織田信長《おだのぶなが》は大坂《おおさか》城に入った。
ここは、ついこのあいだまで石山《いしやま》といい、本願寺《ほんがんじ》があった。寺とはいっても、それは日本最大級の城であった。
この城を拠点として戦う一向一揆《いつこういつき》に対し、信長は十年戦い、ついに落城させることができなかった。
それは、城が堅固なせいばかりではなかった。西国《さいごく》の毛利《もうり》家が強大な水軍を使って、本願寺に補給を続けていたからだ。
この補給路を断たないかぎり、本願寺には勝てない。
それを知った信長は、配下の水軍に、毛利を叩《たた》くことを命じた。
ところが、水軍は毛利のほうが一枚も二枚も上手だった。
毛利水軍は瀬戸内の村上《むらかみ》水軍を主体として、海戦には慣れている。
織田の水軍は、一矢《いつし》も報いられず惨敗した。
怒った信長は、敗因を調べさせた。
もし、それが水軍の将の怠慢によるものだったら、信長はその将を追放し殺していたかもしれない。
しかし、そうではないということがわかった。
毛利水軍の勝因は、焙烙玉《ほうろくだま》という新兵器にあった。
これは銅製の玉に火薬を詰め、点火して敵の船に投げ入れる、という一種の手投げ弾である。
この効果は抜群であった。
爆発による被害よりも、むしろ火炎による被害が大きかった。
当時は全部木造船である。
焙烙玉をぶつけられた織田家の軍船は、つぎつぎに炎上し沈没した。
「焙烙玉を防ぐ手だてを考えねば、毛利には勝てませぬ」
訴える伊勢九鬼《いせくき》水軍の将、嘉隆《よしたか》に、信長はこともなげに言った。
「ならば、燃えぬ船を造るがよい」
信長は、水軍に素人《しろうと》のはずだった。
これに対して嘉隆は先祖代々、水軍の頭《かしら》を務めてきた、玄人《くろうと》中の玄人である。
水軍の玄人が、その発想には気がつかなかった。
「燃えぬ船と申しましても——」
「鉄で造ればよいではないか」
「鉄では沈みます」
「ならば、木に鉄を貼《は》れ。それならよかろう」
嘉隆は恐れ入って御前を下がった。
そうして造られたのが、長さ十三|間《けん》(約二十四メートル)、幅七間(約十三メートル)、船首寄りに二層の天守台までついた戦艦である。
それは、まさに戦艦と呼ぶにふさわしいものであった。
水面上に出た部分は、すべて薄く延ばした鉄板で覆い、船首には大砲三門を備え、左右船腹には銃眼《じゆうがん》が蜂《はち》の巣《す》のようにうがたれ、前後左右どこでも一斉射撃できるようになっている。
これを片側百|梃《ちよう》ずつの櫓《ろ》を数十人が漕《こ》いで移動するのである。
この鉄甲船《てつこうせん》六|隻《せき》と、毛利水軍の六百余隻の軍船とが、いまから四年前の天正《てんしよう》六(一五七八)年、大坂湾|木津川《きづがわ》沖で対戦した。
結果は、織田軍の圧勝であった。巨象に野良犬の群れが群がるようなものだった。
毛利自慢の焙烙玉も、装甲の鉄板にさえぎられて何の役にも立たない。
これに対して、鉄甲船からは一弾で毛利軍船を吹き飛ばすほどの威力の大砲が、つぎつぎと射ち込まれた。
毛利水軍は、壊滅に等しい打撃を受けた。
信長に対抗して同じような鉄甲船を造ることはできない。
技術の問題ではなくて、それほどの巨大船を造ったうえに、すべてを鉄張りするほどの経済力が毛利にはないのである。
これは毛利にかぎらず、日本全国のどこの大名でも同じだった。
信長の経済力は日本一、どこの大名も足元にもおよばなかったのである。
この敗戦以後、毛利は本願寺への支援をあきらめた。
