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私の西域紀行34

时间: 2019-05-23    进入日语论坛
核心提示:三十四 ニヤ精絶国の故地 五月七日、八時五十分、出発。今日はケリヤ(于田)を経て、ニヤ(民豊)に向う。ホータン(和田)か
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 三十四 ニヤ——精絶国の故地
 
 五月七日、八時五十分、出発。今日はケリヤ(于田)を経て、ニヤ(民豊)に向う。ホータン(和田)からケリヤまで一八〇キロ、ケリヤからニヤまで一三〇キロ、併せて三一〇キロのドライブになる。
 最初のくるまに乗る。あとにジープ四台が続く。沙棗の竝木の下を通って、招待所を出る。ポプラの街路樹の美しい、砂埃りの町を行く。早朝なのに街には人が出盛っている。男たちは各人各様、勝手な帽子をかぶっており、女たちも思い思いの布を頭に巻きつけている。既に路傍には店が開かれている。大きな風呂敷のような布を帽子から背に垂らしている男たちの一団もあれば、きれいな三様の布で頭を巻いて、竝んで道を横切ってゆく三人の娘たちもいる。
 あっという間に町を脱けて、くるまは郊外へ出て行く。土屋の集落が続いている。全くの土の家で、殆ど窓もなく、屋根は扁平。土屋と土屋の間から小麦の畑が覗いている。
 招待所を出て十分程で白玉河、橋の袂で停車。川幅は五〇〇メートル、川床は全くの小石の原で、流れは殆どない。昨日その岸に立った黒玉河の方は川床を砂が埋めていたが、こちらは小石が埋めている。この白玉河の上流部には、五十二年八月、セスビル(什斯比爾)の遺跡を訪ねた時お目にかかっている。
 橋を渡って間もなく、ニロンカシ人民公社を通過、近くを同名の川が流れているそうだが、幾つか乾河道が横たわっているので、どれがニロンカシ河か判らない。
 小麦畑、桑畑、菜畑が続いている。桑畑の桑は小さく、菜畑の方は黄色の花が美しい。
 やがて街路樹のポプラはなくなる。舗装してない砂利道がまっすぐに延びており、時折、砂塵が舞い上がる。この砂利道の街道は最近できたもので、南道をぐるっと廻って、コルラ(庫爾勒)まで一二〇〇キロ。南道では大切な道路であるが、途中壊れたり、消えたりしている箇処があるという。ホータンから西はヤルカンド(莎車鎮)、カシュガル(喀什)それから北道のアクス(阿克蘇)、クチャ(庫車)を経て、ウルムチ(烏魯木斉)まで続く幹線道路が走っているが、ホータンから東のこちら側は、そういうわけにはゆかない。しかし、この道ができたお蔭で、われわれもこの地帯に足を踏み入れることができるのである。
 ホータン以東の、これから先きの地帯の住民は殆どがウイグル族である。従って多少、農村の雰囲気も異ってくる。土屋の農家の前には、申し合せでもしたように子供たちが立っている。子供たちはみな裸足。靴は大人になってから履くものなのであろう。
 道は坦々と真直ぐに走っている。曇っているので、崑崙山脈は全く見えない。
 大耕地地帯を行く。トラックとすれ違うと、砂塵が凄い。羊群、馬群が時折、遠くに見えている。
 
 九時三十分、道は直角に右に曲り、ロブ(洛浦)県の集落に入って行く。土屋点々。水路や、水溜りがあちこちにある。右手にロブ県のセメント工場が見えるが、その他には建物らしいものは何もない。
 やがて、今まで続いて来た耕地はなくなり、次第に漠地に変ってくる。これから次の集落・チラ(策勒)県までは七六キロ、それまでこの漠地が続くという。見渡す限り一木一草ない、真平らな不毛地。小石すらもなく、地面は薄く黒ずんでいる。
 そのうちに多少地盤の荒れた地帯に入る。砂利採取の労務者が二〇人ほど働いているのを見る。太陽は照っているが、何となく曇っていて、余り暑くはない。太陽は右手前。時々、小石の散らばっているゴビ風のところがないでもないが、概して平坦な、一木一草ない不毛地の拡がりである。崑崙山脈は依然として見えない。
