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私の西域紀行33

时间: 2019-05-23    进入日语论坛
核心提示:三十三 沙棗の匂い 昨五十五年五月、新疆ウイグル自治区のタクラマカン沙漠の南辺の幾つかの都市を訪ねた。ヘディン、スタィン
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 三十三 沙棗の匂い
 
 昨五十五年五月、新疆ウイグル自治区のタクラマカン沙漠の南辺の幾つかの都市を訪ねた。ヘディン、スタィン以来外人は足を踏み入れていない地域で、本来ならそう簡単に入れるところではないが、これまた中国とNHKのシルクロードの共同取材という、まあ画期的と言っていい事件に便乗して、この幸運を己がものとすることができたのである。
 
 四月三十日、東京を発つ。成田空港を十時五十分離陸。三時半北京空港に着く。快晴、爽風、三十二、三度、東京よりずっと暑い。宿舎は民族飯店。メーデーの前日なので、夜になると、天安門附近の電飾が美しい。
 五月一日、琉璃廠でメーデーの一日を過す。古書店にはこれまで見なかった書物がたくさん出ている。
 五月二日、暁方から雷雨。六時起床、七時にホテル出発、空港にて朝食。寒し。トライデント一〇〇人乗り。九時四十分離陸。離陸時にはすっかり晴れている。ウルムチ(烏魯木斉)直行、二七〇〇キロを三時間十五分の予定。
 十一時十分、甘粛省の沙漠の上、十二時、酒泉上空。雪山が見えているが、連《きれん》山脈の西端の尻尾であろうか。一時、天山山脈の無数の雪の稜角の上を飛んでいる。五月初めの天山は全部雪に覆われている。まだ雪どけの水が流れ出していない時期なのであろう。やがてボグド峯が見えて来る。雪の稜角が波のように寄り集って、白い城砦《じようさい》を造り上げている。
 予定通り一時にウルムチ空港に着く。出迎えの人の話では、ウルムチは先月半ばまで雪があったという。ということは、今日は五月二日なので、半月ほど前の四月半ばまで雪があったということになる。中国もここまで来ると、まだ春先なのである。日本の早春の感じで、たいへん気持がいい。が、ポプラは既に芽吹いている。
 ウルムチは三度目の訪問である。一昨年は九月中旬、昨年は八月初め。八カ月ぶりで迎賓館(賓館飯店)に入る。広い敷地の中に、宿舎の棟が幾つか散らばって置かれてあるが、こんどは奥まったところにある第六棟に入る。
 二階の部屋に入って、すぐ冬シャツに着替える。入浴。散歩。何棟かの建物と建物の間はもちろん、空地全部をポプラが埋めている。ポプラの林もあれば、ポプラの竝木もある。その中を広い道があちこちに走っている。東京では散歩らしい散歩をしたことはないが、ウルムチのこのホテルに入ると、いつも否応なしに散歩させられてしまう。三十分ほど歩き廻るが、ホテルの従業員らしい女性一人に会っただけである。日光浴しながらの散歩。遠くに白い天山が見えている。
 タ食八時、別棟の食堂へ行く。北京との時差二時間、ここではまだ陽が当っている。
 十時十五分、日本の新聞社の北京支局から電話がかかってくる。チョモランマ登山隊が頂きを極めたら、ひと言祝いの言葉を言う約束になっていたが、登頂成功の報せではなくて、雪のために引き返したという報せであった。
 夕食後、部屋で中国側の人と雑談。ウルムチは冬からすぐ夏になるので、春は短い。そして夏からすぐ冬になって、秋も短いという。雪は十一月から三月まで。今年、四月半ばまで雪が消えなかったのは異例の由。
 夜、NHK班から羽毛服を支給される。
 
