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私の西域紀行09

时间: 2019-05-23    进入日语论坛
核心提示:九 セスビル遺跡 八月二十四日、今日は朝食が十時ということになっているので、ゆっくり眠っていていいのだが、八時に床をはな
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 九 セスビル遺跡
 
 八月二十四日、今日は朝食が十時ということになっているので、ゆっくり眠っていていいのだが、八時に床をはなれる。寝足りている。このところ少しも疲れはないが 、睡眠は六時間とっていない。多少昂奮しているのかも知れない。
 招待所の広い庭を歩く。民兵の腕章をつけた兵隊二人、一人は門のところに立っており、一人は庭を歩いている。花壇があちこちにあって、いろいろな花が咲いているが、みな砂埃りをかぶっている。ダリアも砂で白くなっている。庭にはポプラの木が多いが、これも全身埃りをかぶって、白っぽくなっている。細かい砂の埃りである。庭を少し歩くと、靴もまた砂で真白になる。
 部屋に戻って、机の上に置いてある線香を立てる。線香の匂いがこの土地ではたまらなくいい。ここまで来ると、何もかも多少調子が変ってしまう。
 午前中は絹織物工場、午後は水力発電所と黒玉河、夜は民族舞踊、明日は午前中に白玉河、──これでホータン(和田)の見学も終り、正午、空路ウルムチ(烏魯木斉)に向う。これが昨夜、本決まりになったスケジュウルである。遺跡一つ見られないのは残念であるが、遺跡という遺跡は全部砂に埋まってしまって、何もないというし、大体その場所に行くのも容易なことではないという。昨夜の地区革命委員会副主任王彬氏の招宴に於ても、話はそこから一歩も出なかったので、諦める以外仕方がない。
 
 朝食後、絹織物工場の参観に出掛ける。孫平化、團伊玖磨、白土吾夫氏等の顔は見えるが、他の諸氏は欠席。みな疲れているのである。町に出ると、砂塵はもうもう。砂利の道であるが、その上に置かれてある砂が舞い上がるのである。道の両側は麻畑、麻は楓《かえで》に似た葉を持っているが、それが砂に塗《まみ》れている。
 町のあちこちに工事場のように土が積み上げられてあるが、どれも大風で壊れた土塀の残骸だという。やがて、道は乾河道に沿って走る。乾河道は、全くの川の屍の感じである。くるまの走っている道も、いつか砂の道になっている。その砂の道の中央に砂利が敷かれてあって、くるまはその部分を走っているのである。
 くるまは、そんな道を通って、絹織物工場へ入って行く。たいへんな出迎えである。工場全員と、その家族が歓迎してくれる。広い工場の敷地内は、どこへ行っても、人垣が造られている。
 接待室は美しく作られてあった。そこで林檎、葡萄、桃、西瓜、マクワ瓜、白蘭果(ハミ瓜に似ている)、さくらんぼなどが、卓を埋めている。
 ここの工場の従業員は一四〇〇名、そのうちの六〇パーセントが少数民族である。昔のシルクロードの町が、今は絹の産地になっている。
 
 午後の水力発電所と黒玉河行きは欠席にする。おそらく黒玉河はダムになっているのではないかと思うので、その方は割愛することにし、部屋で日記の整理をする。昨夜の招宴に於て、同じ卓子に就いた人たちから聞いた話をノートする。
 ──この地区は、強風のため、一夜で砂丘が引越すのも稀でない。そのくらいであるから人の住む所も、南へ南へと、風や砂に追われ来た。しかし、現在は人間が寧ろ沙漠を追っていると言える。新疆地区では実に一〇〇万町歩の沙漠を耕地に変えている。
 ──砂嵐は春から初夏にかけて、特に五月が一番多い。天の一画に黒雲が現れたと見るや、それがあっという間に拡がって、押し寄せて来る。そのとたんに風が吹き出し、長い時は二日も三日も風はやまず、天地は真暗である。昼間でも電燈をともすが、家の内部にも砂が入って来ていて、ために電燈が見えない時もある。