 坦々たる西域南道のドライブ、どこまでも続く。ロブ県とチラ県の間の大不毛地のドライブである。時々、幅一間か二間の小さい乾河道を渡る。山地に雨が降ると、忽ちにしてここが川になるのであろうと思う。時にまるで天から降りでもしたように、小石がごろごろ散らばっているところがある。それもそこだけ。
 十時五分、多少地盤が波立ち、小石が覆い始める。が、概して平坦。全く草というものはない。時折、乾河道を渡る。遠く行手に蜃気楼の海が見えている。
 十時十五分、路傍左手の漠地の中に廃屋一つあって、その近くでウイグル人の男二人が弁当を食べているのを見る。傍に井戸があり、一人が水を汲んでいる。その横に駱駝が二頭。
 停車、小休止。くるまを降りて、二人のウイグル人のところへ行ってみる。井戸様のものがあって、そこから水を汲んでいるが、本当の井戸でも、泉でもなく、二、三年前の道路工事の時造ったという水の貯蔵庫であった。誰が水を補給するのか知らないが、とにかくここに水を貯蔵しておいて、この地帯を駱駝や馬で往来する人たちのために便宜をはかってやっているのである。ずいぶん漠地のドライブが続いたように思うが、まだケリヤまで、半分も来ていないそうである
 休憩十分、出発。やがて右手に丘が現れ、それが長く堤のように続く。が、それがなくなると、こんどは左手に大きな丘の連なりが現れ始める。その丘の向うには、何となく海でもありそうな感じだが、海ではなく、タクラマカン沙漠が拡がっているのである。
 左手前方に緑の線が見えてくる。近付いてみると、かなり大きな川が流れていて、その川筋に沿って緑の帯が造られているのである。そこを通過すると、すぐまた漠地が拡がってくる。その漠地の遠くにも小さい島のように、点々と緑の固まりが置かれている。おそらく今の川の川筋に当っているところなのであろう。
 遠くに放牧の山羊の一団。やがてまた左手遠くに大きな緑の帯が見えてくる。が、次第にそれはオアシス地帯を示す大きな緑の固まりになってくる。果してチラ県である。
 十時五十分、その長い長い帯の中に入って行く。久しぶりの耕地地帯が始まる。胡桃の木が多く、路傍ばかりでなく、田圃の中にもあちこちに立っている。泥土で造ったような農家が点々。おそらく日乾《ひぼし》煉瓦の上に泥を塗っているのであろうが、泥をこねて造った家のように見える。
 農村地帯に入る。耕地の青さが眼にしみる。ここにも多少町らしいところはあるであろうが、そこには入らないで、農村地帯を通過してゆく。畑の間に漠地が挟まっている。ホータンからここまでは一〇〇キロ。
 耕地、次第に原野に変ってゆく。雑草で覆われた原野が波立ち拡がってくる。これはこれでいかんともなし難い地帯であるが、それにしてもオアシスであることだけは間違いない。驢馬にまたがった女、ただ一人向うからやって来る。暫くすると、こんどは老人、これも驢馬にまたがって、ただ一人。
 十一時五分。原野は耕地に変り、やがて農村地帯に入る。チラ県の人民公社である。粗末な土屋点々。農家の造りから判断する限りでは、新疆地区のどこよりも、この地帯が貧しそうである。しかし、耕地はよく整理されてある。
 
 十一時二十分、長く続いた耕地地帯が、地盤の荒れた不毛地帯に変る。小丘陵の波立つ全くの原野である。先きの七〇キロに及んだ一木一草なき不毛地帯のあとは、耕地と不毛の原野がだんだらに織りなされている。
 荒れた大小の丘が見渡す限り遠くまでばら撒かれている。地面は白い粘土で、めくれそうに罅《ひび》割れている。丘と丘との間には、小さい土の固まりが無数に置かれ、その一つ一つに雑草が載っている。土饅頭地帯である。中国の言い方では土包子地帯、——雑草の根もとに土や砂が吹き寄せられ、それが雑草を載せたまま団子型に固まるのである。小さいのもあれば大きいのもある。大きなのになると、たくさんの雑草や灌木を載せて丘を造っている。荒涼とした異様な風景である。
