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日本史の叛逆者10

时间: 2019-05-24    进入日语论坛
核心提示:     10 織田信長《おだのぶなが》は、いったん安土《あづち》城に戻り、今後の体制を固めることに腐心した。 四国の長宗
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 織田信長《おだのぶなが》は、いったん安土《あづち》城に戻り、今後の体制を固めることに腐心した。
 四国の長宗我部《ちようそかべ》征伐は、延期せざるを得なかった。この機に乗じて、信長に反乱、反旗を翻《ひるがえ》すような者がいては危険だからだ。
 結局、大坂《おおさか》城には五千の留守居《るすい》の兵を残し、残りの軍勢はすべて安土城に集結させた。安土城に対する反乱を防ぐためである。
 今後の体制をどのように立て直すか、信長にとっての急務はそれであった。
 本能寺《ほんのうじ》の変が起こった時点で、信長の勢力圏は、東は上野《こうずけ》の一部、信濃《しなの》、甲斐《かい》、飛《ひ》、美濃《みの》であり、これに北陸の能登《のと》、越中《えつちゆう》、加賀《かが》、越前《えちぜん》が加わる。
 さらに、その領国の中枢《ちゆうすう》をなすものとして、尾張《おわり》、伊勢《いせ》、近江《おうみ》の三国があり、その三国に徳川《とくがわ》氏の勢力圏である三河《みかわ》、遠江《とおとうみ》、駿河《するが》の三国がつながっている。
 さらに西へ行けば、若狭《わかさ》、丹後《たんご》、丹波《たんば》、大和《やまと》、紀伊《きい》、そして京を擁《よう》する山城《やましろ》、そして大坂城のある摂津《せつつ》が勢力圏内である。
 さらに西へ行けば、但馬《たじま》、因幡《いなば》、播磨《はりま》、美作《みまさか》、備前《びぜん》がすべて織田の勢力範囲にある。
 このうち、もっとも東の最前線に位置しているのは、上州厩橋《じようしゆううまやばし》城の滝川一益《たきがわかずます》である。滝川一益は、織田家のもっとも東の部分を担当する東部方面軍の師団長といったところである。そして、主要な敵は武蔵《むさし》、相模《さがみ》、そして上野《こうずけ》を支配する北条《ほうじよう》氏である。
 これに対して、さらにその北、北陸方面軍の師団長にあたるのが、越前|北ノ庄《きたのしよう》城にある柴田勝家《しばたかついえ》である。この柴田の主要敵は、越後《えちご》の上杉景勝《うえすぎかげかつ》である。
 甲斐には新総督として、これは方面軍よりはやや小さな規模ながら、河尻秀隆《かわじりひでたか》が封《ほう》ぜられ、河尻は滝川一益とともに相模の北条氏と対峙《たいじ》している。
 一方、ここで目を西に転ずると、この本能寺の変がなければ、信長は三男|信孝《のぶたか》を総大将とし、丹羽長秀《にわながひで》を副将とした四国遠征軍が、長宗我部征伐に大坂から出帆する予定であった。これを仮に四国方面軍と名づけよう。
 そして、もう一つ中国方面軍として、備中国高松《びつちゆうのくにたかまつ》城で毛利《もうり》の大軍と対峙している羽柴秀吉《はしばひでよし》の軍団がある。
 つまり、東から言えば、滝川一益の東部方面軍、柴田勝家の北陸方面軍、織田信孝の四国方面軍、羽柴秀吉の中国方面軍の四大軍団があり、これにさらに明智光秀《あけちみつひで》を将とする一種の遊軍的存在である明智軍団が加わって、五大軍団となる。
 信長の基本的戦略は、すべてこの五大軍団から成立していた。
 四大軍団をそれぞれ北条、上杉、長宗我部、毛利といった大敵に対して当たらせておいて、さらにその弱いところを補う意味として、光秀の軍団を遊軍化し、あらゆる方面に当たれるようにしておく。
 とりあえず、毛利との一大決戦のために、信長は明智軍団を手薄《てうす》な中国方面軍の羽柴秀吉と合流させようとした。
 ところが、それが本能寺の変を招いたのである。
