々で遊ばれるとは仕方のなかと思うとりますと。そいでもうちは……」
「大分、信用のなかごたるな」
「数の多か相手より、ひとりだけのひとが気になりますと」
「なんのことね」彼はぎくりとした。
「行く先々で、きれかひとのたくさんおんなさるでっしょが、ひとりだけのおなごしば作りなさらんごと、頼んどりますと」
「作るはずもなか。おれにゃぬしだけがおなごじゃけんな」井吹重平は隠れた吐息を洩らした。きわのことをいいだしたのではなかったのだ。
手招きでもするような遣手の声がして、小萩は応じた。何やら小声でのやりとりがあって、ふたたび座に戻る。
「都合のわるかことでもできたとじゃなかね」
「何でんなかと」
小萩の手にしようとした銚子を逆にとって、彼は自分の盃を渡した。
「何処《ど こ》におっても、ぬしのことだけ考えとくけんな」
「早う帰ってきてくれまっせ……」
小萩は返盃《へんぱい》して酌をすると、うつむき加減に手の甲を口許にあてた。井吹重平は盃をおくと、その手を引き寄せ、ゆらいだ肩と腕を抱き込みながら、頬擦りした。普段より薄目に刷《は》いた白粉《おしろい》と紅の上を、ひと筋、きらりとしたものが伝う。
「どがんことになってもぬしを離しはせんと。……おいが危なか橋ば渡ったとは、一日でん早うぬしば此処からだしたかと思うての上だけんな」井吹重平は抱きすくめた手をゆるめずにいう。「おいが戻ってくるまで、しっかい体に気つけて辛抱しとかにゃいかんぞ」
「辛抱ならいくらでもしますけん」小萩は喘《あえ》ぐような声をだす。「身請けのことばどうするというより、今のままでもよかけん、離ればなれにおりとうはなかとですよ。うちには旦那さんひとりがいのちですけんね。ほかのことはみんな殻とおなじ。実もなかと。……」
井吹重平は小萩の口を吸い、一旦放した上で、さらに深く相手がもだえる程深く、舌を差し入れた。閉じた瞼《まぶた》に薄っすらとした光が流れ、長い睫《まつげ》に濡れた粒が宿る。
「お銚子の代わりを貰うてきまっしょ」
彼のゆるめた手を抜けるようにして、小萩は立ち上がった。先程顔をだした遣手の様子をちらと気にしながら、井吹重平は黙って見送る。
胡麻和えとともに膳に付けられた皮剥《かわはぎ》の刺身は今日の昼前、朝餉《あさげ》を兼ねた食事にもでてきたものだ。彼の好物を覚えたきわが朝市まで出かけて買い出してきたのである。
今度の出立に、どうしても自分も一緒に行くといい張ってきかず、ひと晩がかりでようやく説得した朝、きわは殆ど眠りをとっていない眼をこすりこすりして、そっと二人の床を脱けだしたのであろう。
目を覚ました途端、傍にいないきわを不審がり、一瞬昨夜からの口説を反芻《はんすう》しながら、よもやと思いかけて、しばらく経った頃、きわは籠を片手に戻ってきた。
「起きとんなさったとですか」見るからに腫《は》れぼったい瞼を浮きだすような笑みを、きわは作った。「早かうちにと思うて海岸迄《まで》行ってきましたと」
「何時《なんどき》な、いま」
「もうすぐ六ツ半(午前七時)になりよりますと」
「六ツ半か。そんならもうちょっとの間でも寝らるったい。ぬしも此処にくるとよか」
きわは戸締りをすると、帯を解いて下着のまま彼の腕の中に入った。
養生所の仕事と英語の伝習を中途で放棄してもよいのか、という唯その一点できわの気持ちを抑えることができたのだ。旦那さんと別れ別れになってくらす位なら、勉強してもしよんなか、というのをなだめたり叱ったりして、やっと納得させたのである。期間は半年、万一それを過ぎた場合、長州か上方かは知らねど自分の居場所に呼ぶという約束は、小萩に対するのと同様であった。