 十一時三十分、漸くにして土包子地帯は終り、原野の拡がりとなり、遠くに放牧の馬の群れが見える。やがて耕地が現れて来るも、すぐまた原野となる。見渡す限り黄色の雑草に覆われた原野で、あちこちで牛の放牧が行われている。道に近い地帯には水溜りが多い。湿地帯であろうか。突然、また耕地に変り、暫く農村地帯を行く。粗末な農家が点々としているが、やがてまた原野となり、雑草の原がどこまでも続く。羊群、あちこちに見える。すると耕地、また原野。耕地と原野が交替で現れてくる。
 漸く陽ざしが強くなり、農村地帯に入ると、ポプラの葉が陽に輝いて美しい。時折、農家の傍に草で囲んだ四角な箱様なものが見える。運転手君の話だと、その中には山羊が飼われていると言う。農家もまた四角な土屋、その前に真紅の布を頭にかぶった娘さんが立っていたり、裸足の子供たちが集っていたりする。
 この地帯の原野は例外なく丈高い雑草で覆われており、低い丘が現れたり、消えたりしている。やがて大きな羊の放牧場が右手遠くに見えて来、前方に大きなオアシスの緑の帯が置かれているのを見る。道は何度目かの農村地帯に入って行く。羊の群れ、牛の群れ。青い耕地。窓のない土屋。すっかり芦で覆われている土屋もある。家はその大部分が土塀を廻らしている。風の強い地帯なのであろう。
 十二時五分、左右共、真平らな青い美しい放牧地の拡がりとなり、羊群、馬群があちこちに配されている。が、依然として不毛地帯も現れて来、耕地、不毛地がだんだらに織りなされている。そしてその間に農家が現れたり、羊群が現れたりしては、うしろに飛んで行く。
 道、ゆっくりと降りになり、また上る。驢馬がひく荷車と行き交うことが繁くなる。驢馬に乗った女もやって来る。女はみな着飾っているように見える。男も女も、着ぶくれている。
 土、白くなり、道も白くなる。やがて道はケリヤ(于田)県のオアシスの中に入って行く。大きなポプラの竝木、広い道、白壁の店。久しぶりの集落らしい集落である。やがて町の招待所に入る。十二時四十分である。
 
 これまで通過して来た地帯は耕地、不毛地が入り混じっていたが、それにしても水に恵まれ、地下水は一応豊富といってよく、点々と配されていた小オアシスの緑の帯は白楊樹、桃、沙棗、ポプラなどによって造られているという。
 招待所の人の話では以前はニヤまで、馬で四、五日、ホータンまでは六、七日を要したという。道には四〇キロ毎に駅亭があったが、駅亭から駅亭までを、一日の行程には組めなかったそうである。もちろん、今日走った道ではない。以前の道は時折、車道の横に現れるので、注意していたら以前の駱駝や驢馬が歩いた道の欠片にお目にかかれるという。
 招待所で昼食、そしてたっぷりと休憩。その間、招待所の入口を大人や子供たちが埋めている。外国人を見ようというわけであるが、それにしても大変な騒ぎで、お巡りさんが内部になだれ込もうとする人たちを阻止している。
 
 四時、出発。二時間以上待っている人たちの間を脱けて、くるまは招待所の門を出る。道は道で大変である。子供たちがあちこちから駈け寄ってくる。町の中心部で停車、大急ぎでカメラのシャッターをおす。
 やがてくるまは町を脱けて、耕地に入ってゆく。ケリヤ河の橋の袂で、もう一度、停車。こんどは川を撮すためである。流れは少いが、川幅は広く、やはり大河の貫禄を持っている。ケリヤ・オアシスを造っている川である。ケリヤ河を渡ると、すぐ不毛の丘陵地帯が拡がってくる。
 くるまの前に竜巻が立っている。丘陵と丘陵の間を、水が流れている。左手の丘の波立っているところは牛の大放牧場になっている。
 道は折れ曲り、折れ曲りながら走っている。時折、道の近くに、先刻ケリヤの招待所で聞いた旧道が現れてくる。幅二メートル程の細い道であるが、今でも驢馬や駱駝の道として使われているのであろうと思う。