それから二年間、本願寺はしぶとく持ちこたえたが、ついに天正八(一五八〇)年、時の帝《みかど》の仲裁を受け入れ城を明け渡して退去した。
ところが、その直後、何者かの放火によって、日本一の城塞《じようさい》と讃《たた》えられた石山本願寺は跡形もなく焼亡してしまう。
おそらく、退去させられた本願寺側の人間が、腹いせにやったことだろう。
しかし、信長はなんとも思わなかった。
もともと寺などは大嫌いで、寺の形をした城など取り壊すつもりでいたからだ。
信長は、まずそれまで石山と呼ばれていた地を正式に大坂と改め、焼け跡に城を造らせた。
それも意外なほどに簡単な安普請《やすぶしん》の城であった。
「これでよいのでござりますか?」
四国征伐のため大坂在住を命ぜられた丹羽長秀《にわながひで》は、不審げにたずねた。
「よいのだ。しばらくはな。いま少し待て、毛利と四国の長宗我部《ちようそかべ》が片づいたら、そのほうに申しつけることがある」
長秀は、信長の胸中を察した。
長秀はかつて安土《あづち》城築城の総奉行《そうぶぎよう》を命ぜられたことがある。
織田軍団の中で、丹羽長秀の軍団は、どちらかというと遊軍扱いであった。
関東を滝川一益《たきがわかずます》、北陸を柴田勝家《しばたかついえ》、山陽を羽柴秀吉《はしばひでよし》、山陰を明智光秀《あけちみつひで》、このように分担して各軍団がそれぞれの地域の征服をめざす。
これが、信長の天下統一構想である。
そして、丹羽軍団は四国を制覇した後は、とりあえず手が空《あ》くことになる。
そこで軍団長の地位は三男の信孝《のぶたか》にして、自分をふたたび新たに築く巨城の普請奉行に任ずるつもりだな、と長秀は察したのである。
信長が、この石山の地を昔から欲しがっていたのはだれもが知っている。
そして、おそらく天下統一のための最後の城を、ここへ築くだろうということも。
安土も立派な城だが、いかんせん重大な欠陥がある。
それは安土に海がない、ということである。
重商主義、貿易重視の信長が、そんな内陸の地に最後の城を持つはずがない。
信長は、その仮普請の大坂城の天守台に登って、京《きよう》の方角を見ていた。
空は晴れている。
広やかな平野が、山々が連なる山崎《やまざき》あたりまでつながっている。
(いまごろ光秀め、地団駄《じだんだ》を踏んで悔《くや》しがっているだろう)
信長はにやりとした。
しかし、笑ってばかりもいられない。
とにかく光秀を倒さねばならないのである。
戦略として考えられることは二つあった。
一つは、この大坂城に籠城《ろうじよう》して時間を稼ぎ、全国に散らばっている織田軍団を呼び戻し、光秀を撃破することである。
もう一つは、この大坂にいる軍勢だけで、ただちに敵を急襲することだ。
織田軍団を全員呼び戻す必要はない。
その一部を召還したとしても、たちまち数万の軍勢が集まる。
これに対して、光秀に味方する者はまずいないだろう。
味方すると考えられるのは、大和《やまと》の筒井順慶《つついじゆんけい》と丹後《たんご》の細川藤孝《ほそかわふじたか》である。
筒井順慶は、松永久秀《まつながひさひで》に大和一国を奪われた後、浪人としてさんざん辛苦を重ね、その松永が信長に反旗を翻《ひるがえ》した際に、これを攻め、ようやく国を奪い返した男である。
その際、光秀が何くれとなく面倒を見ている。兵も貸してやっている。
順慶は、自分が国を奪い返すことができたのは光秀のおかげだと思っているし、感謝の念をつねに表している。
だから、順慶だけは光秀に味方する可能性がある。
