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私の西域紀行21

时间: 2019-05-23    进入日语论坛
核心提示:二十一  ゴビの中の町々 八月十二日、八時起床、九時朝食、今日は北方五〇キロの地点にあるアトシ(阿図什)という町を訪ねる
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 二十一  ゴビの中の町々
 
 八月十二日、八時起床、九時朝食、今日は北方五〇キロの地点にあるアトシ(阿図什)という町を訪ねることになっている。アトシは海抜一四〇〇メートル、カシュガル(喀什)より一〇〇メートルほど高い。コスロス・キルギス自治州の州都で、古いアトシの町は一九四六年のボゴズ河の大洪水で全部流されて跡形もなくなってしまい、そのあと五三年にゴビ灘《たん》のまん中に造られたのが現在のアトシの町である。人口二万ほどの小さい町らしいが、新しく造られて二十五、六年経つと、どのような町になっているか、そういう点に興味がそそられる。
 しかし、ウルムチ(烏魯木斉)─カシュガルを結んでいる幹線道路に沿っているので、時代に取り残された山奥の町というのではない。
 十時出発。迎賓館の庭には花壇が多く、どの花壇にもひまわりの花が咲き盛っている。ポプラの竝木を通って、町に入って行く。この辺のポプラには穿天楊という字を当てるらしいが、なるほど天を穿つという言い方がぴったりする丈高いポプラである。ウルムチのポプラも同じようにやたらに天に向って伸びているが、多少種類は違うらしい。
 今日は市の日とかで町はたいへんな混雑である。驢馬に乗った農民が市場へ、市場へと集ってくる。バザール地区の正面にパミールが見えているが、残念なことに曇天で霞んでいる。
 土屋の町に人と驢馬が溢れている。まん中だけが舗装されている道を、驢馬二頭曳き、三頭曳き、あるいは一頭曳きのくるまが切れることなく続いている。きのうも町の中心地区で感じたことであるが、人間の数と驢馬の数と、どちらが多いか判らぬと思う。
 間もなくバザール地区を脱け、土屋を取り払ってしまった新市街に入る。道幅広く、何となく近代的ではあるが、ここもまた日曜日の混雑を呈しており、やたらに人と驢馬が多い。驢馬の多い新疆地区でも、ここほど驢馬が溢れているところはない。大人も、子供も、老人も、女も、みんな驢馬のひく車に乗ったり、驢馬の背にまたがったりしている。町中を川が流れているが、流れは茶褐色に染まっている。
 郊外に出る。畑のトウモロコシの緑が陽光に光って美しい。道は昨日空港から来た道で、それを逆に北に向っている。前方に低い丘の連なりが見えて来るが、アトシにはそこを越えて行かねばならない。
 集落を通過するが、ここも市で賑わっている。やがて空港を過ぎる。町から七キロほどのところ、この辺りは全くの沙漠地帯で、道だけが一本の黒い帯となって、前方の段丘に向って真直ぐに延びている。段丘は昨日機上から見ている。
 やがて道はその丘に突き当るが、間もなく道から逸れて、三仙洞と呼ばれている洞窟を望める地点へ通じている間道に入る。砂岩の丘陵地帯をがたぴし揺られながら行くと、程なく大渓谷の縁に出る。そこで下車、カシュガルの町から一〇キロのところである。
 口隆康氏の説明によると、ペリオの報告書に載っている洞窟で、氏は氏持参の地図で、そこがアトシに行く途中にあることを知って、土地の人に案内して貰って来たのである。
 くるまが停まったところは、荒れに荒れたチャクマク河の渓谷を俯瞰できる場所で、なるほど遠い対岸の断崖に小さい三つの洞窟らしいものが見えている。双眼鏡で覗くと、多少洞窟の入口と内部の一部を眼に収め得るが、まあ、その程度である。曾てはそこに壁画も描かれ、仏像も安置されてあったのであるが、今はどの程度遺っているのであろうか。それにしても、三つの洞窟までの高さは四〇メートルほどあるという。ぺリオはよくあのようなところに登って行ったものだと思う。
