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私の西域紀行20

时间: 2019-05-23    进入日语论坛
核心提示:二十 カシュガル入り 八月十日、七時起床、快晴、昨夜は宿舎のトルファン県招待所の葡萄棚の下で、県文工団の歌や踊りをたのし
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 二十 カシュガル入り
 
 八月十日、七時起床、快晴、昨夜は宿舎のトルファン県招待所の葡萄棚の下で、県文工団の歌や踊りをたのしませて貰って、トルファン(吐魯番)らしい夏の一夜を過したが、今朝はその葡萄棚の下の椅子に腰を降ろして煙草をのむ。昨夜は歌舞演技に見入る土地の人たちで埋まった同じ場所であるが、今は誰の姿も見えず、爽やかな朝の陽が足許に散っている。さぞ日中は暑くなるだろうと思われるが、今は乾燥している朝の空気がただ爽やかである。
 朝食後、円城寺次郎、口隆康両氏はベゼクリク千仏洞を見るために宿舎を出て行くが、私は宮川寅雄、李季両氏と共にベゼクリク千仏洞の方は割愛して、午前の時間をトルファン博物館の参観に当てる。
 館の入口に、この地帯の地勢が模型によって現されており、それをカメラに収めたり、ノートしたりする。沙漠とゴビでだんだらに織りなされているトルファン盆地が大きく拡がっている。東西に長く延びている天山山脈が、この盆地の北の屏風となっており、その天山にほぼ平行して、数個の山塊が東西九〇キロに亘って配されている。これが火焔山である。従って火焔山というのは単独の山ではなくて、盆地の中にほぼ一列に竝んでいる山塊群である。その山塊群の一つにベゼクリク千仏洞も配されていれば、葡萄溝なるところも配されている。そしてベゼクリク千仏洞を載せている山塊の南の裾に、アスタナの古墳群は散らばっているのである。火焔山の山塊と山塊との間は渓谷になっていたり、沙漠が埋めていたりする。
 タリム盆地を砂の海とすれば、火焔山はその海の中にほぼ一列に竝んでいる数個の島である。しかし、島はこればかりではない。火焔山とは別に南の方にもう一つある。交河故城を載せている島である。その島から少し離れて東方にトルファン市は位置しており、高昌故城はトルファンの東北方、火焔山の一つの山塊の南に位置している。
 この模型地勢図の前に立っているうちに、暑さが烈しくなって来る。地図を見て、なるほど暑い筈だと思う。砂の海のただ中に位置している町なのである。
 館内を一巡する。アスタナ古墳群から出て来たものが多い。たくさんの古文書類が竝んでおり、論語、孝経の残欠もある。かなり大きい彩絵木椀が眼を惹《ひ》くが、他は小さいものばかりである。木尺、先きのすり切れた毛筆、木櫛、鳩の形の枕、その他に一五─三〇センチぐらいの俑《よう》がたくさんある。木芯或いは紙芯の泥像である。米を搗《つ》いている女、跪坐《きざ》している女、立っているの、坐っているの、明らかに侍女と思われるもの、さまざまである。木椀、木盃、種子(梨、杏、葡萄、桃、黒豆、麦等々)、点心(菓子)、麻布、麻布靴、赤、黄に染められた絹、紋絹、鎮墓の怪獣像、怪獣は竜か獅子かよく判らないが、羽を生やしており、木芯漆喰《しつくい》、その上に彩色したものである。
 高昌故城から出土したものでは、直径三〇センチぐらいの青磁碗が眼をひく。その他はやはり小さいものばかり、銅の観音菩薩(八センチ)と、その台座、首の欠けている天王銅像(十五、六センチ)、小銅馬(四〇センチ)、小銅人(二センチ)、押印。
 言うまでもないが高昌国は五世紀の半ばから、六世紀の半ばにかけて繁栄した漢人系の国である。中国風の元号を立て、中国風の官制を採用し、土民はイラン系のものが多かったと思われるが、中国の風俗が行われていたに違いない。アスタナや高昌故城の土から出て来るものは、みなこの時代にここに住んでいた人たちの生活の中に入っていたものである。トルファン地区から漢民族ともイラン系の民族とも区別のつかぬ、実にしゃれた化粧、しゃれた服装の女性像が幾つか出土しているが、博物館に竝べられてあるこまごましたものは、そうした女性たちが身辺に置いたものであろうと思われる。
 
