一夜明けて、六月三日午前、明智光秀《あけちみつひで》軍は勝龍寺《しようりゆうじ》城に入っていた。
ただ、夜間の行軍だったため、ふたたび逃亡者が相次ぎ、城に入ったときは総勢一万一千になっていた。
またも、戦わずして一千人の兵を失ったのである。
これが、領地を持たない傭兵《ようへい》の弱さであった。
たとえば北条《ほうじよう》軍や毛利《もうり》軍では、こういうことはない。
そこでは、兵士は徴兵された百姓たちである。
国元に田畑があり、妻子がいる。
だから、領主に人質を取られているようなもので、よほどのことがないかぎり、逃亡したり反抗したりすることはない。
しかし、信長《のぶなが》軍団の兵の大半は、金で雇われた傭兵である。
傭兵制だと、一年じゅう戦えるという利点はある。
それは専門兵の集団であり、北条家などと違って、農作業のことを考える必要はないからだ。
しかし、だからこそ弱い面もある。
形勢が不利になると逃亡者が続出する、ということだ。
それでも、信長が大将として君臨しているときは、そういうことはない。
織田《おだ》信長は、圧倒的なカリスマを持っており、部下はその下で必死に働く。
しかし、いまの大将は光秀である。
光秀には、そういうカリスマはない。
もし、光秀が信長を殺すことに成功していたならば、光秀はそのカリスマを受け継ぐことができたかもしれないが、それには失敗した。
一刻も早く信長を殺さないかぎり、光秀に明日はない。
「信長が来ました」
報告があった。
織田軍は、摂津茨木《せつついばらき》の中川清秀《なかがわきよひで》、高槻《たかつき》の高山右近《たかやまうこん》らの軍勢三千を加えて、二万八千に膨《ふく》れ上がっている。
その軍勢は西国《さいごく》街道を北上し、木津川《きづがわ》の西岸、大きく天王山《てんのうざん》がせり出して道が細くなっている山崎《やまざき》の手前で行軍を停止した。
一方、光秀は、織田軍の北二里にある勝龍寺城に籠《こも》ったまま動かなかった。
人数は減りつづけている。
しかし、光秀があえて踏みとどまったのは、信長の出方を探るためであった。
山崎は峡《かい》といってもいい、京《きよう》へ入る狭い入り口である。
光秀の籠る勝龍寺城から見ると、信長軍は、その狭い入り口の向こう側にいることになる。
光秀にとっては、有利な態勢であった。
光秀軍のほうが、数は少ない。
だから、狭い入り口のところで敵を待ち伏せて、少しずつ入ってくる敵をやっつける、いわば各個撃破の戦法をとればいいのだ。
一方、信長のほうは、全軍を一気に突入させることができない。
山崎を通過するには、大軍を細い縦列にして進行しなければならないのである。
信長は、そのために動かなかった。
一方、光秀も動けない。
なんといっても、光秀軍は数が少ない。
敵の攻めてくるのを、この有利な地形を活《い》かして待ち受けるしかない。
信長軍が三万近くに膨れ上がっていることは、光秀の計算外のことだった。
もし、本能寺《ほんのうじ》で信長を討つことに成功していたら、いまこの時点で三万もの軍勢に攻められることはなかっただろう。
信長は決戦を焦らず、持久戦に出た。
光秀は、たしかに有利な位置にいる。
しかし、時が経てば経つほど逃亡兵が相次ぎ、布陣の有利さよりも、兵を失うことの不利がこたえるようになる。
(信長め)
光秀は歯ぎしりした。
このまま日を送れば、ほんとうのじり貧になる。
本能寺の変報が各地に届けば、柴田勝家《しばたかついえ》や滝川一益《たきがわかずます》が、戻ってくるかもしれないのである。
毛利の大軍と対峙《たいじ》している羽柴秀吉《はしばひでよし》は無理にしても、これらの軍団が引き返してきて、信長と合流したら、光秀にはもう勝ち目はない。
