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私の西域紀行08

时间: 2019-05-23    进入日语论坛
核心提示:八 崑崙の玉 八月二十三日、快晴、いくらか肌寒い。七時三十分、迎賓館を出発、ウルムチ(烏魯木斉)空港に向う。今日は飛行機
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 八 崑崙の玉
 
 八月二十三日、快晴、いくらか肌寒い。七時三十分、迎賓館を出発、ウルムチ(烏魯木斉)空港に向う。今日は飛行機で天山を越え、さらにタクラマカン沙漠のどこかを横切って、崑崙山脈北麓のホータン(和田)に飛ぶ日である。
 こんどの旅行では、ホータンが一番興味ある場所である。新疆ウイグル自治区で、最も関心を持つ都邑を一つ挙げるとなると、私の場合はこのホータンということになる。ホータン周辺の地帯が、漢や唐の史書に、西域南道の強国として登場する于《うてん》国の所在地に他ならないからである。
 今日、たくさん出版されている専門家諸氏の研究書に依ると、于という国は、前二世紀頃、すでに東西貿易の中継市場として繁栄しており、イラン系、インド系の多彩な文化が花咲いていた国際都市で、拝火教も行われ、独自な言葉も持っていたようである。時代が下ると、仏教が盛行し、仏寺も多く、すぐれた仏教美術も生み出され、西域南道に特殊な大文化圏を打ち樹《た》て、それは十一世紀頃まで続いている。こうした往古の于国の繁栄を支えた最も大きいものとしては、この国を流れる白玉河、黒玉河から採取される軟玉が挙げられるのが普通である。謂《い》うところの崑崙の玉である。
 それならば一体、往古のこの優秀な于国人はいかなる民族であったろうか。詳しいことは判らぬにしても、間違いない言い方をするとなると、インド・ヨーロッパ語族ということになろう。ひとり于人ばかりでなく、西域の諸オアシスに定着し、それぞれ小さい国を樹て、独自の文化を生み出していた諸民族が、やはり、同じこの大まかな呼称に包括される。
 こうした西域の事情は十一世紀に於て一変する。怒濤のようにトルコ系の遊牧民・ウイグル族の大集団がこの地域に流れ込み、インド・ヨーロッパ語族の政治的、経済的、文化的活躍は、ここに全く終止符を打たざるを得なくなり、以後、この地帯はウイグル人の居住圏となる。斯《か》くして西域の時代は終り、この地帯は東トルキスタンと呼ばれるようになって、今日に到っているのである。
 言うまでもないことであるが、往古の于国の王城も、またこの優秀な民族が造った寺院も、城砦も、大小の集落も、すばらしい文化遺産も、現在は何一つ遺っていない。その尽《ことごと》くがタクラマカン沙漠の砂の中に埋まってしまっているのである。
 何もかもが沙漠の中に埋まっているにせよ、一番知りたいことは、于国盛時の王都がどこにあったかということである。現在のホータンはもとイリチと呼ばれていた集落であって、いまのようにこの地区の中心都邑になったのは、正確にはいつからのことか判っていない。清時代にホータンと呼ばれていたということが確かめられるぐらいである。
 それにしても、于国の王都はいつ、いかにして廃墟になったのであろうか。史書は、それについて何も語っていない。臆測の範囲を出ないが、于の王都の亡びる理由は二つしか考えられない。一つは自然環境の変化、つまり、白玉、黒玉両河の河道の変遷である。この崑崙山脈に源を発する両河は、往古から屡々河道を変えている。
 もう一つは人為的なことである。史書に見る仏教盛行の于国の、回教国への切り替えは、十世紀末から十一世紀にかけて為されている。言うまでもなくこの時期に、于の仏教徒たちは、新しく侵入して来た回教徒たちと闘い、そして敗れているのである。于の王都が廃墟となり、砂の中に打ち棄てられる運命を持ったのは、河道変遷によるものでない限り、この時を措いては考えられない。