 竜巻、また一つ。女二人、それぞれ驢馬に乗って向うからやってくる。相変らず着ぶくれた恰好をしている。
 左右共に、本格的沙漠の拡がりとなる。こんどの旅で、初めての沙漠の出現である。道の附近は胡桐地帯、胡桐は名前は堂々としているが、駱駝草に似た草である。左手に大竜巻が見える。続いて右手にも竜巻。竜巻地帯なのであろう。
 そのうちに胡桐は姿を消す。依然として大沙漠の海。沙棗の生えた一画を通過、やがて何もなくなる。かなり長く沙漠のドライブが続くが、次第に道に近いところはゴビに変ってゆく。遠いところは沙漠、近いところはゴビ、左手遠くに緑の帯が見えてくる。
 突然、右手に小さいオアシスが現れる。農家二、三軒と僅かな耕地、たいへんなところに人は住んでいるものだと思う。
 次第に左手のオアシスの緑の帯が近付いてくる。やがて、その中へ入って行く。沙棗の林。右手も大不毛地に囲まれてはいるが、耕地が現れて来る。苜蓿《うまごやし》の畑、葉は濃い青。
 オアシスの帯を行く。桑の木が多い。緑の帯の外側には沙漠が拡がっているが、沙漠は砂で烟っている。農家点々、路傍に人が立っている。沙漠の中の島の住人である。が、やがてこのオアシスの帯も、漠地に呑み込まれてしまう。
 四時三十分、大ゴビのドライブとなる。駱駝草も、胡桐もない。ゴビの中の小川の畔りに、二、三十頭の駱駝が見える。その小川の川筋に当っているのであろうか、ゴビの中に樹木二、三本ずつ持った小さいオアシスが、島のように点々と配されている。
 やがてまた、所々に駱駝草が置かれ始める。が、それにしても小石のごろごろしている荒いゴビである。先刻の七〇キロに亘ったゴビより、この方が荒々しい。もはや青い島もなくなり、見渡す限りゴビの拡がりとなる。竜巻、また竜巻。竜巻、道を横切ってゆく。くるまを停めて、どうぞ、お先きに! 竜巻を遣り過す。
 大乾河道の橋を渡る。左手に大きな沙棗地帯が現れる。どこかに泉でもあるのであろう。
 四時四十五分、ゴビ、全く沙漠に変る。右手に大きな断層を見る。まさに大沙漠のドライブである。砂が舞い上がっているのか、視界利かず、前方ぼんやりしている。
 満載のバスとすれ違う。一日一回のニヤからホータンへ向うバスの由。そのうちに九八八キロの標識を通過する。この砂利道の終点であるコルラまでの距離を示しているものだという。こんどはトラックとすれ違う。やがて荒れた大乾河道を渡る。
 五時、依然として沙漠のドライブが続いている。右手に細い道の走っているのを見る。旧道の欠片なのである。停車、沙漠の中の休憩。くるまから降りて、砂の上に仰向けにひっくり返る。見渡す限りの砂の海の上に大きな空がかぶさっている。遠く竜巻が立っている。竜巻が多いのは、去年雪が少かったためだという。
 
 五時十分、出発。九八一キロの標識を通過する。左手遙か遠くにただ一本の木が立っている。人間もなかなかあれほど孤独にはなれぬだろうと思う。あそこだけに水があるのであろうか。
 やがて、沙漠は次第にゴビに変ってゆき、枯れたタマリスク(紅柳)の原が拡がり始める。小石のごろごろした原に、タマリスクの死骸が無数に置かれてあって、見渡す限り茶色の原に見える。全くの死のゴビである。河畔のタマリスクは大きい灌木になるが、こうした沙漠やゴビのタマリスクは駱駝草ぐらいの大きさである。一望の枯れたタマリスクの原、これはこれで見事と言う他ない。
 五時二十分、枯れたタマリスクの株、少くなり、小石のごろごろしたゴビの地肌が現れ出す。ところどころに青い駱駝草も置かれ始める。旧道の欠片、左手すぐそこに見える。四本の竜巻、くるまと平行して走っている。