 博物館の参観を終ると、いったん招待所に帰り、直ちにウルムチ(烏魯木斉)に向って出発する。十時である。
 すぐゴビのドライブが始まる。右手の天山山脈は霞んでいて見えない。無人のゴビを四十分ほど走って、カシュガル(喀什)方面へ行く道の分岐点を過ぎる。
 十一時、前方は幾重にも重なっている山で塞がれる。白楊溝への入口は近いが、くるまはそこには人らず、舗装道路を棄てて、一木一草のない丘陵に登って行く。昨日通った道である。丘陵地帯のドライブが始まる。全く緑というものはない。こんどは完全には通過できないが、北疆から南疆への天山越えでは、ただ一本、白楊河に沿って緑の帯が置かれているのである。
 廻り道二十分、乾河道に入り、そこを降って壊れた橋のところに出、そこから白楊溝に入る。
これからは道が舗装してあるので、快適なドライブになる。
 前方には巨大な岩石が屏風をなして、立ちはだかっている。芦の束を積んだトラックと、度々すれ違う。川筋はすっかりタマリスク(紅柳)に埋められているが、時折流れが眼に入ってくる。流れは今日も濁っている。向うから来る驢馬三頭がひいている荷車には三人の男が乗っている。
 休憩。秋風が立ち、磧には羊の群れ。磧を埋めているタマリスクは、幹や枝は見えず、緑のまるい固まりとなっていて、それが風が吹くと大きく揺れている。
 出発。岩山は黒く銹《さ》びたものもあれば、赤褐色を帯びたものもあり、落石地帯を裾に造っているぼろぼろに壊れかかっている山もある。
 橋を渡る。突然、視界拡がる。ウルムチ平野に出たのである。一望の緑のオアシスである。やがて遠くに例の塩湖が見えてくる。白い帯と青い帯、白いのは塩、青いのは水域である。塩湖は水際が白く見えている。
 ゴビの向うに塩湖の長い帯、駱駝草の向うに不整形な塩の湖。道は一本の黒い帯となって、ゴビの中を走っている。路傍に子供が居る。家を探すと、遠くに土屋が二、三軒見えている。
 
 ウルムチに着くと、夕方までの時間を、これから訪ねる南疆のカシュガル地区の下調べに当てる。明日はカシュガルの町で眠れると思うと、多少心の騒ぎを覚える。十何年か前に「異域の人」という小説でカシュガルを主要な舞台にしているが、この西域最西端の大集落は、それらしいイメージを瞼《まぶた》の上に置くことはできなかった。沙漠の町であるというだけで、手がかりというものが全くなかった。同じ小説で于《うてん》(現在のホータン)を書いているが、この方には白玉河、黒玉河という玉を産することで有名な川も配されてあり、十世紀前半の高居晦の「于行記」という有難い資料もあった。カシュガルは往古の疏勒《そろく》国である。この方には何もなかった。判っているのは、西域の一番奥地の大集落であるということだけである。従って「異域の人」では、主人公班超を十数年疏勒に留まらせているが、ただ一行もその集落のたたずまいを描くことはできなかった。当時疏勒は戸数二万一〇〇〇の城邑であり、兵三万余を持っていたが、これだけの記述では手が出なかった。
 その往古の疏勒国、今日のカシュガルに、明日は自分の足で立つことができ、班超が十数年間眠ったその集落の眠りを、自分もまた自分のものとすることができるのである。
 夜は賓館に於ての区革命委員会主任汪鋒氏主催の歓迎宴。同副主任チムール・ダワマイティ氏、歴史研究所の責任者谷苞氏、言語学者のアブド・サラム氏等が同席して下さる。汪鋒氏から少数民族、特に回族についての話を聞く。私の場合は、少数民族の中で回族なるものが一番判らないが、氏の話によって多少、正体がおぼろげながらはっきりしたような気がする。もう一度南疆の旅から帰ってから、氏のお話を聞くことにする。
 