 信長は、いまはその点を反省していた。
 反乱が起こったのは、光秀の心の問題に第一の原因があるが、反乱を起こしやすいような構造的欠陥が、織田家の軍制にあったのも事実である。
 というのは、信長は部下を信頼するあまりに、大軍をすべて部下の指揮下に置き、自分の直属下にはまったく置いていなかったのである。それがゆえに、本能寺で奇襲され、あわや命を落とすというところまでいきかけたのである。
 どんなに効率的であろうとも、五大軍団制には、自分の足元が手薄になるという欠点がある。いわば近衛《このえ》軍団のようなものを、かならず配置しておかなければならないのに、それを怠ったところを光秀に突かれたのである。
 信長が早急に体制固めをしておかなければいけないのは、この点であった。
 まず、主《あるじ》を失った明智軍団をだれに任せるか、という問題がある。
 明智軍団は事実上、自滅した。したがって、軍団自体はそれほど傷ついていない。謀反の罪を許すと言ったことにより、明智軍団の六割以上は、無傷で信長のもとに戻ってきていた。
 明智光秀の死によって、今後の明智軍団の指揮と、主を失った近江《おうみ》、丹波《たんば》の両国をだれに任せるか、という問題が残った。
 織田信長は、その人事について熟慮《じゆくりよ》したあげく、一つの決断を下した。
 信長の末娘|冬姫《ふゆひめ》の婿《むこ》であり、近江|日野《ひの》城主|蒲生賢秀《がもうかたひで》の長男である蒲生|氏郷《うじさと》を、新しい近衛《このえ》軍団の長に抜擢《ばつてき》したのである。
 これは、織田家中の大半を驚かす人事であった。もっとも、氏郷の非凡さはだれもが認めていた。
 蒲生氏郷は幼名|鶴千代《つるちよ》といい、そもそも最初は信長に反抗した六角《ろつかく》氏の家臣の一族であったが、氏郷の父蒲生賢秀は時代の趨勢《すうせい》を見極め、信長に降参した際、当時十三歳の鶴千代を人質として岐阜《ぎふ》城に差し出したのである。
 この鶴千代は、ここで信長の小姓《こしよう》となり、人物の才能を見抜くことにかけては天才的な眼力のある信長に、その優秀さを認められ、忠三郎《ちゆうざぶろう》の名を与えられた。「忠」の一字は、信長の官名|弾正忠《だんじようちゆう》の「忠」の一字をとったものである。
 さらに、その忠三郎は初陣《ういじん》において奮戦し、敵の大将首をあげてきた。信長はそれを激賞し、自分の娘を与え娘婿《むすめむこ》とした上で、人質の身分を解いて日野城に帰らせたのである。
 以後、名を氏郷と改めた忠三郎は、たびたびの合戦にめざましい手柄を立て、若年《じやくねん》ながら将来の大器として、すべての人々に認められる存在であった。
 その氏郷を信長は抜擢したのである。
「この上なき名誉にござりまする」
 安土《あづち》城に呼び出された氏郷は、感激のあまり、頬《ほお》を紅潮させて礼を述べた。
「余も、今度のことでは懲《こ》りた」
 と、信長は言った。
「やはり、身近に信頼できる者の軍を寄せておかなければ、天下人《てんかびと》というものはいかぬものらしいわ」
 はははっと信長は笑い、手ずから黄金十枚を引き出物として与えた。
「ほかにも太刀《たち》と馬をとらそう。よいか、これからは余の手足となって務めてくれい」
「かしこまってござる」
 氏郷は、ふたたび平伏した。
 信長にとっての急務は、ほかにもあった。
 本能寺《ほんのうじ》の変によって、地方各方面軍の前線が動揺し、それを敵につけ込まれることを恐れたのである。
 関東の滝川一益《たきがわかずます》には、固く守って動かぬように命じ、甲斐《かい》の河尻秀隆《かわじりひでたか》には、滅んだ武田《たけだ》家の遺臣が反乱を起こすという噂《うわさ》があったので、駿府《すんぷ》から徳川《とくがわ》軍を派遣させ、領内の治安を維持することに努めた。上杉景勝《うえすぎかげかつ》と対峙《たいじ》している柴田勝家《しばたかついえ》にも、戦線をむやみに拡大せぬよう命じた。
 問題は、四国の長宗我部《ちようそかべ》をいかにして討つか、ということであり、もう一つの大きな問題は、毛利《もうり》との決戦であった。