 スタインは于国の王城を、現在のホータン西方一一キロの地点にあるヨートカンの廃墟に当てており、それが一般に認容されて、今日に到っている。このヨートカンの廃墟の他に、この地区には同じスタインに依って掘られた于国時代の寺院遺跡もある。ダンダーン・ウイリックと呼ばれている沙漠の中から出てきた遺跡である。これなども、同じ時期に廃墟となってしまったのであろう。
 私のホータン行きには、いろいろなものが詰まっていた。ヨートカンの廃墟には是非立たなければならないし、ダンダーン・ウイリックなるところも見たかった。“月光盛んなる夜々、玉《ぎよく》を産す”と、史書に記されてある白玉河、黒玉河の岸にも立ちたかった。「崑崙の玉」という小説も書いているので、作者として、その川筋ぐらい眼に収めておく必要があった。また「異域の人」という小説で、主人公の後漢の将軍・班超に、生涯を西域で終ろうという決意をなさしめたのは、于の王城の前であった。せめてその地帯に揚がるタクラマカン沙漠特有の砂塵ぐらい、自分の肌で感じておきたかった。
 それからまた、于国人の後裔《こうえい》たちが、どんな容貌を持ち、どんな習俗の中に生きているかも知りたかった。イラン系、インド系、漢族系、それからウイグルと、二千余年にわたっての複雑な血の処方箋を持っている人たちと、葡萄棚の下でお茶でも飲んでみたかった。
 もちろん、タクラマカン沙漠の一画にも足を踏み入れなければならない。ウイグル語ではタッキリ・マカン。タッキリは“死滅”を、マカンは“広袤《こうぼう》”を意味するという。タクラマカン沙漠は、“死の沙漠”、“不帰の沙漠”なのである。この沙漠も、ずいぶん書かせて貰ってあるので、義理にもそこに立たなければならなかった。
 ホータンというところは、私にとって、ざっと、まあ、このようなところであった。
 八時四十五分、ウルムチ空港離陸。アントノフ24、四六人乗り。ホータンまで三時間半の予定、途中、天山南路のアクス(阿克蘇)に降りるという。
 飛び立つと、すぐ大耕地。いろとりどりの短冊型の耕地が現れ、その地帯が切れると、いきなり大丘陵地帯の上に出る。丘陵というより、大小の山が竝び重なっているのである。赤い山、灰色の山。一木一草ないところをみると、岩山なのであろう。そのうちに薄く緑を塗られた山も見える。山は次第に大きくなって来る。
 今日は天山山脈のどこかを、北から南へと越えなければならぬ。ウルムチから伊寧(イーニン)に向う時も、ふんだんに天山山脈に付合ったが、その時は天山山脈の北側に於ての、天山山脈に沿っての飛行であった。一つ二つ、山脈も越えたが、それは天山の支脈の一つであるに過ぎなかった。今日は、天山山脈という山脈の全部を、北から南へと越えさせて貰うことになる。こうなると、小型の飛行機であることが有難い。余り高く飛べないので、天山を間近に見物することができる。
 山、波立って来る、次から次へ、あちらからも、こちらからも、山は波のように押し寄せて来る。その幾つかの山は、頂きに雪を白く置いている。山は褐色、雪はそこに白い布でも掛けたように見える。
 山肌、赤味を帯びてくる。陽が当って来たためであろうか。蔭になっている部分は黒っぽい。やがて、雪をかぶっているたくさんの山が、波のように拡がって来る。無数の雪山の集団である。白い波頭を立てて、波が押し寄せて来るのに似ている。巨大な山の背である。何十本の竜骨! 一番遠いところは、雲でも湧いているように、雪が湧いている。