 五月三日、六時起床、快晴、散歩三十分。ポプラの緑はまだうすい。九時朝食。
 十時三十分、ホテルを出て、博物館へ向う。旧市街から新市街へ入って行く。町へ出ると、どこも埃りっぽい。この町は漢民族とウイグル族が大体半々、従ってくるまの窓から見る町の表情は漢民族の町とも言えないし、ウイグル人の町とも言えない。
 相変らず町では土屋を壊している。昨年も一昨年も、土屋を壊していたが、こんどもまた同じ光景が眼に入ってくる。もともと土屋だけの町だったので、いくら土屋を壊しても、壊しきれないのであろう。いつ来ても埃りっぽいのは、こうした町造りの工事のためである。
 新しい建物は、みな申し合せたように黄色に塗っている。この町の人たちには黄色が美しく見えるのであろうか。オールド・タウンは埃りっぽく、ニュー・タウンは清潔すぎる。しかし、いずれにしても早春の町である。大通りの正面に丘があって、その上に紅山塔という塔が見えている。いつも気になっている塔なので、午後、塔のある丘に登ってみようと思う。
 町中のバザールで停車。路傍の小さな店では山羊の肉、葱《ねぎ》、菜、そんなものを売っている。羊肉の串焼きもある。
 一時間ほど、博物館でノートをとる。ここには何回か足を運んでいるので、大体のものは旧知の間柄である。
 午後はホテルで休息。四時半、紅山塔見物に出掛ける。丘は町のまん中にあるように見えるが、運転手君に訊いてみると、町の西北部に位置しているという。
 その丘の上にくるまで上ってゆく。丘の上から見ると、ウルムチの町は雑然としている。郊外には工場が多い。この町も、蘭州のような工業都市になろうとしているのかも知れない。宿舎の賓館飯店のあるところは町の東南部の端になっている。
 塔は九層の塔《せんとう》で、岩が露出している丘の崖っぷちに建っている。足場が悪いので、塔に近付くのは容易なことではない。
 夜、これからの沙漠の旅に同行してくれるというウルムチの病院のお医者さんが、挨拶がてら診察に来て下さる。三十分ほど雑談。お医者さん自身、長年ウルムチに居るが、天山を越えて沙漠地帯に足を踏み入れるのは、こんどが初めてだと言う。
 
 五月四日、八時起床、散歩三十分。十時半より書店と百貨店に行く。町は日曜なので、人が出盛って、ごった返している。路傍のバザールにも人が群がっている。
 百貨店で毛糸のスウェーターと毛糸のズボンを購入。両方で五十元(日本円で六千五百円)。日本に較べると、大分廉《やす》い。他に茶とロイヤルゼリー。どれもこれから行く沙漠の旅のための物である。東京で一応寒さに対する支度もして来たが、ウルムチに来てから、大分予想して来た旅とは異ったものになりそうな気配を感じる。既にタクラマカン沙漠の南側、つまり西域南道地区に行っている中国撮影班から、ウルムチのNHK撮影班に入ってくる電話によると、ホータン(和田)の昼は四十度だが、沙漠に入ると、夜は零下になるという。四十度に対する用意と、零下に対する用意をするとなると、どのようにしたらいいか、ちょっと見当がつかない。
 夜、これからの日程が発表される。明日は荷造り、明後日五月六日、行動開始、南道のホータンに飛ぶ。ホータンには一泊するだけで、翌日、ジープでニヤ(民豊)に向う。そしてニヤを根拠地として、翌日すぐニヤ遺跡のある沙漠の中に入って行くという。
 ——まさに疾風迅雷というところですね。
 私が言うと、
 ——そうなんですが、現地からの連絡によると、沙漠は日一日暑くなり、やがて間もなく人間は入れなくなるらしいんです。
 NHK班の田川純三氏はおっしゃる。
 ——それにしても、大丈夫ですか。
 大丈夫かというのは、私の健康のことであるらしい。
 ——多分、大丈夫でしょう。
 笑って、そう答える以外仕方がない。実際に多分大丈夫だろうと思うだけである。ちょっと見当がつかない沙漠の旅が、これから始まろうとしている。
 
 五月五日、七時起床、散歩三十分。いつものことながらポプラの芽吹きが美しい。梅に似た小さい花を着けた灌木も眼につく。
 いよいよ明日出発するので、午後は荷造り。東京から履いて来た靴と、予備のもう一足はここに置いてゆくことにする。バッグの詰め替えがたいへん。NHKの撮影班からいろいろな情報と意見が流れてくる。その度にバッグを詰め替える。
 夜は世話になった中国側の人たちを招いてのNHK主催の夕食会。同時にNHKの吉川研氏と私の誕生日の祝宴をも兼ねる。吉川氏の誕生日は五月五日であるが、私の方は六日である。しかし、南道へ飛んだら誕生祝いどころではなくなりそうなので、私の方は一日早めて、一緒にやって貰うことになったのである。二人の前に“寿”と書いたケーキが出る。宴後、吉川氏と二時半まで西域談義。
 