細川藤孝は光秀と昔から親しい友であるし、その息子|忠興《ただおき》には光秀の娘|玉《たま》が嫁いでいる。つまり、忠興は光秀の女婿《むすめむこ》ということになる。
しかし、
(藤孝は光秀には味方しまい)
信長は、そう思った。
藤孝は先の見える男である。
光秀が信長を討ち取ったのならともかく、取り逃がしたとあっては、まず味方することはないはずだ。
信長は祐筆《ゆうひつ》(書記)を呼び、順慶と藤孝に手紙を書いた。
「おまえたちを信じている、決して光秀に味方するな」
という内容である。
これで、順慶は迷うかもしれないが、藤孝はまず味方しまい。忠興が味方しようとしても、藤孝は止めるはずだ。
動員できる兵は順慶が三千、藤孝も三千というところだろう。
合計六千の兵が光秀につくかつかぬか、これは大きい。
だが、光秀の暗殺計画は失敗したのだ。
それでもまだ味方しようとは、まず考えないはずである。
「上様、徳川《とくがわ》殿が参られました」
森蘭丸《もりらんまる》が知らせに来た。
「おう、参ったか」
信長は喜色《きしよく》を浮かべて天守台を降り、途中の廊下までみずから家康《いえやす》を迎えに出た。
きわめて異例のことである。
家康は驚いて頭を下げた。
「三河《みかわ》殿、御無事であったか、何よりもめでたいことじゃ」
「上様こそ、よくぞ御無事で——」
家康は感動に声を詰まらせた。
今年の春、織田家の宿敵であった武田《たけだ》家が滅びた。
長年、武田家と対峙《たいじ》し、心の休まるときがなかった家康の労をねぎらうため、信長は家康を京・堺《さかい》見物に招待した。
これを受けて、少人数の供を連れてやってきた家康は、武田の一門で早くから信長に通じていた穴山梅雪《あなやまばいせつ》とともに、安土で丁重な饗応《きようおう》を受け、京を見物した後、堺に入っていた。
光秀がこの機に兵を挙げた背景には、信長ばかりでなく、家康までも討ち取ることができるとの思いがあったにちがいない。
そこで、信長は京を脱出すると同時に、すばやく堺の家康のもとにも使者を送ったのである。
家康は光秀の魔手《ましゆ》を逃れて、まんまとこの大坂まで逃げてきた。
「三河殿、疲れているところをすまぬが、軍議を開く。酒井《さかい》、本多《ほんだ》らを伴って出てはくれぬか」
「申すまでもないことでござる」
家康の供は少人数だが、つき従っている者たちはいずれも一騎当千の強者《つわもの》だった。
重臣酒井|忠次《ただつぐ》、「徳川に過ぎたるものが二つあり。唐《から》の頭《かしら》(輸入品の兜《かぶと》の飾り)と本多|平八《へいはち》」とまで言われた本多平八郎|忠勝《ただかつ》、剛勇無双の榊原康政《さかきばらやすまさ》などなど、それぞれ一千の兵を指揮することのできる将器でもある。
軍議には、信長以下、長男|信忠《のぶただ》、三男信孝、丹羽長秀、蜂屋頼隆《はちやよりたか》、池田恒興《いけだつねおき》、九鬼嘉隆に加えて、徳川家康、酒井忠次、本多忠勝ら徳川家の重臣も参加した。
この軍議で、微妙な立場の者が一人いた。
津田信澄《つだのぶずみ》である。
じつは津田と名乗っているが、この男の本姓は織田、かつて信長に反抗して殺された信長の弟|信行《のぶゆき》の遺子である。
幼い子にはなんの罪もないと、信澄は織田軍団への参加を許されていた。
本人も父のことを憚《はばか》って織田の姓は使わず、津田と名乗っている。
ただ、まずいことに信澄は光秀の娘を妻にめとっているのである。
信孝などは、この従兄《いとこ》に疑いの目を向けていた。光秀と示し合わせているのではないか、そう思っている。