 ──暑さは七月から八月にかけて厳しい。最高は四十一度ぐらい、トルファン(吐魯番)ほどではない。大体三十一度から三十五度ぐらい。寒さは一月が烈しく、零下二十度ぐらいにはなる。雪はめったに降らない。降っても積ることはない。
 ──木の芽がふき出し、桃の花が咲き出すのは三月。
 ──この地区にはひまわりが多い。到るところにひまわりが植っている。気候風土の関係か、ひまわりの花の黄が美しく見える。周囲の灰色の山や、灰色の土屋を背景にして、ひまわりの黄が鮮やかに目立っている。栽培している畑も多く、食用油をとる。ナン(麭)を作る時、このひまわりの油を塗って焼く。ピラフをいためる時も、この油。また関節炎を癒す時にも、この油を使う。実は撮《つま》みものにする。
 ──この地区には沙棗《すななつめ》が多い。沙漠の木である。招待所の庭の塀際は、この沙棗の木で埋められている。花の頃は匂いがいい。ために別名を“香妃”という。
 ──ウイグル族を見分けるのには、纒っている衣服に依るのがいい。ウイグル族の男女は、共に必ず何かをかぶっている。老人は昔通り家の中でもかぶっているが、現在は若い者は家にはいると脱ぐ。子供の帽子はブック、女の帽子はトッパという。形は同じであるが、ブックの方は赤い色が多く、トッパの方は緑色が多い。女の着物はアキレス。アキレスの生地は新疆地区の全ウイグル族が生産するもの。中国で色模様の服を着るのは、ウイグル族だけである。
 ──現在の于田は昔の沙《ひさ》である。これは漢名であるが、ウイグル語ではケリヤ。今でもウイグル族の人は于田とは呼ばないで、ケリヤと呼んでいる。もちろん今の“于田”は往古の“于”の名残りではない。現在の于田の人とホータンの人の生活様式はひどく異っている。同じウイグル語ではあるが、訛《なま》りが違う。于田の女性の帽子は、ホータンのそれに較べて非常に小さく、それをスカーフに縫いつけている。こういう帽子は于田だけである。帽子の小さいところはカシュガル(喀什)地方に似ており、言葉の訛りもカシュガルに似ている。于田の人たちは、自分たちの祖先はカシュガルから来た、と言っている。衣類も多少異る。ホータンは縦縞であるが、于田の方は、衣類の上に羽織るものに横縞が入る。下の服装は同じだが、外套様に羽織るものに横縞が入るのである。
 ──ウイグル族の埋葬。死体を布で巻き、それをかついで洞窟に入れ、入口を土で塗りつぶす。民豊県附近のウイグルだけは棺を造り、鄭重に埋葬する。民豊県は漢代の精絶で、今は土地の人からニヤと呼ばれているところであるが、往時仏教が栄えたところであるので、死人の埋葬も鄭重なのであろう。そう言えば、私自身、この町で、自動車から葬式を見ている。一団二〇人ほどの男たちが固まって、互いに腕を組み合うようにして口々に何か叫びながら行った。スクラムを組みながら号泣しているに似ていた。そしてそのスクラムを組んだ一団の最後の方で、四人の男が長方形の箱か包みのようなものを担いでいた。葬式だったのである。
 ──客のもてなしには、羊のまる焼に勝るものはないが、特に羊のまる焼を多く造るのはホータンが一、ヤルカンドが二である。
 ──長安からホータンまで、昔は片道一年かかったのではないか。往復二年ということになるが、途中事故にでも遇うと、三年も、四年もかかったことだろう。十世紀前半の高居晦の場合は、その往復に五年かかっている。
 ──タクラマカン沙漠は、漢語では塔克拉瑪干沙漠、ウイグル語ではタッキリ・マカン。タッキリは滅亡、壊滅、死亡を意味し、マカンは広袤《こうぼう》、果てしなく広い地域を意味している。従って、タクラマカン沙漠は、死の沙漠であり、不帰の沙漠である。一度入ったら帰ることのできない場所である。タクラマカン沙漠に対するこうした見方は、今でも土地の人の心の中に生きている。特別な用事でもない限り、一人であろうと、集団であろうと、タクラマカン沙漠の中に入って行くような者はない。