 五月六日、快晴、八時半、賓館出発。アントノフ二四人乗りのチャーター機。NHK撮影班の主な荷物は昨日のうちにトラックに積み込んで、陸路ホータンヘ向けて出発したという。ホータンまでは二〇〇〇キロ、五日かかるそうである。日時に余裕があるなら、そのトラックに便乗させて貰いたいところであるが、今の場合はそうもゆかない。
 十時、離陸。機は一片の雲もなく青く澄み渡った空に飛び立ってゆく。機内で同行のNHKの諸君からおめでとうを言われる。今日は七十三回目の誕生日である。このところ三年続けて誕生日は中国で迎えている。昨年は蘇州、一昨年は蘭州、今年は往古の于の故地、ホータンに於てである。
 機はすぐみごとな耕地の上に出る。茶色と青の短冊がばら撒かれており、その中ところどころに土屋の集落が置かれている。集落は周囲の土の色と同じなので、よく見ない限り、集落と原野を区別することは難しい。
 機は私にとって五回目の天山を越えてゆく。大天山の稜線は尽《ことごと》く雪に覆われている。離陸十分にして、雪の山脈の上に出る。手の届きそうなところに雪山がある。
 機は無数の雪山の波濤を越えて、十時四十分、耕地のある大沙漠の上に出る。やがてコルラ上空。これから雪の天山を右手に見ながらの飛行になる。白と褐色の入り混じった大アルカリ地帯が拡がってくる。無数に罅《ひび》割れている。この地帯は絵が描けるなら描きたいだろうと思う。白と褐色の入り混じった落着いた色調である。その中に折れ曲った抽象画の黒い川の流れが置かれている。地盤は波立っていて、平坦なところはないらしい。
 十一時二十分、クチャ(庫車)上空。クチャからアクス(阿克蘇)に通じている道を探すが、なかなか見付からない。昨年ジープで走った道である。クチャからかなり長いオアシスの帯が続いており、青い耕地と集落が見えている。が、やがて漠地が拡がってくる。機上から見ると沙漠に見えるが、実際はゴビ(戈壁)の筈である。
 機内放送によると、アクスは二十一度だという。漠地の中に、曾てわれ通りし道を探す。やがて道見えてくる。天山の前山に沿って、ただ一本の道が走っている。ウルムチ—ホータン間の幹線道路である。NHK取材班の荷物を積んだトラックも、この道を通るのである。
 十一時五十分、アクス着。十二時十五分離陸。ガス深くなり、タリム(塔里木)河らしきものを見るが、正確には判らない。ホータンまで一時間十五分、深いガスの中を飛ぶ。
 一時三十分、ホータン空港着。出迎えの人の話だと、ホータンは日中二十七、八度、夜には七、八度の由。ホータン・オアシスは沙漠の中に作られたオアシスである。周囲は凄い沙漠に取り巻かれている。昼と夜の二十度の気温差は、こうした土地柄のためである。
 空港から町へ向う。土屋はどれも高い土塀を廻らせてあって、土屋の屋根は少ししか見えていない。土塀は風をよけるためのものである。ポプラはウルムチのポプラと異って、既に葉が大きく繁っている。
 門をくぐって町に入ると、間もなく大きな、多少化けものじみたポプラ竝木に入ってゆく。やがて古い城壁の欠片にぶつかり、そこを右に入ると、そこに今夜の宿舎になる地区革命委員会の第一招待所がある。立派な招待所である。
 