 漸くにして山脈の背を越して、漠地の上に出る。九時三十分である。次第に雪の山脈、遠くなる。下には赤味を帯びた灰色の漠地が置かれている。が、再びまた、山の波立ちが近付いて来る。しかし、こんどは先刻ほどの凄さはない。頂きの雪も少く、無数の山の刻み方も、先刻ほど荒くない。
 やがて、山脈群を越して、再び機は平坦な地帯の上に出る。が、すぐまた雪の山脈、近付いて来る。しかし、これも先刻ほどの凄さはない。それだけに視界はひらけて、景観は雄大である。東西二〇〇〇キロ、南北四〇〇キロの山脈の束である。機がこの巨大な山脈群を、どのようにして越えているか見当がつかない。
 再び山脈群を背にして、平坦な地帯に出る。十時である。機は大地の無数の皺の上を飛んでいる。ガス、深くなる。
 十時十五分、一木一草なき丘陵地帯の上を飛んでいる。タクラマカン沙漠の上であろうか。丘という丘の、それぞれが浮き彫りでもされてあるように見える。観音が刻まれてあったり、魚の骨や葉脈が捺されてあったりする。
 やがて、丘陵地帯を脱けて、全くの沙漠の上に出る。長く細い糸のような川筋が走っている。しかし、また丘陵地帯、たくさんの浮き彫り。
 三度、そこを離れて、沙漠の上に出る。チョコレート色の川、用水路、短冊型の耕地、そのうちに大河が現れてくる。これもチョコレート色である。やがて、次第に大オアシス地帯が大きい貫禄で拡がってくる。たくさんの用水路、たくさんの川。水は赤く濁っている。
 十時三十五分、機はアクスに着く。気温二十一度。休憩三十分。空港の待合室で、西瓜、ハミ瓜をご馳走になる。
 十一時離陸。すぐ大耕地の上に出るが、こんどはガス深く、何も見えない。
 十二時二十分、機は高度を下げる。漠地が見えてくる。大河も流れており、耕地も挟まれている。やがて、たくさんの川が網の目のように入り混じっている地帯が見えて来る。川というより水域というべきかも知れない。本流も、支流もなく、流れはそれぞれに無数の洲を持っており、洲はどれも白く見えている。
 その奇妙な水域地帯を脱けると、大耕地が拡がってくる。十二時二十五分、機はホータン空港に着陸。
 
 全くの沙漠の空港である。飛行機は他に一機も見えない。空港の敷地はメリケン粉のような細かい粒子の砂に覆われている。空港は仕切りといったものはなく、そのまま沙漠につながり、また町につながっている。陽光は明るく、風は強い。気温は二十七度。
 空港には王彬氏とアティク・クルバン氏が出迎えて下さる。共にホータン地区革命委員会副主任で、アティク・クルバン氏はウイグル族である。出迎えのくるまで、町に向う。高梁畑、白い花の綿畑、ポプラの竝木、みんな砂埃りをかぶって白くなっている。
 路傍の男女の服装は、これまでのところとは少し異っている。何となく西域の本場に来た感じである。大人も、子供も、こちらを見守っているだけで、歓迎の意は表さない。笑いもしなければ、手も振らない。外国人に馴れていないのである。尤も解放後、この町を訪れた日本人はなく、私たちが初めてだという。明治時代には大谷探検隊の橘、渡辺、堀の三隊員が、ここに滞在している。
 簡易舗装のポプラ竝木の道が、どこまでも真直ぐに続いている。驢馬に乗った老人、驢馬に乗った子供、ここも驢馬が交通機関になっている。女の服装はまちまちだが、派手な色と模様のせいか、何となく着飾っている感じである。しかし、みんな埃りを浴びて、白くなっている。
 町に入る。閑散としていて、いかにも沙漠の中の町の感じである。ふと、夕暮時は淋しいだろうと思う。一台の自動車も走っていない。車道の両側は舗装されていないので、そこから埃りが舞い上がっている。建物は白、黄、青、思い思いの色で塗られている。家も、店舗も、道も、通行人も、みな砂埃りを浴びている。タクラマカン沙漠の町なのである。
 くるまは大通りを折れて、古い城壁様のものに沿って、ホータン地区革命委員会第一招待所に入る。空港から三十分。