 八月十一日、五時三十分起床、六時朝食、六時半出発。今日は天山を越えて、カシュガルに向う日である。
 早朝のウルムチの町を突切って行く。町は一昨年来た時より美しく、明るくなっている。蘇州のような古びたところはなくなり、新疆ウイグル自治区の都らしい近代的なものを身につけ始めている。しかし、四辻を通過する時は、どこかに砂丘の欠片である砂山が見えている。それにしてもこの町のポプラ竝木はみごとである。どこまでも、どこまでも伸びて、天を衝いている。
 空港着。九時十分離陸。アントノフ24、四六人乗り。カシュガルまで一二〇〇キロ、飛行時間は三時間十分の予定。
 上昇すると、すぐ青い短冊型の緑を貼りつめた大耕地の上に出る。集落が点々と見えている。機首を天山に向ける。山塊群がぐんぐん近付いて来る。が、そのうちに何となく、機は天山に平行するように飛び、十五分ほどで漸くにして天山の上に出る。が、曇っているので視界全く利かず、例の波濤のように押し寄せて来る雪の稜角の壮《さか》んな眺めを眼にすることはできない。
 十一時十分、アクス空港に着陸、空港の待合室で休憩。ここからカシュガルまでは四〇〇キロ。飛行時間は一時間十分。二十度。
 十一時四十分、離陸、すぐ漠地、やがて緑の耕地に変る。間もなく、タリム河を越える。朝鮮人参の根のような、複雑な形の流れである。太い幹からたくさんの根が出ており、幹は幹で、たくさんの中洲を抱いている。
 タリム河はタリム盆地の北辺を伏流しては地表に出、伏流しては地表に出ながら、西から東へと流れて行って、ロブ湖に収められる大河である。こんどの旅で、この川の岸に立つつもりであるが、今のところでは、それが可能であるかどうか判らない。伏流するのはタリム河ばかりではない。ホータン河も、カシュガル河も、ヤルカンド河も伏流して身を匿す特技を具えている。タリム盆地の、つまりタクラマカン沙漠の川の特殊なところである。しかし、機上からでは、その伏流地点を眼に収めることはできない。そううまく機は飛んでくれない。
 タリム河を越えると、大沙漠が拡がって来、機は沙漠の丘陵地帯の上を飛ぶ。沙漠は平坦ではなく、無数の丘が波立っている。まさにタクラマカン沙漠上空の飛行である。
 赤い丘陵がある。無数の雲の影が漠地に捺されている。小山脈を越える。こんどは赤い沙漠。大断層が沙漠を割っている。小山脈の波立ち、次々に小山脈が現れて来る。が、やがてすべては雲に覆われて、視界全く利かなくなる。
 十二時二十五分、再び沙漠が見え始める。こんどは所々に短冊型の耕地が貼りついている。集落もある。依然として漠地の拡がりであるが、何となくオアシス地帯に近い感じである。果して緑が多くなり、漠地と緑の地帯が入り混じってくる。
 黄褐色の大河が見えてくる。めちゃくちゃに折れ曲り、身をくねらせ、時に渦巻き模様を作ってみせたりしている川である。オアシス地帯が大きく拡がって来る。
 
 十二時四十五分、カシュガル空港着。明るい沙漠の中の空港である。樹木は少い。地区革命委員会の数氏の出迎えを受ける。
 すぐ町に向う。くるまはトウモロコシ畑に挟まれた道を行く。埃りがもうもうと舞い上がっている,路傍に一尺ほどの高さの紅花。紅花は薬草で、油もとれるという。ひまわりの花の黄が眼にしみる。
 町に入る。驢馬のひく荷車がやたらに多い。行手にかすかに天山らしい山が見えている。
 ──天山には天山ですが、この辺りで遠望できる天山山系には、高い山はありません。晴れた日にはパミールの最高峯・ムスタク峯がよく見えます。ムスタクは“父なる氷の山”という意味です。この方はさすがに立派です。
 カシュガル行政公署のイミンノフ氏はおっしゃる。
 くるまは解放後作られた地区を行く。ウルムチから来た者の眼には、街路樹が何となく貧相に見える。雑然たる町である。町を歩いている男も女も、みな厚着をしている。