「父上、この軍議、出てはならぬ者がいるように思いまする」
信長の言葉も待たずに、三男の信孝が言った。
名指しをしなくても、それがだれのことを指しているのか、一同にはわかっていた。
だが、信長はあえてたずねた。
「信孝、出てはならぬ者とは、だれのことか」
「知れたこと、この者にござります」
信孝は、満座の中で信澄を指さした。
「何を申される」
信澄は顔を真っ赤にして立ち上がった。
「待て、騒ぐでない」
信長は一喝した。そして、信澄が口をつぐんで、不服そうに座ったところを見計らって、
「信澄、いま信孝が申したこと、いかが思うか」
「濡《ぬ》れ衣《ぎぬ》でござる。拙者《せつしや》、このたびの舅《しゆうと》殿の謀反《むほん》など、まったくあずかり知らぬことでござる」
信澄は、憤然として叫んだ。
「しかと、左様か?」
信長は念を押した。
「神にかけて、お誓い申す」
信澄は、きっぱりと言った。
「ならば、よい」
信長はそれ以上は追及しようとはせず、全員に地図を示して、
「いま、我らのもとには二万五千の軍勢がおる。対する敵は一万三千、これに筒井、細川が加わったとして、おのおの三千、計六千、総計一万九千となる。これなら、ほぼ互角じゃ、——みなに聞きたいのは、光秀めとの決戦をいつ、どういう形で行うか、各地より人を呼び戻すか否か——」
「ただちに戦うべきでござる」
信澄と言い争って興奮がさめない信孝が、吠《ほ》えるように言った。
全員が信孝を注視した。
「裏切り者を征伐するのに、多くの軍勢はいりませぬ。また謀反の企みが失敗した以上、光秀に味方する者はおりませぬ。二万五千でじゅうぶん、助けはいらぬと存じます」
信長はうなずいて、一同を見渡して言った。
「ほかに意見はないか」
「おそれながら申し上げます」
池田恒興が意見を出した。
恒興の母は信長の乳母《うば》、つまり二人は乳兄弟《ちきようだい》にあたる。恒興はこの近くの伊丹《いたみ》の城を預けられている。
「申してみよ」
信長はうながした。
「若君の御意見、もっともではござるが、敵明智は無類の戦《いくさ》上手、ほぼ互角の人数で決戦を挑み、万一敗れるようなことにでもなれば、各地でいっせいに反織田の火の手が上がりましょう。ここは、毛利と対峙している羽柴殿の軍勢を呼び戻し、敵に倍する人数をそろえた上で、戦をすべきと存じます」
「なるほど、一理あるのう」
信長は結論を急ぎたかった。そこで、家康に意見を求めた。
「三河殿は、いかが思われる」
家康は一礼して、
「敵に倍する人数をそろえよ、との池田殿の御意見まことにもっともなれど、問題は時でござる。まもなく明智殿、いや明智|謀反《むほん》の知らせは各地に届きましょう。さすれば関東の滝川殿には北条《ほうじよう》が、西国《さいごく》の羽柴殿には毛利が、勢いを得て襲いかかるに相違ござらぬ。ここは、やや博奕《ばくち》ではござるが、これまで得たものを失わぬためには、ただちに明智討つべしと存ずる」
そう言って、家康はさらにつけ加えた。
「それにしても、我らは本国を遠く離れ、戻ることもかなわず、なんの御助勢もできぬことを恥じ入るばかりでござる」
「いや、三河殿、貴殿が悪いのではない、悪いのは光秀じゃ」
そう言って、信長は長男信忠を見た。
信忠は信長の後継者として、最近いちじるしい成長を遂げつつある。
信長も、あえて教育のために、信忠に最後に意見を求める。
「信忠、どうじゃ」
「徳川殿の御意見しかるべき、と存じます」
信忠は、ただちに答えた。信長は満足そうにうなずいて、
