京、七条|西洞院本能寺《にしのとういんほんのうじ》。
信長《のぶなが》が寝間で目を覚ましたのは、廊下を走る小姓《こしよう》の足音のためだった。
まだ夜は明けていない。
「何事じゃ」
布団から半身を起こして、信長は襖《ふすま》の向こう側に声をかけた。
そこには不寝番の小姓がいる。
信長の身辺を警護するためだ。
「一大事にござりまする」
その声は不寝番のものではなかった。
「お蘭《らん》か、入るがよい」
「はっ、御免」
襖を開けて入ってきたのは、森蘭丸《もりらんまる》である。
織田《おだ》家家中でも随一の美貌《びぼう》で知られ、信長が小姓の中でもっとも愛している若武者だ。
先年、元服して、長定《ながさだ》と名乗ったが、相変わらず信長の側近として仕えているため、信長は小姓時代と同じく「お蘭」と呼んでいる。
しかし、その美しい顔立ちからは想像もできないほど武勇にも長《た》けている。
「先ほど、明智《あけち》日向守《ひゆうがのかみ》殿配下の高柳左近《たかやなぎさこん》と申す者が、ただ一騎にて注進したき儀ありと駆け込んで参りました」
「日向の家臣がいまごろ何事か」
信長は不快そうに言った。
蘭丸は顔を上げて、
「明智日向殿、謀反《むほん》の企《たくら》みありと申しております」
「日向が謀反じゃと」
信長は信じられなかった。
しかし、とにかくそういうことを注進してきた家来がいるのだ。
「庭へまわせ、余《よ》が直々《じきじき》に下問する」
信長は白い寝巻に袷《あわせ》を一枚羽織ると、寝床を飛び出した。
大股《おおまた》で廊下を進んでいく信長に、太刀《たち》を持った小姓らが、慌てて従った。
信長の身辺にはつねに五、六人の小姓がつき従っている。
左近が庭で平伏していた。
信長は廊下の上から声をかけた。
「そちか、日向の家臣高柳と申すのは?」
「はっ、母衣《ほろ》武者を務めまする高柳左近と申す者でござる」
「我が旗本に知り人はおるか」
「はあ」
左近は最初どうして信長がそんなことを聞くのかわからなかった。
不審に思って顔を上げた。
信長は、細面の、よく引き締まった顔で、左近をじっと見つめていた。
「だれじゃ」
「御近習《ごきんじゆ》の野々村三十郎《ののむらさんじゆうろう》殿とは昵懇《じつこん》の間柄でござる」
嘘《うそ》ではなかった。
三十郎とは二、三度酒を酌み交わしたこともある。
信長はすぐに周囲の者に命じた。
「三十郎を呼んで参れ」
そこでようやく左近にも、信長が何をしようとしているかわかった。
身元の確認である。
三十郎が息せききってやってきた。
「この者、見覚えがあるか?」
顔を見るなり信長は声をかけた。
「明智日向守様配下、高柳左近殿にござります」
三十郎は即答した。
「しかと相違ないか」
信長は念を押した。
「はい」
「うむ。では、左近と申したな、明智日向が謀反のこと、まちがいないか」
信長はあらためて左近に問うた。
「その前におうかがいしたき儀がござる」
左近は腹に力を入れてたずねた。
「何か?」
「上様は今宵《こよい》、明智の殿に、京へ参れ、武備を見せよ、と御下知《ごげち》なされましたでしょうか」
「そのような下知は下しておらぬ」
信長もすぐに答えた。
左近は大きくうなずいて、
「なれば日向守殿の逆心、まぎれもござらぬ」
と、これまでの経過を説明した。
一同に驚きの色が浮かんだ。
しかし、信長だけは冷静だった。
「蘭丸、三十郎、みなを叩《たた》き起こせ。すぐにここを出る」
「上様、どちらへ参られます?」
蘭丸はたずねた。
信長の本拠は近江安土《おうみあづち》城である。
だが、そこへ向かうのは危険だった。
安土へ行く途中に坂本《さかもと》城がある。
坂本城は光秀《みつひで》の持ち城である。
「大坂へ行く。妙覚寺《みようかくじ》の信忠《のぶただ》にも知らせよ。荷物などいらぬ、ただ駆けよ、とな」
「かしこまりました」
信長は寝所へ戻りかけて、左近の存在に気づくと、
「そのほう、大儀であった。いずれ褒美をとらす、余《よ》について参れ」
「ありがたき御言葉」
一礼をした左近が顔を上げると、もう信長は視界から消えていた。
それからの信長は、まさに神業とも言うべき速さで衣服を着替え、馬上の人となった。
鎧《よろい》は身に着けず、派手な模様の小袖《こそで》に南蛮風《なんばんふう》のマントを羽織っている。
「大坂じゃ、行くぞ」
信長は真っ先に鞭《むち》を当てて本能寺の門を出た。
光秀率いる一万三千が入京したとき、本能寺も信忠のいた妙覚寺も、すでにもぬけの殻《から》だった。