 チャクマク河の川床は大きく抉りとられたようになっているが、いつか大洪水の時にでも現在見る姿になったのであろう。荒涼たる眺めである。肝心の流れは広い川床を隔てて、向うの断崖の裾に、一本の細い青い線として置かれている。遠いので川幅のほどは判らないが、その流れのこちら側に緑の地帯が見えている。カゴット村という集落だそうであるが、全くの広い川床の片隅に営まれている集落である。洪水の危険もさることながら、そこに住む人の明け暮れはいかなるものであろうかと思う。
 
 出発、先刻来た道を逆戻りして、砂岩の丘陵地帯を行く。そして本道に入ると、段丘に沿って、その裾を廻って行き、やがて丘の向う側に出る。小さいオアシスの村がある。そこを脱けると、一望の漠地が拡がって来、前方に天山の支脈が霞んで見えている。それに向って、いま迂回して来た丘の連なりを右手に見てのドライブになる。左手にも低い丘が立っている。二つの丘の連なりの間には漠地が拡がっており、ところどころに水溜りが置かれてある。昨夜雨が降ったためであるというが、そう言われてみれば、昨夜ホテルで雷鳴を聞いたように思う。ウルムチに通じている幹線道路のドライブなので、一応快適である。自治州の州長さん差し廻しの出迎えのくるまが先頭を走っている。
 次第に右手の丘の連なりは遠くなり、前方に緑の大平原が拡がって来、その向うに山が置かれてあるが、その山の麓にアトシの町は位置しているという。
 そうしたオアシス地帯のドライブがかなり長く続き、やがて橋を渡って集落に入って行く。アトシの町である。橋で渡った川は、二十数年前に氾濫して古いアトシの町を呑み込んでしまったボゴズという川である。
 カシュガル市から五〇キロ、ここもまた驢馬の町である。町にはキルギス帽の男が多い。キルギスは唐の時代に黠嗄斯《ジカズ》と呼ばれていた民族で、新疆地区ではこの辺りに多く住んでいる。州人口は三六万、そのうちウイグルが三一万、キルギスが五・六万。北と西に山を廻らせたゴビ(戈壁)の町である。
 キルギス族の州長さん、漢族の副州長さん、ウイグル族の県長さん、それぞれ顔の少しずつ異った人たちの歓迎を受け、州商業局招待所に入る。
 ハミ瓜をご馳走になりながら、この地方の説明を聞く。洪水のために生れた町なので、すべての話が洪水から始まり、洪水に戻ってゆく。
 洪水は一九四六年六月二十四日夜。水の量は一〇〇〇流量。溺死者は判明しただけで三六四人、流失家屋は四〇二五戸。人口一万の町だったので、まず全部の家が流れてしまったと言っていい。一〇〇〇流量というのがいかなることを現しているか、こうした方面に無知な私には判らないが、一夜にして人口一万の町が流されて跡形もなくなってしまったというから、たいへんな氾濫であったに違いない。
 私は中国の地理書「水経註」の小さな記述をもとにして、神話的な「洪水」という短篇を綴っているが、現実の事件となると、その惨状を眼に浮かべることは難しい。
 ──この町は全くのゴビの上に造った町です。今年は二十六年目、人口は古いアトシの二倍、二万です。この町で日本のお客さまを迎えるのは初めて、町中が鳴動しています。
 県長さんはおっしゃる。
 一休みしてから、スリタン・ハドク・ボグラハンの墓に出掛ける。スリタンは九─十世紀の人、カラハン朝の王を説得して、イスラム教を最初に新疆地区に伝えた人物で、町の西南の端れにその墓とモスクがあるという。
 招待所を出ると、なるほどたいへんな人が招待所の前を埋めている。漸くにしてくるまに乗る。町に出ると、町は町で日曜日の市が立っていて大混雑、郊外に出ても、バザールを目指す人々の列が続いている。一〇キロ、二〇キロという遠い所から夜をこめて歩いて来た人も居るという。
 暫く郊外をドライブして集落に入る。街路樹の楊の葉が、屋根となって路上を覆っている。やがて周辺がポプラで埋められた寺院に到着。なかなか立派なモスクである。六十八年前に、洪水で流されたアトシの町に造られたが、洪水の時、このモスクだけが難を免れ、今日に到っているそうである。ここはスリタンが亡くなったところで、そのために墓と、礼拝するためのモスクが造られているのである。
 