 五時二十五分、ゴビから沙漠に変る。一望、限を遮るものなき砂の海。沙漠のまん中で、ニヤ(民豊)県に入る標識がある。時折、乾河道を渡る。乾河道には大小の石がごろごろしている。崑崙山脈に大雨でもあると、これらの乾河道という乾河道はすべて濁流の道となり、これら大小の石を運んでくるのであろう。その時は凄い光景であろうと思う。この辺りの沙漠はたっぷりと砂が埋まっている感じで、小さい草はあるが、みな枯れている。地盤下がって、大乾河道を渡り、また上がる。
 五時三十五分、依然として沙漠のドライブが続いている。地盤、多少波立ってくる。時折、小石のばら撒かれている地帯がある。黒、赤、茶、白、いろいろな色の小石である。道はゆるく上がったり、下がったり。明るい沙漠である。南道でもこの辺りには、タクラマカン沙漠が入り込んで来ているので、大沙漠の波打際といった感じである。
 五時四十五分、沙漠はゴビに変り、再びタマリスクの死の原が始まる。土包子地帯、土団子の固まりの上に枯れたタマリスクの株が載っている。
 くるまは時速八〇キロ。それにしてもオアシス地帯を見ざること久し。ケリヤを発ってからは、ずっとゴビと沙漠が交互に現れている。空には雲一つないが、イランの空のような濃い青さはない。一度も崑崙山脈が姿を見せないくらいだから、どこもかしこも砂で烟っているのであろう。
 ケリヤから二時間、ゴビと砂漠ばかりに付合って来て、集落らしい集落には全くお目にかかっていない。
 
 突如、ニヤ河の橋の袂に出る。停車。川幅は五、六百メートル。川床をすっかり河原が埋め、青い流れは細い帯になって、河原の隅の方に横たわっている。川の両岸は断層をなしており、ホータン側では一丈ぐらいの低い崖であるが、対岸のニヤ側は、橋の上手も、下手も大断崖で縁どられている。
 ニヤ河はこの地帯随一の歴史の川であり、大河であるが、ここで見る限りでは、大乾河道の中に、細い流れがひとすじ置かれているだけである。おそらく本流は地下にくぐっていて、一朝事ある時でない限り、ここには姿を現さないのではないかと思われる。
 このニヤ河の橋からニヤまでは一五キロ。出発。いよいよ最後のコースである。依然としてゴビのドライブが続く。左手遠くにオアシスの緑の帯が見える。が、やがて、それとは別に行手に緑の長い帯が現れてくる。ニヤのオアシスである。
 が、なかなかそのオアシスに近付いてゆかぬ。しかし、緑の帯は少しずつ濃くなってゆく。久しぶりに耕地の欠片、胡桃畑。胡桃畑の傍には竜巻が立っている。路傍に花をつけたタマリスク。例の桃色の花が美しく咲いている。枯死したタマリスクの原を見てきた眼には、このタマリスクの花がひどく可憐なものに感じられる。
 六時二十分、遂にニヤのオアシスの緑の中に入って行く。ゴビのドライブは全く終り、いきなりくるまは緑に包まれてしまう。両側の樹木は胡桃、沙棗、杏、ポプラ。麦畑も眼に入ってくる。土屋、派手な原色の衣類を纒った娘たち。頭に巻いているスカーフの色も鮮やかである。農村地帯を脱けて、こんどは紛れもないニヤの町に入って行く。そして町の入口で、宿舎の県庁招待所に入る。
 
 ニヤは正しくは新疆ウイグル自治区ホータン地区ニヤ県。
 ニヤが外国人を迎えるのは三回目。一九五〇年代にソヴィエト農業専門家を、一九七六年にスウェーデン中国友好協会副会長を、そしてこんど私たちが三回目だそうである。
 ホータン地区には七つの県があるが、このニヤ県が一番小さい。現在この県の人口は二万四〇〇〇、このうち四〇〇〇人ほどが漢民族、他はウイグル族。解放前は漢民族はごく僅かで、何百という程度だったという。
 いずれにしても、文字通りの僻遠《へきえん》の地。最近、今日私たちがドライブして来た道ができたからまだいいようなものの、それまでは今日何回か眼にした細い道が沙漠やゴビのただ中を走っていたのである。容易なことではお隣りのケリヤまでは行けなかった筈である。ましてホータンとなると、大変な旅になる。