「おいが帰るまでしっかい勉強しとかんといかんぞ。基礎のなけりゃ医学所の方に移るわけにもいかんけんな。……医学の勉強にゃこん長崎がいちばん便利になっとるし、そのうちきっとおいが話ばつけて、伝習生になるごとして貰うてやるけん」
きわは黙ったまま、彼の懐に顔を埋めてしがみついた。
「世の中にゃどがんしても二つにひとつ、どっちかを選ぶか、自分を殺さにゃならん時があるとよ。もう一段上に飛び上がるためには、矢張りそのままの姿勢じゃならんと。じっと身ばかごめてその時のくるのを待っとかにゃならんと。……」
「旦那さん」きわは胸に顔を寄せたままでいう。「旦那さんに心配ばかけんごと、しっかいして待っとりますけん、安心してよかとですよ」
井吹重平はきわの体をさらに強く抱きしめ、相手の顔と入れ替わるようにして、両の乳首に交互に唇を接した。
「旦那さんのややば生みたか……」
「え」井吹重平は思わずきき返した。きわの口からそういう類の言葉がでようなどとは考えたこともなかったのだ。
「もしもそうなったら、旦那さんのややば生んでもよかとでっしょ」
「ぬしは、まさか……」彼は慌てた。「もしそうなったらというて、そんげん兆候のあるとじゃなかろうな」
「そいばってん」ときわはいった。「旦那さんのおられん間にしるしの見えたらどうすっとか。そんことばきいておきたかとです」
「おいの留守にか」井吹重平は口ごもる。「何かそういう具合もあっていうとるとなら、今のうちにはっきりしておいた方がよかぞ。隠すことはなかけんな」
「今は何でもありまっせんと。……ただ旦那さんのややを生んだらどんげんうれしかかしれんと思うていうてみたとですけん」
「そいでも今そんげんことになったら身動きできんじゃろう。赤子ば連れて養生所で働くわけにもいかんけんね。どうしてまた急にそがん気になったとかな」
「よんべ、旦那さんの寝顔ば見とる時に、ふっとそん気持ちの湧《わ》いたとです。旦那さんのややと二人なら、いくら辛かことの重なっても辛抱できる。半年が一年のお留守でも、じっとそのややば抱いて待っとらるっとでしょう」
「ややは何時でも生めるとだけん、あんまり早う考えん方がよか」彼はいう。「きわにはまだ、勉強せんならんことや、仕事を覚えんならんことが山ほどあるとじゃけんな。……世の中がいっぺんも二遍もひっくり返って、そいから先はもう動きようもなかという時分に生んでも遅うはなか。おいと二人でまあだこれからという時に、後退《あとじさ》りしてみてもつまらん話たい」
「乳でん何処でん思いっきり消えんごたる傷ばつけてくれまっせ。旦那さんの帰ってきんしゃるまで消えんごたる歯型ば……」
戻ってきた小萩の表情にありありと緊張した気配が見え、井吹重平は盃をおいた。
「何か起きたとか」
「今し方、下に探り番のきたというとですよ。旦那さんが会いなさったらしかとばってん……」
「探り番がおいのことでもききだしにきたとか」
「最初卯八さんのことを、近頃顔ば見せたかどうかきいたあとで、ああたの名前ばだしたというとんなさった。……」
「おいの名前ばだした。そいでどうしたと」
「どうもしまっせんたい。お客のことをきかれてべらべら喋るあんじゃえもんもおらんですもんね。いくら何でもその位の了見は持っとんなさるとでっしょ。なにがしかの銭ば包んで帰ってもろうたというとんなさった」
「卯八か……」彼はいった。「どうせその辺の差し金じゃろうが、卯八をだしにして、門屋にまで目をつけてきたとなら、連中も相当あせっとるとたい」