 いったん招待所に帰って昼食、午後は対外貿易局、コスロス商場、毛製品工場、果樹園などを参観、どこへ行っても、くるまの乗り降りが大変なほど人が集っている。州長さんの言葉通り、町中が数人の日本人のために、まさに鳴動しているのである。
 夜は招待所に於て、ダイール州長によって設けられた歓迎宴。
 宴後、州文工団の歌舞を見るために、町の中心地区にある工農兵文化館に赴く。この場合も招待所を出ると、くるまのところまで行くのが大変である。大人も子供も、招待所の前を埋めている。さすがに大人たちは背後の方に居るが、子供たちは一間ほどの通路をあけただけで、その通路の両側に立ち塞がっている。四、五歳の小さいのも居る。顔に視線を当てると、どの子供も身をくねらせて、何とも言えない純真なはにかみ方をする。次々に眼を当てる。次々にはにかんでゆく。まるで花でも開いて行くようだ。一人が転んだので起してやると、それだけで歓声がわく。
 その夜、文工団の歌舞が終って、招待所に帰ったのは、大分遅い時刻である。さすがにもう招待所の前は静かになっていたが、それでも二、三十人の子供たちが集っていた。
 五、六歳の女の子が入口の扉のところに立っていた。先刻転んだのを起してやった女の子である。その背後でその女の子の肩に手をかけて立っているのは、祖母らしい女性である。
 女の子は真剣な顔を私の方に向けている。その時の印象では、自分が転んだのを起してくれた外国人をもう一度見たくてやって来たとしか思えない。祖母はそうした彼女に付合って、一緒について来てやったのであろう。アトシというゴビのただ中の町では、このような幼い子供たちが育っているのである。
 十時に、接待所を辞してカシュガルヘの帰途に就く。燈火一つない真暗い原野のドライブは異様であった。集落も一つか二つ通過する筈であったが、どこにも燈火は見えなかった。パミール高原の方角で雷鳴が聞えていた。確かにここには夜がある! 正真正銘の夜というものがある! そんな思いに揺られてのドライブであった。
 迎賓館に戻り、十二時就寝。深夜まで遠い雷鳴が聞えていた。
 
 十三日、十時十分、ヤルカンド(莎車鎮)に向けて出発する。昨夜充分睡眠をとっているので、気分は爽快である。
 ジープ四台、昨日行ったアトシとは逆の方向に向う。これからは舗装がなくなるというので、当然荒いドライブになる。が、まあ仕方ないと思う。ヤルカンドは西域史に度々登場してくる往古の莎車《さしや》国である。
 カシユガル河を渡って郊外に出、みごとなポプラ竝木の道を行く。トラックの往来が頻繁である。ホータン・ウルムチ長距離自動車道路のドライブなので、当然なこととしてくるまは多い。今日行くヤルカンドも、昨日行ったアトシも、みなこの幹線道路に沿っている。
 二十分ほどで疏勒県を通過、カシュガルの漢城、つまり漢族の居住地区として造られたところである。ここから街路樹がなくなる。道は大耕地の中を突切って延びており、両側の畑には貧しいポプラが点々と散らばっている。時折ひまわり畑が現れる。ひまわりの花の黄だけが鮮やかである。曇っているので、右手に当然見えるべき崑崙の山影は見えない。時折、集落を過ぎる。トウモロコシ畑、ひまわり畑、木はポプラばかり。人を乗せた驢馬を追い越したり、それとすれ違ったり。遠くに羊の放牧風景。
 十二時、小集落を通過、村の引越しでも行われているかのように、路上に驢馬の荷車隊が溢れている。
 大耕地は続いているが、時には漠地の挟まっているのを見る。漠地ばかりでなく、砂丘の欠片も挟まっている。また草も育たぬアルカリ性土壌の不毛地も挟まっていて、それが背後に飛んでゆく。
 十二時二十分、漸く晴れ始め、右手遠くに山影が現れ、それが次第に前方に廻ってゆく。崑崙山脈の支脈なのであろう。誰かが蜃気楼を見付ける。なるほど遠くの平原の果てに、幻の湖が置かれている。