 信長はまず、毛利との決戦を先にすることに決めた。
 四国の長宗我部は、いつでも討てる。しかも、長宗我部は有力な水軍を持っていないので、向こうから攻め寄せてくる心配はない。
 しかし、毛利のほうはいつでもこちらに攻めてくる力を持っているし、毛利水軍も信長が造った鉄甲船《てつこうせん》によって完膚《かんぷ》なきまでの敗北を喫《きつ》したとはいえ、残党はまだまだ侮《あなど》りがたい力を持っている。
 まず、こちらのほうを叩《たた》いておくことが急務であると、信長は考えたのである。
 光秀による本能寺の変が失敗に終わってから一月《ひとつき》後、信長は新たに編成した二万の軍勢を率いて、近江安土城を出発した。
 安土城には、三千の留守居の兵を残した。留守居役は氏郷の父、蒲生賢秀である。
 信長は、これからはつねに大軍と行動をともにしようと決めた。自らが少ない兵力で畿内《きない》にとどまっていては、また光秀のようなことを考える人間が出てこないともかぎらない。そういう機会を作らぬことも大切だということに気がついたのである。
 軍勢二万は、信長を大将、そして蒲生氏郷を副将として西に向かったが、同じころ、伊勢大湊《いせおおみなと》を出発した九鬼嘉隆《くきよしたか》率いる九鬼水軍の鉄甲船九隻が、瀬戸内《せとうち》を備中《びつちゆう》に向かった。
 これは、海陸両方から毛利を圧倒するためであり、九鬼水軍にとって宿敵|村上《むらかみ》水軍を掃討《そうとう》する作戦行動でもあった。
 中国方面軍の総大将|羽柴秀吉《はしばひでよし》は、三万の大軍とともに毛利軍と向かい合っていた。
 最前線にある備中|高松《たかまつ》城は、いま水の中にある。秀吉が周りに堤防を築き、川の流れを変えることにより、高松城を水没させたのである。世に名高い高松城水攻めの計略であった。
 信長軍が到着すると、織田家の総勢は五万となった。
 信長は、ただちに秀吉を呼び出した。
「水攻めとは、考えたものだのう」
 信長は、まず秀吉を誉《ほ》めた。羽柴秀吉は、信長にとってもっともお気に入りの大将である。
 信長は、水の上に浮かぶ高松城を見て、
「これから、どうするつもりじゃ」
 と、たずねた。
「はっ」
 秀吉は、かしこまって答えた。
「これから先は、上様の御下知《ごげち》を仰《あお》いで事を決めようと思っておりました」
 秀吉は、如才《じよさい》なく答えた。
 秀吉が生き残ってきたのは、この織田政権で第一筆頭大将の地位を獲得したのは、この如才なさも大きな理由である。
 もちろん秀吉は、その能力、軍人としての能力も買われている。とくに秀吉がこの才能を発揮するのは、このような攻城戦においてである。
 織田家の大将は、野戦に強い柴田勝家をはじめとして勇猛な将は何人もいるが、こと城攻めということに関していえば、この秀吉が筆頭であった。
 秀吉の城攻めは、あらゆる戦法を駆使し、それ以外にも従来の戦法に加えて、たとえば兵糧《ひようろう》に使う米をあたりで買い占めてしまうというような、生まれつきの武士には思いもつかない奇想天外《きそうてんがい》な方法での戦法もあった。
 もちろん、信長はそういう秀吉の能力をいちばん高く買っていたのである。
「こいつめ」
 信長は笑った。
「相変わらずじゃの」
 信長は山の上に立って、山の上から水没した高松城を見下ろしていた。
 本来、ここは平野に突き出した山だったのだが、いまは下が広い範囲で水に覆われてしまったため、まるで岬《みさき》のような格好になっている。
 その岬の突端に、信長は秀吉そのほか多くの家臣を従えて立っていた。
 対岸には、毛利の軍勢が対陣している。
 軍勢は、当主毛利|輝元《てるもと》の叔父《おじ》にあたる吉川元春《きつかわもとはる》と、小早川隆景《こばやかわたかかげ》が総大将となって布陣していた。軍勢およそ三万。