「卯八さんが向こうの手先になっとるとなら、此処に目をつけるとは当たり前ですもんね」小萩はいう。「そいにしても、あんひとを見損うとった」
「それにしてもよう帰ったな」
「何がですと」
「此処の主人ば訪ねたという探り番たい。素直に帰ったことがかえって怪しゅうはなかか」
「その辺にまだ隠れとるといいなさるとですか」
「おらんといわれて、簡単に引き退《さが》る相手じゃなかけんな。向こう側に卯八がついとればなおさらのことじゃろう」
小萩はじっと彼の顔を見つめた。
「まさかとは思うとったが、卯八がそこまでやるとすれば、安閑とはしちゃおれんな。ぬしとおいのことはみんな知っとるわけやからね」
「選りに選って、こんげん時に……」小萩は呻《うめ》きに似た声をだしたが、すぐさま心を決めるようにつづけた。
「このまま門屋におっちゃ危なか。……明け六ツ(午前六時)まで折角一緒におられると思うたとに、仕方のなかですもんね」
「おいがおらんというて帰ったとなら、踏み込んでくることもなかろう」
「そいでも見張りまで解いたというわけでもなかとでっしょ。探り番の代わりに卯八さんでん何処かに潜んどるかもしれんとですよ。おとろしか……」
「卯八が見張っとるとしても、今すぐはかえって危なか。連中の手口は丸見えだけんな」
「手口といいなさると……」
「初め、探り番にゆさぶらせといて、でてきた獲物の後をつけさせるという手口たい。びくついて逃げだしたら、それこそ思う壺にはまるとよ」
「おとろしか」
「案じることはなか。向こうの手口ははっきりしとるとだけん、そん裏をかけばよかと」
「どんげんしなさるとへ」
「明け六ツじゃ手の内じゃろうけん、時刻ばずらして寅《とら》の刻(午前四時)にでん、裏口から出て行くたい」
「すみまっせん」
「何を、ぬしがあやまることがあろうか」
「うれしかとですよ。ほんなこつは、今すぐにでん裏口から出なさった方がよかとでっしょ」
「いや、今すぐはかえって危なか。裏口ちゅうとも手の内じゃけんな。向こうも半信半疑じゃろうから、下手に動きださんとがかえって得策じゃろう」
「いざということもあるけん、寝間にはおらん方がよかとでっしょね」
「まあ、そんげんこともなかろうが、念のために着物はこのままの方がよかかもしれんな」
小萩は彼の盃に銚子を傾け、返盃されるとものもいわずそれを一気に飲み干した。きわとくらしている家もまた探知されているかもしれぬ、という不安がしきりに胸をかすめる。しかしそれなら今夜といわず周辺にそういう気配があったはずだ。
「うちは辛抱しますけん、矢張り此処にはおらん方が……」
井吹重平は手をのばして小萩の首筋をなでた。
「ぬしば抱きもせずに別れらるっか。……」
「そいでも……」
「七ツ(午前四時)か七ツ半(午前五時)頃、こっそり脱けだせばよか」
「気ばかりせいて」小萩は胸に手をあてた。「早う抱いてくれまっせ」
「寝間に行くか」
「このままでもよかとですよ」
「此処じゃ情《じよう》もなか。折角の晩じゃけんな」
「もしやの時に、寝間では間に合わんけん……」
「いや、寝間でちゃんと着物ば脱ぐたい。おいとしたことがさっきは妙なことをいうてしもうて……」井吹重平はいう。「ぬしと抱き合うとる時に踏み込まるっとなら、そいも本望たい」
「うちはああたをどんげんしようもなかごと好いとっとですよ。そいだけ忘れんごとしとってくれまっせ」
「ぬしよりおいの方が余分に好いとるかもしれん」
「すらごと」
「すらごとなもんか」
小萩は両の掌を重ねるように井吹重平の手をとり、衝立《ついたて》の向こうに敷かれた夜具へと導く。