 やがて小砂丘が散らばっている地帯に入る。この辺りの砂丘は移動するので、一晩で道路が砂に埋まってしまうことがあるという。前方の山脈、雄大になる。相変らずトウモロコシ畑とひまわり畑、濃い緑色と黄色。
 十二時三十分、辺りは一望の大オアシス地帯となり、やがて大きい集落、インギシャ(英吉沙)県に入る。県の招待所で休憩、昼食。ここも明るいポプラの町である。県の人口は一四五万、県城、つまりこの町の人口は一万。八〇パーセントはウイグル人である。もちろん農業県で、小麦、トウモロコシが主要産物、牧畜を営む者もあるが少く、工業も小規模。
 この町はタリム盆地の西南に位置し、カシュガル・オアシスの西南の端れ、ここを出ると、本格的なゴビ地帯に入って行く。この県はまだタクラマカン沙漠の中には入っていない。タクラマカン沙漠の方は、ここから二〇〇キロほどの地点から、海のように拡がり始める。
 この町は漢書に載っている依耐《いたい》国の故地とされている。往古の西域南道の国で、西域三十六国の一つである。
 漢書の依耐国はそう大きい国とは言えない。“戸一百二十五、口六百七十、勝兵三百五十人”と記されている。国の形はなしていたのであろうが、まあ、少数民族の比較的大きな定着地だったのであろう。
 このインギシャは清の時代にはインギシャハル(英吉沙爾)と呼ばれていた。これはウイグル語で、“新しい城”という意味、それが省略されて、現在のインギシャになった。清以前はいかなる状態にあったか判らない。さしずめ古代の依耐国の故地とでも言う他ない。もちろん依耐国の都城がどこであったかは判らない。
 この町にも日本人は来ていないらしく、町に出ると、たいへんな人だかりである。町の刃物工場を参観する。少数民族の人たちが腰に吊り下げている小刀を造っているところである。大抵の人たちがこれを手ばなさないで持っており、瓜などを切るにも、これを使っている。いかにも西域南道の町の工場といった感じの工場。
 
 招待所で二時に昼食。三時に出発。明るいポプラの町を出ると、いきなり右手には漠地が拡がり、左手はオアシス、道は前方の泥の丘の波立ちの中に入って行く。大丘陵地帯がかなり長く続く。
 数人の男が柩《ひつぎ》をかついで行くのに会う。葬式である。このゴビ地帯で生きた人が死んだのである。どのような一生であったか知らないが、一人の人間の生涯は終ったのである。
 やがて左手のオアシスもなくなり、大漠地の拡がりとなる。右手にダムの大きな貯水池が現れてくる。灌漑用のダムなのであろう。地盤は波立っており、左手の波立ちは宛《さなが》ら海のようである。右手の方は遠くに細く緑の地帯が見えている。相変らず行き交うのは驢馬である。道は丘を割り、丘を割って走っている。
 三時半、トプロック人民公社、四時、キジル人民公社。キジルは全くのキジル・ゴビの村である。ポプラの発育は悪く、時々砂塵が舞い上がっている。ここで休憩、埃りの村を歩く。
 ここを出ると、キジル・ゴビのドライブになる。大きなゴビである。四十五分、走りづめに走ったが、依然としてゴビである。ずっと右手には低い丘が連なっている。大きなゴビではあるが、しかし南疆では大きな方ではなく、カシュガル、アクス(阿克蘇)の間に横たわっているゴビなどはもっとずっと大きいそうである。
 空にはところどころ青い所があるが、大部分曇っており、ゴビ一帯がぼんやり霞んでいて、その中に何本か竜巻が立っている。
 五時四十五分、久しぶりに道の両側に青いものを見る。ポプラの苗木である。やがてそれがひよひよではあるが、とにかく一本立ちのポプラに変ってゆく。ヤルカンド・オアシスに入ったのである。
 やがて両側に畑、次第に緑が溢れ出し、人間、驢馬、集落、トウモロコシ、ひまわり、──ゴビの裾に、生活は営まれているのである。
 しかし、まだヤルカンドには四〇キロある。沙棗《すななつめ》が街路樹として道の両側に植っているところを通過する。田野のまん中を走っているためか、道が壊れ、路面に水溜りのできているところが多く、ためにドライブは難行苦行。