 現在でも、依然として不便なことには変りはない。人民日報は半月遅れ、ホータンの新聞も三、四日遅れになるという。中国放送はなかなか入らず、ロシヤの中国向け放送が入って来る。世界に何事が起ろうと、ここに居る限りは無関係である。
 五月の今、日中は三十五、六度、夕方は十五、六度。温度差が烈しいので、夕方気温が落ちると、ひどく寒く感じる。一番暑いのは七月中旬、昼は三十八度から四十度、夜は二十度、あるいはそれ以下。一番寒いのは一、二月、大体零下十五、六度。時には零下二十度になるという。
 雨は全く降らないといっていい。一年の降雨量は二九ミリ。この土地の人は雪と雨が降ると大悦び、今年は雪は一度も降らず、雨も四月にちょっと降っただけ。しかし、山間部に雨が降るので、そのお蔭で水を得ることができる。物資には甚だ恵まれていない。野菜も少い。が、今年初めて温室栽培を始め、その野菜が招待所の食卓にのるようになったという。
 南道の町がみなそうであるように、ニヤもまた砂の町である。招待所の庭へ一歩踏み出すと、靴は砂で白くなる。砂は招待所の広い庭をたっぷり覆っている。町中の道も全く同じである。
 
 ニヤは漢代の精絶《せいぜつ》国の故地である。その遺跡は北方一二〇キロの沙漠の中にあり、スタインによって掘られて、ニヤ遺跡として有名になっている。
 往古の精絶国が初めて紹介されたのは「漢書・西域伝」に於てである。
 ——王は精絶城に治し、戸数四百八十、人口三千三百六十、勝兵五百人。
 こういったことが記されている。ともかくこのような国が営まれていたということは、そこがオアシスであったということであるが、そのオアシスを造っていたのはニヤ河以外には考えられない。
 しかし、そのニヤ河の水が、何らかの理由でそこまで届かなくなり、精絶城は沙漠の中に廃棄されるに到ったのである。ここから発見された木簡の銘によって、大体三世紀頃までは存続していたと見られている。
 七世紀の玄奘《げんじよう》の「大唐西域記」には、
 ——ニヤ城は周囲三、四里、大沢地の中にあって、渡渉は困難、芦が生い茂って道さえない。
 おそらくこのニヤ城は、漢代の精絶城の廃棄されたあとに、もう少し南の方に営まれた城ではないかと思われる。もちろん、これは私の推定であって、何の学的根拠もない。が、この推定が当っているとすると、この方は反対に湿地に悩まされている。大沢中に城を営むことはあり得ないから、城を造ったあと、ニヤ河の伏流して来た水が、大沢を作ってしまったのであろう。こうなると、またここも棄てて、人々は他のもっと住みよいところに移転しなければならない。といって、ニヤ河からすっかり離れてしまうわけにはゆかず、その流域に候補地を探さなければならない。
 現在のニヤの町が、その何回目の移転先きか知らないが、往古の精絶国の二千年後の姿であると言っていいかと思う。今のニヤの町は大体に於て七百年位の歴史を持っていると見られているようである。この町の郊外に“モンゴル井戸”と呼ばれている井戸があるので、十三世紀のモンゴル兵団の通過の折は、すでにこの集落は営まれていたに違いない。こういう推定から七百年という数字が引き出されているという。かなり荒い推論で、この見方が正しいか、正しくないか知らぬ。しかし、このタクラマカン沙漠南辺の波打際の町まで来てしまうと、何を信じても、何を信じなくても、どちらでもいいような気持になってしまう。
 古いことについては一行の記述も遺っていないというから、すべては空白である。もし往事を語るものがあるとすれば、それはすべて沙漠かゴビの中に埋まってしまっているのである。今日通過してきたチラ県の北方の沙漠の中にも「漢書・西域伝」の彌《ウビ》国、玄奘の「大唐西域記」では摩《ビーマ》城とされている遺跡が埋まっているのではないかと思われるが、さしてそれを確かめたいとも思わない。
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