 ──タクラマカンの中には原始林もある。ウルムチの新疆ウイグル自治区博物館の現副館長李遇春氏がニヤ遺跡を調査した時の話である。猟師を道案内として、ニヤ遺跡から更に北方に、砂丘を越え、砂丘を越えて行ったところ、沙漠の中に紅楊と胡楊の原始林があった。そこには動物も居れば、鳥も居た。林は紅楊と胡楊の二つだけだった。この植物は沙漠の中でも生きられるのである。
 ──タリム河はカシュガル・ダリヤ、ヤルカンド・ダリヤ、ホータン・ダリヤの水を集め、沙漠の北辺を東流して、盆地東部に内陸湖ロブ・ノールを造っている。このタリム河は流れては沙漠の中にもぐり、また地上に出て、再びもぐるという、もぐったり、出たりしている河である。
 ──白玉河、黒玉河の合流点は紅白峠と呼ばれているところで、ホータンより北方一〇〇キロの沙漠の中である。峠という名がついたのは、おそらく砂丘を越え、砂丘を越えて行くからであろう。白、黒両河は合流して、ホータン・ダリヤとなるが、ホータン・ダリヤも合流してからもぐったり、出たりしながらアクス(阿克蘇)の方に流れて行き、やがてタリム河に収められる。
 ──今のホータンは曾てイリチと呼ばれたところで、いつここがホータンと呼ばれるようになったかは不明。昔のホータン、つまり于の王城の地はどこへ行ったか。今のホータンの北方の沙漠の中に、スタインによって、それと目された遺跡ヨートカンがあるが、現在中国ではそれに対して、未発表の形ではあるが否定的見方をしている。こんなところに于の本城があろう筈はないという結論。またスタインの掘った寺院遺址ダンダーン・ウイリックの方は、現在その位置不明、すべては沙漠にのみ込まれてしまっている。
 
 部屋でノートを整理していると、白土吾夫氏がやって来て、ホータン南方二五キロのところに古代遺跡があるらしく、そこへ案内してくれるというが、行ってみるかという。もちろん行くと答える。すると暫くして、再び白土氏はやって来て、カメラを持たぬことが条件になっている。それでもいいかという。
「カメラなんか、持とうが、持つまいが、いっこうに何でもない。タクラマカン沙漠の中に入れて貰えれば、それで満足する。ましてその中にある遺跡の一つに立たせて貰えるというのであれば、他の誰にでもない、自分自身に申し訳が立つ。西域南道のホータンまでやって来て、絹織物工場を見ただけだとあっては、白玉河にでも身を投げる以外仕方がないではないか」
 私は言った。半ば冗談、半ば本気だった。私も笑い、白土氏も笑った。それにしても、どうしてこういうことになったのか見当がつかない。
 四時四十五分出発。孫平化、白土吾夫両氏と私。それに現地の人たちが加わり、かなりの数になる。ジープ五台に分乗。
 空港の方角、つまり南に向う。すぐ沙漠地帯に出る。タクラマカン沙漠がホータンを包んでいるというか、ホータン・オアシスがタクラマカン沙漠に抱きとられているというか、いずれにせよ、ホータンと沙漠はそういう関係にある。
 驢馬に乗っている人が多い。ここでは驢馬は交通機関である。ホータン県紅旗人民公社の前で停車。道案内の人が出て来て、うしろのジープに乗る。行先はこの公社の管轄下にあるという。
 きのう来た空港からの例の長い一本道を逆に、ジープは走っている。やがてジープは空港の中に入るが、すぐ左に折れ、沙漠の中に入って行く。あす自分たちが乗る飛行機が一機、広い空港内に見えている。町から空港までは九キロの由。
 東に向う。一木一草ない荒蕪地が拡がっている。全くの小石の原で、駱駝草が少々生えている。やがて方向を東南にとり、何となく道と思われるところを走っている。左手に沙棗の群落が見えている。前のジープの上げるもうもうたる砂塵の中のドライブとなる。
 男一人歩いている。この地帯も駱駝草が少々、遠くに沙棗の群落、白い袋を背にした驢馬一〇頭。ジープは方向を南にとる。やがて、道はなくなり、先導のジープのあとについて走る。左手遠くに低い砂丘の帯が見えて来、前方を竜巻が走っている。
 沙漠の中を、どこへ行くのか、男一人歩いている。右手に低い砂丘が竝んでいる。