 やがて綿畑、みごとなポプラ竝木、そういった美しい農村地帯に入り、集落を縫って、ヤルカンドに近付いて行く。そしてみごとな長いポプラ竝木の道に従って、ヤルカンドの町に入って行く。粒子の細かい砂の町である。ここも驢馬の町。路傍には西瓜や瓜の店が竝び、人が溢れている。どこか、昨年訪ねたもっと東方のホータン(和田)の町に似ている。やがて、くるまは今夜の宿舎であるヤルカンド県委員会招待所の広い敷地の中に入って行く。
 
 夕食はマイホマイティ・マイマイティ副県長、徐效成辨公室主任氏等が宴席を設けて下さる。いろいろこの地区の話を聞く。
 ──ヤルカンドはカシュガルより一九六キロ。
 ──ヤルカンド河が県を流れていて、地味は肥沃《ひよく》。農作物は穀物、綿花、ゴム。牧畜は牛、羊。羊は五八万頭。
 ──県の人口は三六万、ヤルカンドの町は四・五万。
 ──民族はウイグル、漢、回、キルギス、タジク、ウズベク、蒙古、カザフ、オロシヤ、タタル、満族、──まさに少数民族の雑居地帯である。この県は十八の人民公社と一つの鎮から成っている。
 ──この町は前漢時代の莎車国。
 ──養蚕事業は二千年前から行われている。前二世紀に伝わり、六世紀になると、非常に発達した。ここの絹はインド、ヨーロッパにも運ばれた。
 ──往古の莎車国の城市はヤルカンド河の洪水で壊れ、三〇キロ離れたゴビの乾河道になっていると見られている。記録がないので正確なことは判らない。河道の変遷、洪水は歴史の上には何回も起っている。
 ──十八世紀の中頃、乾隆帝の時、非常に小さい町を大きくしたという記録がある。その後変遷があって、十九世紀の光緒《こうちよ》帝の時造られたのが、現在の町である。
 夕食後、町に出る。ゴビの海に取り巻かれている町にはいま夕暮が来ようとしている。オールド・タウンに入る。人は出盛っており、新疆地区の少数民族の町特有の騒がしさが辺りを占めているが、それでいてどこかにしんとしたものが感じられる。
 ここを前漢時代の莎車国の故地とすれば、たいへん古い歴史の町である。二千年の歴史が流れているが、しかし、その大部分は判っていない。莎車国の名は前漢時代で消え、あとに続く時代の史書に、莎車国の後身と目されるいろいろの国名が登場するが、正確なことは何も判っていない。疏勒国(カシュガル)と于国(ホータン)の二つの大国に挟まれ、その歴史も、当然、波瀾興亡に富んだものであったろうと思われる。
 玄奘三蔵の「大唐西域記」に“烏国”という国のことが載っており、この国の南はヤルカンド河に臨んでいると記されている。このことからこの国をヤルカンドとする説も行われている。
 仮りにこの国をヤルカンドと仮定すると、
 ──土地は肥沃で、農業は盛大である。林樹は欝蒼とし、花、果は繁茂している。さまざまの玉を多く産出する。
 ──気候は温和で、風雨は順調である。人々の間には礼儀は少く、性質は荒々しい。
 ──文字・言語はカシュガルと少しく同じ点がある。容貌は醜悪で、衣服は皮や毛織である。
 ──しかし、信仰はわきまえ、仏法を信奉している。伽藍《がらん》は十余カ所、僧都《そうず》は千人足らず。
 ──数百年この方、王族は跡絶《とだ》え、自らの君主はなく盤陀国(タシュクルガン)に隷属している。(水谷真成氏訳「大唐西域記」より)
 以上が七世紀の玄奘三蔵が見たヤルカンドということになる。タシュクルガンは現在、パキスタンとの国境に近いパミール山中の大きい集落である。いずれにしても、ヤルカンドは他国に隷属しなければやって行けない国であったのであろう。
 こうしたヤルカンドの町に刻一刻、夕闇は深くなりつつあった。多少他の集落が持たぬしんとしたものが、表通りや路地に立ちこめていても、さして不思議はないかも知れない。
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