「余《よ》も、そう思う。では、全軍ただちに出陣の用意をいたせ、出陣は今夜半、明日早朝には山崎に至る、左様心得よ」
と、命令を下した。
諸将は、あわただしく立ち去った。出陣の支度を整えるためである。
「三河殿、しばらく待たれよ。九鬼、そのほうも残れ」
「はっ、かしこまりました」
水軍の大将九鬼嘉隆が、家康一行とともに残った。
「三河殿、一刻も早く帰国なさりたいであろうな」
信長は言った。
「はっ、左様でござるが——」
家康は首をひねった。
本拠地三河および遠江《とおとうみ》に戻るには、どうしても京の近くを通らねばならない。
しかし、その付近は明智の勢力下にある。こんな少人数で行けば、みすみす餌食《えじき》になるばかりだ。
かといって、強行突破も難しい。
「この九鬼に船で送らせよう」
「船で?」
家康は意外な顔をした。船とは思いもつかないことであった。
もともとは家康は山育ちで、海のことに疎《うと》いのである。
信長は地図を指さして、
「堺より紀伊《きい》を回って、伊勢から三河に出ればよい。このあたりは、我が水軍が支配しておる。なんの心配もいらぬ。どうじゃ、嘉隆、この行程なら二日もあれば着くであろう」
「おおせのごとく、外海にさえ出てしまえば、潮の流れに乗りますゆえ、もう少し早く着けるかもしれませぬ」
「そういうことじゃ、三河殿、いかがかな」
「はあ」
家康は浮かない顔をした。
正直言うと、船が怖い。
船という得体の知れないものに対し、未知の恐怖感があるのである。
それは山国育ちの酒井や本多ら重臣も同じだった。
ただし、「怖い」などということは口が裂けても言わない。武士の沽券《こけん》にかかわるからだ。
「御厚志かたじけなく存じます」
家康は、そう言わざるを得なかった。
「国に戻られてからのことだが、ただちに軍勢を率いて、近江《おうみ》まで来てはくれぬか」
「近江まで?」
「左様、おそらく、そのころには、余《よ》と光秀の勝負はついている。戦いに敗れた光秀は、たぶん近江|坂本《さかもと》をめざすであろう」
信長は、まるで勝利が確定しているかのような口ぶりで、
「そこを、貴殿の手勢《てぜい》で待ち伏せてもらいたいのじゃ」
「なるほど、明智に坂本城に入られては、ちと面倒になりますのう」
「そのとおりじゃ。そこで一つ、念を入れて頼みたいことがある」
「なんでござろう」
「光秀めじゃが、できれば生け捕りにしてもらいたい」
「生け捕り?」
家康は驚いた。
光秀は反逆者であり、裏切り者である。ならば、そんな面倒なことはしなくても、ただちに討ってしまえばいいではないか。
生け捕りにするなど、手間がたいへんである。
光秀は戦《いくさ》に敗れれば、当然自害しようとするだろう。また自害するならば、黙ってさせてやるのが、武士の情けというものである。
「光秀めを、ぜひ引っ捕らえたいのじゃ」
信長は、きらりと目を光らせた。
家康は何か深い考えがあるのを察した。そうであるなら、逆らうことはない。
「かしこまりました。でき得るかぎりは」
家康は、そう言った。
確実に請け負うことのできる性質のものではない。
「頼んだぞ、三河殿」
信長は念を押した。
家康一行は嘉隆に伴われて出発した。
信長は、今度は蘭丸を呼んだ。
「お蘭、祐筆を呼べ。いや城内の女子も含め、字を書ける者はことごとく集めよ。紙、筆、硯《すずり》も用意いたせ」
「上様、何をなさるので」
蘭丸は目を丸くした。
「光秀めを滅ぼす、もっとも効き目のある弾を作るのよ」
そう言って信長は悪童のような笑いを浮かべた。