 一面、黒い小石の地帯になる。ジープは方向を変え、右手の砂丘の突端部を目指す。美しい砂丘である。そして傾斜している砂丘の裾の方へ降りて行く。突然、大きい川の流れが視界に入って来る。白玉河であるという。広く大きい眺めである。
 停車。五時二十分である。ジープから降りて、白玉河の河原に出る。方々に瀬を持ち、淙々《そうそう》と川瀬の音を立てている流れである。流れの中に岩もあり、洲もあり、洲には雑草が生えている。流れの左手には大砂丘が連なっている。
 出発。間もなく小さなオアシスの集落に入る。紅旗人民公社の第二農場である。このオアシスを突き抜けて二キロの地点に、目指す遺跡があるという。全くの土塀の集落である。どの家も土塀を廻らしている。
 集落には五人五様の帽子をかぶっている男たちが居る。路傍に立って、ジープを迎え、見送っている。方々に沙棗の木が植っている。土屋と土屋の間には高梁畑が置かれたり、ひまわりの畑が置かれたりしている。それにしても集落の中の道はひどい。アップ・ダウンが烈しく、しかも石ころが多く、ジープは難行苦行である。畑も土屋も土塀に囲まれており、土塀と土塀に狭まれた道を、ジープは大揺れに揺れて行く。
 
 漸くにして小さい集落を出て、沙漠の中に入って行く。いかにも沙漠と闘っている人民公社の感じである。大砂丘、限りなく続いている。駱駝草、点々。
 やがて行手に、巨石のようなものがあちこちに散らばっている地帯が見えて来る。駱駝草の原を大廻りに廻って行く。前方の眺めは、次第に遺跡らしくなって来る。土壇か、城壁の基底部か、そんなものが、見晴かす遠方まで、広い範囲に散らばっている。大きな遺跡である。
 ジープは遺跡に入り、一番奥の城壁の基壇が点々と置かれている地帯に行く。そこでジープから降りる。来る途中、案内人としてうしろのジープに乗り込んだ人がやって来て、
「ここは、黄文弼が“塔里木《タリム》盆地考古記”に書いているセスビル(什斯比爾)という遺跡です。セスビルは漢字にすると“三道墻”つまり三重の壁という意味です。三重の城壁を廻らしていた城市とでもいうのでしょうか。黄文弼の調査では南北一〇キロ、東西、つまり砂丘と白玉河の間は二キロ、細長い大遺跡です。さっき通った集落の入口に大きな土塀がありましたが、あの辺りも遺跡の中に取り入れられてしまいます。ここがいかなる遺跡であるか国家文物局の結論はまだ出ていません。ごらんになって判るように、ちょっと比肩するもののないような大遺跡です」
 そう説明してくれた。いずれにしても、ぐるりと沙漠に取り巻かれた白玉河西岸の遺跡であって、遺跡も、白玉河も、遠く、近く周囲に砂丘を配している。城壁の基壇と思われるものは、もちろん巨大な土の固まりであるが、傍に近寄らない限り石のように見え、その数は何十か、ちょっと見当がつかない。
 土塁様のところに登ってみる。東西南北、どこへ限を遣っても、城壁の土壇が眼に入って来る。広い遺跡内には駱駝草が少々生えているだけで、一面に陶片と、石片が散乱している。同行の誰かが何個かの古銭を拾う。その一個は開元通宝である。また誰かが古い石臼を見付ける。
 そのうちに北の方から砂塵が立ちのぼってくる。砂嵐である。忽ちにして、白玉河の上流の方は砂塵に覆われてしまった。砂嵐は十分ほど続いて、北と東の方は全く砂塵に塗り込められて、見えなくなってしまったが、そのうちに薄紙をはぐように、明るさを取り戻して行った。
「黄文弼がこの遺跡に来た時は、ホータンを駱駝で発って、二日目に着いています。ここにジープで入ったのは、こんどが初めてです。先刻の集落ができているのでジープで入れましたが、それ以前は、ここに来るには駱駝の世話になる以外仕方ありませんでした。尤も、わざわざここにやって来る人はありませんがね。昔もありませんし、今もありません」
 案内してくれている人は言った。
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