 これに対し信長軍は、秀吉の三万五千に、新たに信長が引き連れてきた二万を加え、五万五千である。数においても有利であり、また、鉄砲などによる近代的武装の面においても、信長の軍隊のほうが勝《まさ》っていた。
 毛利は、広島のある安芸国《あきのくに》を中心とし、周防《すおう》、長門《ながと》、石見《いわみ》、出雲《いずも》、備後《びんご》、伯耆《ほうき》、備中、美作《みまさか》の九カ国を治める大大名である。
 実は、これに因幡《いなば》、備前《びぜん》あたりも毛利氏の勢力範囲であったのだが、信長は備前の大名|宇喜多直家《うきたなおいえ》を秀吉の調略《ちようりやく》によって味方に引き入れることに成功していた。
 宇喜多氏は、それまで毛利氏に従っていたが、信長の勢力拡張を見て、毛利から織田へ乗り換えたのである。
 そして、いまや毛利の勢力範囲は、中国十一カ国から備前と美作を抜いた九カ国に転落していた。
 もっとも、美作はすべて取ったわけではない。美作には宇喜多、そして備中には秀吉の軍が張り出して、毛利の領土の蚕食《さんしよく》を試みていたのである。
 毛利も、このままずるずると後退するわけにはいかない。よって、最前線である備中高松に大軍を派遣してきたのである。
 毛利家の当主輝元は、偉大な祖父である毛利家中興の祖|元就《もとなり》の子、隆元《たかもと》の子として生まれたが、早くに父を亡くし、若年のうちに毛利家の家督を継がなければならなかった。
 しかし、幸いにも父隆元の弟である元春と隆景がそれぞれ吉川家、小早川家の養子に入り、その家を乗っ取った形になっていたので、この二人の叔父が輝元を補佐する形で、毛利家はなんとか体裁を保っていたのである。
 元春は、織田家にたとえれば柴田勝家並みの猛将であり、これに対して隆景は、個人的武勇よりもむしろ兵略に長《た》けた武士として定評があった。いわば、織田政権における羽柴秀吉である。
 当の秀吉は毛利攻略を命ぜられ、いずれ、この吉川、小早川の連合軍と戦わねばならぬと思ってきた。その機会は、高松城を攻めたときにやってきた。
 攻めがたい高松城を陥《お》とすために、秀吉は周りの川をせき止めて、盆地の中心にある城を水没させるという手をとった。こうして城を孤立させ、兵糧、援軍の補給を断ち、自落《じらく》するのを待とうというのである。
 しかし、毛利側も高松城をむざむざと取られては一大事であるから、吉川元春、小早川隆景が大軍を率いて、高松城の後詰《ごづ》めに入ったのである。
 ここにおいて、織田家の最大の方面軍である秀吉軍と、毛利家の最大の軍団である吉川、小早川軍団との対決が起こった。
 これは事実上、毛利が勝つか、織田が勝つか、その帰趨《きすう》を決める戦いといっていい。
 その戦いに際して、現地司令官の秀吉は、あえて信長の出馬を求めた。
 秀吉軍だけで、つまり三万五千の軍勢だけで、毛利の三万を相手にするのは危険である、という考え方もあった。
 しかし、実は秀吉には自信があった。同数とはいえ、秀吉軍は百戦錬磨《ひやくせんれんま》の勇将猛卒を備えた上に、鉄砲も多く所持している。単独でも勝つ自信があった。
 しかし、もし負けたら重大な責任問題になるし、勝ったところで、あまりに織田軍団の中での地位が高くなりすぎるという危険があった。
 秀吉は、そういう点には実に用心深いのである。卑賤《ひせん》の身から出世しただけに、あまりの異数《いすう》の出世は同僚の反感を買う上に、主人にも睨《にら》まれる可能性があるということを熟知していた。
 そのために秀吉は、最後の仕上げを信長にと望んだのである。
 実は、これが本能寺の変の原因にもなった。
 信長は秀吉を応援するために、まず明智軍団を派遣し、なおかつそのあと少人数で京都《きようと》に入った。京に入ったがゆえに、それが光秀にとって千載一遇《せんざいいちぐう》の好機と、反乱を起こさせるきっかけとなってしまったのである。
 そういう意味でいえば、本能寺の変の引き金は秀吉が引いた、ともいえた。
 秀吉は、当然そのことを信長に謝罪しなければならなかった。もちろん、それは秀吉の責任というわけではなかったが、そのきっかけとなったことはまぎれもない事実である。