六月五日早朝、光秀は業《ごう》を煮やして城を出た。
勝龍寺城の南側にある御坊塚《ごぼうづか》という古墳に本陣を置き、斎藤《さいとう》内蔵助《くらのすけ》隊、溝尾庄兵衛《みぞおしようべえ》隊らを前面に配置した。
これに対して、信長は、池田恒興《いけだつねおき》隊、高山右近隊、中川清秀隊の計五千を前面左方の天王山に登らせ、天王山を占拠していた明智軍の並川《なみかわ》掃部《かもん》らを蹴散《けち》らした。
これで、信長側は山崎だけでなく、天王山山上からも明智軍を攻撃する態勢がととのった。
この天王山争奪戦の勝利は、直接の打撃以上に、明智軍に心理的打撃を与えた。
また、脱走兵が相次いだのである。
そこへ、信長は天王山に新たな軍勢を派遣し、眼下の円明寺《えんみようじ》川沿いに布陣している明智軍に、大坂《おおさか》で用意した文を矢に結び、片《かた》っ端《ぱし》から射ち込ませた。
矢文《やぶみ》には、こうある。
兵に告ぐ。そのほうらは織田家の兵である。主を間違えるな。いまからでも遅くはない。戻ってくればいっさいを不問に付《ふ》す。
そして、すべての文に信長の公印が押されてあった。
このため、明智軍に深刻な動揺が起こった。
信長は、高柳左近《たかやなぎさこん》を呼んだ。
この男は、光秀の謀反《むほん》を察知して、いち早く本能寺の信長に注進《ちゆうしん》した、もとは明智家の家臣である。
「そのほう、光秀に従っている侍どもに、明智を見限るよう呼びかけてくれぬか」
左近は一礼して、
「敵陣中には、我が朋輩《ほうばい》も多数おりますが、上様に対しての謀反の罪、お許しくださるのでしょうか?」
信長はうなずいて、
「謀反ではあるまい。それと知らず、光秀の下知《げち》を我が下知と思い、従ったまでのことであろう。許す」
「ありがたき御言葉」
左近は、ただちに馬で円明寺に行き、対岸に布陣している明智軍に呼びかけた。
「対岸の衆にもの申す。拙者《せつしや》、もと明智家|母衣衆《ほろしゆう》高柳左近でござる。上様は、ただちに陣を抜け恭順《きようじゆん》の意を表す者には、謀反の罪はいっさい問わぬ、と仰《おお》せられておる。これが最後の機会ぞ。織田家の武士ならば、謀反人に加担するのはやめよ」
斎藤内蔵助は、左近を見て怒った。
「おのれ左近め。ただちに、鉄砲で狙《ねら》い撃ちにせい」
鉄砲|組頭《くみがしら》は、その内蔵助の下知に首を振った。
「お断り申す」
内蔵助は目を剥《む》いて、
「下知に逆らうのは反逆であるぞ」
「何が反逆——」
組頭はせせら笑った。
「謀反人は明智の殿じゃ。我らは、もう御免こうむる」
「おのれ」
内蔵助は刀の柄《つか》に手をかけた。
組頭が慌《あわ》てて後ろへ下がる。
それと同時に、鉄砲組がその銃口《じゆうこう》を内蔵助に向けた。
「せめてもの情けじゃ。撃ちはせぬ。だが、我等はこれにて失礼いたす」
組頭は油断なく、じりじりと後ろに下がった。
全軍に示しをつけるためには、どうしてもこの男を斬《き》らねばならない。
しかし、これだけの銃口に狙われていては、内蔵助にもどうしようもなかった。
斎藤隊の鉄砲組が、つい先刻までの「味方」に銃口を向けて堂々と退去し、織田軍に復帰した。
それを見て、あちこちでこれに追随する動きが起こった。
(いかん。このままでは、味方は一気に崩れる)
本陣から状況を見ていた光秀は、逃亡者は有無を言わさず斬るように命じた。
だが、もう遅かった。
逃亡者を斬ろうとした目付《めつけ》たちも、あまりの多さに斬りきれず、逆に取り巻かれて斬殺《ざんさつ》されるありさまだった。