 町の中心地区で眼に入ってくるものを拾ってみる。驢馬、馬、羊、土屋、それぞれ勝手な民族帽をかぶっている男たち、これまた思い思いの布で頭を巻いている女たち。それにしても、なんと驢馬の多いことか。人間の数と、驢馬の数と、どちらが多いか判らない。
 町の中心地区を脱けて、再び郊外へ出る。
 ──紅花の花は黄色ですね。
 ──いまは黄色ですが、やがて赤くなりますよ。
 こんな会話を交しているうちに、くるまは宿舎の賓館の広い前庭に入って行く。庭にはあちこちに花壇が造られてある。
 それぞれの部屋で休憩した後、別室に集って、イミンノフ氏からこの地区についての説明を聞く。
 ──ここでも北京時間を使っているが、北京とは三時間のずれがある。現在日の出時刻は七時、陽が落ちて、すっかり暗くなるのは十時頃。町の人の仕事始めは十時から。
 ──二、三日前に雨が降ったので今日は涼しい。五、六日前までは平均気温三十七、八度。今日は室内で三十二、三度。気温の最高は四十度、最低は零下二十度。乾燥は烈しい。
 ──この地帯は海抜一三〇〇メートル。この地区の人口は二〇〇万、十一県一市。カシュガル市の人口は一〇万。
 ──民族はウイグル、タジク、キルギス、ウズベク、漢族、回族。カシュガル市の人口一〇万のうちの七〇パーセントはウイグル人。公用語は漢語とウイグル語。新聞、公文書は二種類、それぞれの機関に専門の通訳が配されている。
 ──カシュガルはウイグルの原語。突厥《とつけつ》語ではカシュは玉、ガルは集めるの意。現在はカシュガルを略して“カシュ”と呼んでいる。正式の文書でも“カシュ(喀什)”を使っている。ただし、カシュガルはペルシャ語であるという説もあり、清時代にはカシュガルを“最初にできた町”とする解釈も行われていた。
 ──市民は農民、工員(セメント、農作機械、製糸、紡績、綿紡績等の工場、発電所)、手工業者(ウイグル帽、楽器、小刀、絨毯、陶瓷器《とうじき》)。工場はみな地元の人の生活のための工場である。
 ──農作物は小麦、トウモロコシ、綿、少量ではあるが米。牧畜は羊、牛。果物は杏、桃、サクランボ、葡萄、ザクロ、林檎。果物の季節は七月から九月まで。
 ──新疆の有名な毛の長い綿はここが産地。日照時間が長いことが、綿の生産に適している。灌漑は用水路。
 ──師範学校一、中等学校六、病院二。
 ──この地区には三本の川が流れている。一本は天山から、二本はパミールから流れ出している。張騫《ちようけん》が紀元前一〇〇年代にこの地帯を通過した頃、既にこの町があったことは前漢書に記されている。それより古くからあったかも知れない。往古から商業の栄えた所であったという推定は成り立つ。ウイグル族の人は商人が多く、上海、ブハラ、サマルカンドまで行っている。
 ──現在のカシュガルが、紀元前二世紀から千年に亘って続いた往古の疏勒《そろく》国であるかどうかは、正確には言えない。専門家の研究を俟《ま》つ以外ない。現在のこの町の北部のオールド・タウンは、清の乾隆帝の時、繁昌し始めたところとされている。またこの町の南部、現在の紡績工場地区は明の時代に栄えたところと言われているが、それらしい遺跡はない。
 ──この町に耿恭台《こうきようだい》という丘があって、そこに塔があったが、今はなくなっている。耿恭は後漢の班超の頃、同じように新疆で活躍した将軍であるが、彼はこの地には来ていない。土地の人がその人の徳を偲んで造ったものであろう。
 ──スリタンの墓がある。スリタンは回教を初めて新疆に伝えた九─十世紀の人である。カラハン王国の王を説得して、回教を布教したと伝えられている。
 ──古い町であり、長い西域史に登場する町であるが、遺跡と言えるものはない。この町に関する歴史は、みな沙漠やゴビの中に埋まっているのであろう。
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