 部屋はトルファン(吐魯番)の招待所と同様、粗末な造りであるが、寝台は二つ、床には絨毯が敷かれてある。なかなかきれいな絨毯である。それに部屋には洗面所もついている。
 鞄を置くと、靴だけ脱いで、すぐ寝台の上に横たわった。とうとう于の故地にやって来た、そんな気持で、仰向けに倒れたのである。倒れると同時に眠った。三十分の午睡であったが、目覚めると、ひどく体も気持も軽くなっている。
 
 昼食後、招待所の一室で、革命委員会の人たちと滞在中のスケジュウルの打合せをする。卓の上には林檎、梨、葡萄、西瓜が出ている。それから灰皿には赤い色の細い線香が立てられている。まさしく線香以外の何ものでもないが、同じ線香の匂いが、ここでは何とも言えず爽やかに感じられる。
 スケジュウルの打合せの前に、アティク・クルバン氏からホータン地区の概況について説明を聞く。氏が隣席に坐ったので、話を聞く前に、ノートに名前を書いて貰う。──阿提・庫爾班。なるほどと思う。
 ──ホータン地区には七つの県がある。皮山県、和田県、墨玉県、洛浦県、策勒県、于田県、民豊県。
 ──ホータン地区の人口は一〇五万。住民は漢族、ウイグル、回族、ウズベク、ハザック、モンゴル、チベット、キリギス等。このうち九五パーセントを、ウイグルが占めている。
 ──和田県、つまり私たちが入ったホータンの町は、人口四万。
 ──ホータン地区には大小二十三の川が流れている。いずれも崑崙山脈から流れ出し、大オアシスを作っている。白玉、黒玉の二大河は、この地区の両側を、この地区を抱くようにして流れている。
 ──この地区から生み出されるもの
  (鉱 物)石炭、鉄鉱石、銅、金、鉛、雲母
  (農作物)トウモロコシ、小麦、水稲、大麦、綿、豆類
  (牧 畜)牛、羊、馬、驢馬、駱駝、豚、鶏、あひる
  (果 物)葡萄、林檎、桃、李《すもも》、杏《あんず》、ざくろ、無花果《いちじく》、くるみ、瓜類
  (特産品)絹織物、玉石、絨毯、桑の木の皮で作った玩具
 ──解放前の、この地区の住民の生活はひどかった。砂嵐と、春秋二回の旱魃《かんばつ》の被害、交通不便の僻地《へきち》であるための孤立、工業はなく、経済的には貧しく、半年は桑の実と、杏を食して過す者が多かった。着衣は羊の皮(これは昔からの作り方で作って着物にしたもの)、照明は木の皮を燃した。もちろん、自動車は一台もなかった。
 ──解放前には小学校は一〇〇しかなかった、いまは一四二六になっている。中学校は全然なかったが、いまは七〇、病院も一つしかなかったが、現在は九つに殖えている。学齢期に達した児童の九五パーセントは就学している。
 ──養蚕業は、解放後大きく発達し、生糸の生産量は二十一倍になり、手工業だった絨毯、手織絹製品は工業化されて、大きい収益を上げている。
 説明を聞きながら、まことにその通りであろうと思われた。この町に入って、まだ二時間ほどしかならないのに、ふしぎに気持は素直になっている。確かに、生きることが容易ではない地帯に、いま自分たちは入っている、そんな気持である。
 そしてこの地区の人たちは新しい時代を迎え、必死に自然の条件と闘って、それを乗り越えて、よりよい生活を自分たちのものとしようとしているのである。
 が、それはそれとして、短い滞在に於てのスケジュウルが、玉《ぎよく》の採購站参観と、絹織物工場見学と、黒玉河の水力発電所訪問の三つにしぼられてしまうと、わざわざホータンまでやって来た意味がなくなってしまう。
 ──ヨートカンに行けますか。
 ──砂に埋まってしまって、何もありません。
 ──何もなくてもいいから、その地点に立たして貰いたい。僅か一〇キロでしょう。
 ──一〇キロですが、沙漠で道はありません。ジープを使っても、たいへんです。
 ──ダンダーン・ウイリックは?