「殿。東の|洞ヶ峠《ほらがとうげ》の方向より、およそ三千の軍勢が見えまする」
新たな報告があった。
「何者だ? もしや——」
光秀の表情が、ぱっと明るくなった。
やはり、それは朋友《ほうゆう》、筒井順慶《つついじゆんけい》の軍勢であった。
(順慶が来てくれたか)
光秀は、地獄に仏と思った。
だが、その順慶は、すでに使者を信長のもとに走らせていた。
使者は、山崎の本陣に駆け込むと、
「この順慶に、なにとぞ明智攻めの先陣を賜《たまわ》りたく、伏して上様に願い奉《たてまつ》る」
という口上を述べた。
先陣はすでに、天王山側からは高山右近、山崎側からは丹羽長秀《にわながひで》と決まっていたが、信長はその願いを許した。
「よかろう。ただし、光秀の首は取らずに生け捕りにせよ、と順慶に伝えよ」
「ありがたき幸せ」
使者は喜んで戻った。
このとき、相変わらず信長の近くに控えていた森蘭丸《もりらんまる》が、ちらりと信長の顔を見た。
「いいのだ、お蘭」
信長は言った。
「筒井順慶は、光秀とは昵懇《じつこん》の仲。その順慶までもが光秀を裏切ったとあれば、もはや、光秀に味方する者はだれもおらぬ」
それに、順慶に先陣をさせるほうが、予備軍として置いておくよりもいい。
なぜなら、光秀と縁の深い順慶だけに、近くに置いておくのは、味方にとってあまり気持ちのいいものではないからだ。
それよりも、最初に攻めかからせたほうが、味方も安心だし、順慶自身も疑いを晴らそうと必死になって働く。
その効果も、信長は考えていた。
このとき、津田信澄《つだのぶずみ》が前に出た。
信澄も、順慶と同じ立場にあるといっていい。
「上様、筒井殿に先陣を賜るなら、ぜひ拙者にもお命じください」
「よいのか?」
信長は念を押した。
信澄の妻は、光秀の娘である。
「妻には、すでに離縁状を渡しておりまするゆえ」
信澄は、きっぱりと言った。
「では、順慶とともに攻めよ。すぐに行け」
「ははっ」
信澄は手勢一千を率いて、東から来た筒井軍と合流した。
この動きによって、明智軍には、順慶がどちらに味方するつもりかわかった。
「おのれ、順慶め。恩を忘れおって」
光秀は怒った。
この順慶の態度を見て、さらに脱走者が相次いだ。
いまや明智軍は、九千近くまでその数を減らしていた。
「殿、もはや攻めかかるしかありませぬ。御決断を」
斎藤内蔵助が伝令を本陣に派遣し、進言してきた。
これを容《い》れて、光秀はついに全軍に突撃を命じた。
対する信長も、これに応じた。
まず、東側の男山|八幡宮《はちまんぐう》の方面から、筒井順慶率いる三千が、明智軍の右翼に襲いかかった。
そして、山崎口からは、津田信澄隊一千、蜂屋頼隆《はちやよりたか》隊一千が、先を争うようにして中央突破をめざし、中川清秀、堀秀政《ほりひでまさ》の両隊が続いた。
さらに、天王山山上からは、高山右近隊が逆落《さかお》としに明智軍左翼を攻撃した。
最初の一撃で、明智軍は崩れる一歩手前までいった。
光秀本隊が戦場に入り、斎藤内蔵助隊も奮戦したため、一度は持ち直したが、信長はその機を狙って、信孝隊四千、丹羽長秀隊四千を山崎口から突入させた。
これで勝負は決した。
光秀軍は完全に崩壊した。
光秀自身は、斎藤内蔵助に守られながら、勝龍寺城まで退却した。
この間、また逃亡者が相次いだ。
光秀本隊と斎藤隊あわせて七千いたはずなのに、城に入った者は一割の七百にすぎなかった。
城を守っていた者を含めても、一千に満たない。
(こんなことがあっていいのか)
光秀は、勝龍寺城内で呆然《ぼうぜん》としていた。
信長軍は圧倒的な兵力で、その勝龍寺城をひしと取り囲んだ。