「上様」
 と、秀吉は地面に頭を擦《す》りつけて、
「申し訳もござりませぬ。このたびのことは、拙者《せつしや》めの落ち度でござりました」
 信長は、けげんな顔をした。
「上様の御出馬《ごしゆつば》を仰ぎ、そのことで明智めの反乱を招いたことでござります」
「そのことか。いや」
 信長は笑って、
「いや、余も油断であった。まさか日向《ひゆうが》が反旗を翻《ひるがえ》すとは夢にも思わなんだため、わざわざ京の都に少人数で行くという、いま考えてみれば虎《とら》の尾を踏むような真似《まね》をしてしまった。まったく、油断も隙《すき》もない世の中じゃの」
 信長は、そう言って笑った。
 秀吉はほっとしたが、この際ひとつ疑問が湧《わ》いてきた。
 信長は、なぜあのとき京都にいたのだろう。
 信長は、たしかに最初は、尾張《おわり》の小大名であったころは、京都に入ることを念願とし、流浪《るろう》の足利義昭《あしかがよしあき》を室町《むろまち》幕府第十五代将軍に押し上げてからは、京都に滞在していたことは何度もあった。
 しかし、時の帝《みかど》、正親町《おおぎまち》天皇と対立してからは、最近二年間はまったく京に足を踏み入れていないはずなのである。
 それなのに、どうしてわざわざ少人数で京都へ行ったのか。
「そこよ、猿《さる》。いや、秀吉」
 信長は、問われてにやりと笑った。
「まあ、ついて参れ」
 信長はひとり、家来たちを遠ざけて陣幕の奥に立った。秀吉はそのあとをついていき、信長の背後にひざまずいた。
「だれもおらぬか」
 信長は、あたりをうかがって言った。
「はい。人払いいたしました」
 秀吉はわかっていた。あうんの呼吸である。こういうとき、信長は何か秘密の話をしたいのだ。
「筑前《ちくぜん》。余はあのとき、畏《かしこ》きあたりよりの御内意《ごないい》として、いまの帝が退位され誠仁《さねひと》親王に位をお譲りになり、そして、余はその新しき帝より関白《かんぱく》に任ぜられるとの知らせがもたらされたのだ。そこで、余は京へ行った」
「では」
 秀吉は、事態を知って青ざめた。
「それはもしかすると——」
「そのとおりだ」
 信長が言った。
「これは罠《わな》よ。余をおびき出して、明智に討たせるという算段であろう」
「明智殿。いや日向は、そのことを白状いたしましたので?」
「いや、何も言わぬ」
 信長は首を振って、
「あの男め、あやつも男らしくすべてを一人で背負って、地獄へ行きおったわ」
 秀吉は、信長を見上げていた。
 信長は、一人で深くうなずいて、
「だが、余にはわかっておる。光秀があのような大それたことを決意したのは、おそらく京の公家《くげ》どもが煽動《せんどう》したのであろう。そして、その背後には、あの御方《おかた》がおられるにちがいない」
「あの御方とは?」
 秀吉は、ごくりと唾《つば》を飲み込んだ。
 もちろん、それはだれのことであるかわかっていた。時の帝、正親町天皇である。
 信長も、その名はあえて口に出さずに、
「まあ、見ておれ。この毛利攻めが終わったら、余はふたたび京に戻る。二万の軍勢を率いてな。そしてそのとき、この国は大きく変わることになるだろう」
 秀吉は、顔色を変えて膝《ひざ》を乗り出した。
「上様、まさか」
 秀吉は、一つの危険な事態を想定していた。
 それは、信長が御所《ごしよ》に焼き討ちをかけ、正親町天皇以下、公家たちを殺戮《さつりく》することである。
 なにしろ、一千年間だれも手をつけなかった聖域、比叡山《ひえいざん》を焼いてしまったほどの信長である。そういうことをやりかねない、と秀吉は思ったのである。
「いや、そこまではせぬから安心せよ」
 信長は、秀吉の心中の杞憂《きゆう》を察して言った。
「余も、このたびの反乱において悟るところがあった。これからは、むやみやたらに手荒《てあら》なことはせぬ」
 信長は、はっきり言った。
「左様《さよう》でござりましたか」
 秀吉は、ほっとして言った。