 ──これも砂に埋まってしまって、どこにあるか判りません。一九二八年に、中国の考古学者黄文弼が何日かかけて探しましたが、ついに判りませんでした。そのあと五九年に、ウルムチの博物館編成の調査隊も、于田県から策勒県まで、難渋の旅を続けたが、ついにそれらしいところは発見できませんでした。
 ──他に、この近くに于国の遺跡と思われるところはありませんか。
 ──黄文弼の「塔里木《タリム》盆地考古記」に記されたところが、一、二カ所ありますが、その後誰も訪ねた人はありません。いずれにしても、駱駝で二、三日を要するでしょうし、本格的な装備なしでは行けません。
 こうなると、どうすることもできない。私の質問に対しては、アティク・クルバン氏に替って、古文物関係のポストにある若い人が答えてくれたのであるが、納得できるような、できないような複雑な気持であった。
 
 この打合せが終ると、今日は玉の採購站と、絹の手織工場を見学し、夜は王彬氏の招宴があることになっている。その夜の宴席に古いことにも詳しい人たちが出席するということなので、改めて于関係の遺跡を訪ねることの交渉をし直すことにする。
 
 玉の採購站に行く。ここは玉の陣列場でもあり、玉を買いとる機関でもあり、ここに集った玉を全国の加工工場に分配する役所でもある。ここで主任さんが説明してくれたことを、一応ノートする。
 ──ホータンの玉は国の内外でよく売れる。白玉河、黒玉河の二つの川が玉を産す。白玉河は白玉、黒玉河は黒玉と緑玉を出す。特徴は清潔で潤いがあり、固くて粘りがある。詳しく分けると、白玉、碧玉、青花玉、黒玉、黄玉、緑玉の六種になる。一番品質の上等なのは白玉で、上質で、傷のないものが貴ばれる。
 ──採集法は、秋の洪水の季節に川で拾う。春、陽気が暖かくなると、崑崙の雪が融けて、川は氾濫する。その時川に流れてくるのを拾う。川に玉があるのではなく、川に打たれ、滑らかになって、流れてくるのを拾うのである。陣列場にひと抱えほどの大きい玉があるが、これも川から拾ったものである。
 ──川で拾う以外は、山にある玉鉱山で採掘する。玉の鉱山といっても、鉱脈をなしているわけではない。玉の固まりが砂利の中に埋まっているのである。
 ──ホータンに於て、山で掘ったり、川で得たりした玉は、全国五十幾つかの加工工場に分配される。飛行機でトルファンまで送り、そこから各地の加工工場に列車で運ばれる。
 ──ここ玉の採購站は、一般の人から玉を買い入れる場所でもある。現在は誰でも、川に行って、玉を拾うことができる。そうしてここに集った玉は、秋に全国各地の加工工場の人が集って来るので、その時分配する。
 ──最近、ある人が一五〇キロの大きなのを見付けて、ここまで運んできた。相当の金額のものである。個人の収入にはならないが、その人の属する生産大隊の収入になる。これほど大きいものになると、加工工場には渡さないで、何か特別な記念物を造る時のものとして保存しておく。
 ──玉についてはウイグル族の人が、鋭い鑑定眼を持っている。
 ──現在、採掘を主にして、一年に二〇トン乃至五〇トン。川で拾うものは二、三百斤ぐらいである。
 それにしても崑崙という山はふしぎな山だと思う。二千年以上に亘って、玉を産し続けているのである。高居晦が于に使したのは五代時代、十世紀の前半であるが、その時の旅の記録である「于行記」に依ると、当時は崑崙山より流れる一本の川は、于に到って三つに分れ、それらは、白玉、緑玉、烏玉と名付けられていた。毎年秋、河水の涸れる時を待って、国王が先ず玉を獲り、然る後に、国人もまた河に入って玉を獲ることができた。
 王が玉を獲る時は、玉の採集人である回子(土着ウイグル人)たちは河中に一列に並び、素足で河床の石を踏みながら上流へ、上流へと進んでゆく。回子たちは己が脚で玉を踏むと、水中に身を屈めて、それを拾い上げる。すると船に乗って監視している兵たちによって銅鑼《どら》が鳴らされ、それを合図に、吏員によって、玉の数が帳簿に書き込まれる。
 そして回子たちの列が上流に去って、岸に上がると、新しい回子の列が下流に現れ、これも上流に向って進んでゆく。こうしたことが繰り返されるのである。おそらく何夜か、国王は川を独占し、そのあとで国人に川を開放したのであろう。
 高居晦が于に使したのは十世紀前半であるが、おそらくそれより千年前から、いかなる獲り方をされていたかは判らないが、玉は于国の大きい繁栄を支えていたに違いないのである。
 その于国は亡び、その曾ての栄光も、王城も、王都も尽くタクラマカン砂漠の砂の中に埋まってしまって跡形ないが、ただ一つ玉だけが、いまも崑崙山によって生み続けられているのである。
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