 このホータンの町も、この招待所も、私には二回目である。五十二年八月にここを訪ねている。その時の一行は中島健蔵夫妻、宮川寅雄、東山魁夷、司馬太郎、藤堂明保、團伊玖磨、日中文化交流協会の白土吾夫、佐藤純子、横川健の諸氏、それに私。新疆族の集りとでも言いたい顔触れである。この時の旅の紀行は、前巻に収めている。
 同じ招待所であるが、この前の時とは異って、見違えるほど立派になっている。水道もあれば、風呂もできている。あとで聞いたことであるが、これは今度の撮影班受入れのために造ったものであるという。
 昼食後、黒玉河(墨玉河)を見にゆく。この前に白玉河の岸には立っているが、黒玉河の方は見ていないので、それを見にゆくことにする。ホータンは今夜だけで、明日はニヤに向う予定になっているので、黒玉河見物はこの機会をおいてはなさそうである。土地の人の話では、今年は雪が降らなかったので、水量は少いという。
 くるまはウルムチ—ホータン街道を西へ、つまりカシュガル(喀什)の方向に向う。河岸まで二〇キロ。町を出ると、すぐ緑の耕地が拡がってくる。馬三頭の馬車。青い畑は春まきの小麦。ゆたかな農村地帯のドライブである。路傍には水路が走っているが、水は少い。ポプラの植林も見られるが、ポプラはみな貧弱である。
 土屋の集落の小さいバザールを通過。十五分ほどで道の周囲は漠地になり、砂丘が見えてくる。が、また耕地になり、路傍に沙棗の林を見る。耕地は拡がっているが、人家は全くない。舗装は時々切れる。その度に砂塵もうもうと上がる。衛星人民公社地区を行く。大きな胡桃《くるみ》の木が多い。
 やがて黒玉河の岸に出る。この河を挟んで、こちら側は和田県、向う側は墨玉県。川幅は二〇〇メートルぐらいか。水少く、砂洲が多い。黒玉河と呼ばれているが、黒い石は全くない。洪水でもないと、石は見られないという。
 橋の上に立つ。上流、下流とも、二、三十メートル先きから、川幅は三倍ぐらいになるが、やたらに大きな砂洲が横たわっていて、川筋といったものには見えない。そしてその果ては、縹 渺《ひようびよう》として空に溶け込んでしまっている。
 橋は石造り、一二〇メートルの長さ。以前は木の橋で、洪水の度に流れるので、石の橋に替えたという。水の量は、白玉河に較べると、こちらの方がずっと多い。洪水の時は水は橋桁まで来るという。上流に発電所があるが、そこから上流には石がごろごろしており、石は黒玉が多く、白玉は少いそうである。
 この黒玉河は、ホータンから一二〇キロの沙漠の中の一地点で白玉河と合流し、ホータン河と名を改めて、アクス方面へ流れてゆく。そしてその果てにタリム河に併《あわ》さるとされている。昔は確かにタリム河に流れ込んでいたが、現在は途中で水を農地に奪《と》られてしまうので、流れが果してそこまで届いているかどうか判らないという。合流点に立てば、合流しているかどうか、すぐはっきりするわけであるが、伏流という厄介な性格を持っているタクラマカン沙漠の川なので、必ずしも地上で合流しているわけのものでもない。地下で合流している場合は、それを確かめることはできない。
 それから白玉河、黒玉河の合流点は紅白峠と呼ばれているという。“紅白二山があり、紅白二水がそこで合流する”という古い地理書の記述があるそうである。紅白二山というのは、砂丘であろうかと思うが、案内役のウイグル人は、
 ——砂丘より少し粘っこい山のようです。
 と、おっしゃる。どのような山か見当がつかない。土地の人は今でもアクス方面に行くには驢馬、駱駝を使って川沿いに進み、アクスまでは十五日の行程だそうである。
 帰途、案内の人が、黒玉河畔の沙棗の小さい枝を折って、くるまの中に入れてくれる。黄色の小さい花をつけている。直径一・五センチぐらいのごく小さい花である。葉の長さは二センチか、三センチぐらい。なるほど甘い匂いである。くるまの中がすぐその匂いでみたされてしまう。花は漢方薬として咳《せき》どめの薬に使われているそうである。
 帰途に就く。この辺りの耕地という耕地は、みな漠地を開墾して造っている。暮方のホータンの町に入る。ホータンはポプラと沙棗の町である。ポプラは大きいのも小さいのもある。大きいのは化けものじみた図体をしている。ホータンの町でも、新しい建物は黄色に塗られている。窓枠は代赭《たいしゃ》色か青。土屋の方はみな粗末で、扁平な屋根を持っている。
 宿舎に帰って、部屋の机の上に沙棗の枝を置く。なるほど部屋の前の廊下までが甘い匂いでみたされてしまう。
 招待所の庭を歩く。大きな沙棗の木が十本ほど、裏手の塀際に竝んでいる。このために裏庭もまた甘い匂いに充たされている。香妃の体臭は沙棗の匂いだったと言われているが、五月にこの地区に入ったお蔭で、沙棗の匂いがいかなるものか知る。
 時計を見ると、九時、そとはまだ明るい。
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