「馬鹿者、よく、わしの前に面《つら》をさらすことができるな」
光秀《みつひで》は怒鳴りつけた。
もともと温厚で人当たりのいいという評判の武将である。
その光秀が怒鳴りつけるなどきわめて珍しいことだった。
叱責《しつせき》されているのは天野源《あまのげん》右衛門《えもん》だ。
言うまでもない、左近《さこん》を取り逃がした責任を問われたのである。
たしかに致命的とも言える失敗だった。
左近さえ逃がさなければ、光秀の反乱は成功したにちがいない。
信長《のぶなが》は完全に油断していたし、軍勢は信長の十倍以上ある。
いまごろは、光秀は信長の首級《くび》を肴《さかな》に一杯やっていたかもしれないのだ。
それがなんという計算ちがいだろう。
京へ入ってみると信長はとうの昔に脱出しており、息子の信忠《のぶただ》すらいない。
それどころか京には、織田《おだ》勢の影すら見えないのである。
太陽が昇り明るくなってきた京洛《きようらく》の地に、一万三千の軍勢が敵も見つからずに取り残されることになったのである。
(くそ、どうすればいいのだ)
まず、真っ先に信長親子を討ち取る、それが計画の眼目だったはずだ。
信長の首をあげてこそ、筒井順慶《つついじゆんけい》や細川藤孝《ほそかわふじたか》といった明智《あけち》派の武将も追随してくるはずなのに、これではどうにもならない。
「内蔵助《くらのすけ》、なんとする?」
光秀は家老の斎藤《さいとう》内蔵助に意見を求めた。
内蔵助は今度の反乱に最初から賛意を示した一人である。
「まず、信長公がどこへ逃げたか——」
「ええい、公などと呼ぶな、あの男は敵だぞ」
いらいらして光秀は叫んだ。
内蔵助は一礼して、
「されば、信長めが、どこへ逃げたか、まずそれを探るのが肝要だと思われまする」
光秀はうなずいた。
「絵図を出せ」
光秀はそう命じると床几《しようぎ》の上に、どっかと腰をおろした。
運ばれてきた絵図を見て、信長の脱出先を詳細に検討した。
考えられる道筋は三つあった。
一つは、街道を東へ向かい、近江安土《おうみあづち》城に入ること。
二つは、南下して大坂《おおさか》に入り、長宗我部《ちようそかべ》征伐に向かおうとしている丹羽長秀《にわながひで》の軍団と合流すること。
三つは、中国路を西へ向かい、羽柴秀吉《はしばひでよし》の本城|姫路《ひめじ》城に入り、備中高松《びつちゆうたかまつ》で毛利の大軍と対峙《たいじ》している秀吉の軍団を呼び戻すこと。
「大坂だな」
光秀と重臣の意見は一致した。
安土はたしかに信長の本拠だが、現在軍団はすべて出払っていて、近江|日野《ひの》城主|蒲生賢秀《がもうかたひで》を将とする留守居《るすい》の兵しかいない。
それに安土へ行くには途中が不安だ。
だとすれば大坂へ行き、丹羽長秀、三男の織田|信孝《のぶたか》の軍団と合流するのが早道である。
とにかく、一刻も早く信長を追撃すべきであった。
並みの戦いなら、いったん引き揚げて近江|坂本《さかもと》城へ戻って態勢を固める手もある。
しかしこれは反乱である。
反乱である以上、信長の首が是が非でも必要であった。
もしそれを得ることができなければ、明智軍団は信長の総攻撃を受け壊滅するしかないのである。
光秀はとりあえず命を下した。
大坂に向かって南下し、まずは京南郊の勝龍寺《しようりゆうじ》城をめざして、明智軍団は出立した。