 実のところ、信長ほど仕えるのに難しい大将はいないのである。一度その激怒を招くと、周囲の人間ははらはらしながらも、怒りがおさまるのを待つしかない。
 その激怒は、これまでにもしばしば無理無体《むりむたい》な、あるいは無惨《むざん》なことを繰り返してきた。たとえば、比叡山の焼き討ちもそれであるし、老臣|佐久間信盛《さくまのぶもり》の追放、荒木村重《あらきむらしげ》の一族皆殺しなど、みなそれである。
(上様も、やはり光秀めの反乱は相当にこたえたとみえる)
 秀吉は、そう思った。
 なにしろ危うく股肱《ここう》の臣に寝首を掻《か》かれるところだったのである。それが信長の人生観に対して甚大な影響を与えないはずがない。
 しかし、秀吉がいちばん恐れていた事態にはなりそうもなかった。
 秀吉がもっとも恐れていた事態とは、信長が猜疑心《さいぎしん》の塊《かたまり》となり、これまで以上に部下に対して疑いの目で見ることである。それは幸いにもなくなった。
 大局的見地から見れば光秀の反乱は、信長にこれまでの強硬路線への反省をうながし、なおかつ織田軍団の結束を固めるという、文字どおり「雨|降《ふ》って地|固《かた》まる」の効果があったといえるものなのかもしれない。
「ところで、目下《もつか》の毛利攻めだが」
 と、信長は毛利攻めに話を戻した。
「左様、いかがなされます」
 秀吉は問うた。信長は、
「まず吉川《きつかわ》、小早川の両川《りようせん》に、我らの武威を思い知らせてやろう。すべての話はそれからだ。もっとも、いまのうちに降伏するならばそれもよい」
「降伏とは、あの条件でござりますか」
 秀吉は言った。
 条件とは先に信長が命じたもので、すでに安国寺恵瓊《あんこくじえけい》を通じて毛利方には通告してある。
 それは、毛利家がその九カ国のうち、もっとも西寄りである長門、周防、安芸、石見の四カ国だけを残し、残りの五カ国すなわちこの備中、そして備後、美作の一部、そして伯耆、出雲の五カ国を織田家に譲る、というものである。
 攻め滅ぼすかわりに国を半分以上よこせ、というものだ。これはたしかに、要求としては法外なものであった。
「筑前。備中、備後、美作の三カ国でよい」
 信長は、突然言った。
「は?」
 秀吉は耳を疑った。
 毛利九カ国のうち五カ国をよこせ、というのが信長の当初の要求であったのに、それを信長は、三カ国でいいということに変えたのである。
 秀吉は、信長の真意をはかりかねて不審な表情をした。
「よいのだ。身代《しんだい》のうち半分を取り上げるといえば、やはり人間は死にもの狂いで抵抗する。そうさせてはならぬということを、余は本能寺で学んだのだ」
「しかし、三カ国でよいとなれば、毛利は残り六カ国を有する大大名として、その力を保ち得ます」
 秀吉は言った。
 つまり、四カ国程度の小大名になるならともかく、六カ国残してやるということは、いずれ信長の天下統一に対して障害になるではないか、ということである。
 室町の昔から、あまりに大きすぎる大大名は、主家《しゆか》をないがしろにすると相場が決まっている。
「小早川に使いを出せ」
 と信長は、毛利方でもっとも物の見える軍師格である小早川隆景への使いを命じた。
「安国寺を差し向ければよかろう。とにかく、人質を差し出せと言え。たしかな人質とその三カ国を差し出せば、毛利を攻め滅ぼすことはせぬ。だが、もし逆らえば——いや」
 信長は、それ以上言わなかった。
 明らかに信長は変わったと、秀吉も思った。
 昔の信長なら、その先はこう続くはずだ。
「余の意に逆らうならば、皆殺しにする」
 だが、秀吉はこのようなやり方には反対であった。
 秀吉も、この戦国に生きる武将の一人だから、人を何人も殺してきたということは認めざるを得ない。しかしながら、そういう中でも秀吉は、もっとも人を殺すことを忌《い》んできた武将の一人である。
「戦わずして人の兵を屈するは、善の善なる者なり」というのは、中国の孫子《そんし》にある兵法の極意である。秀吉はもちろん、そんな唐《から》の国の兵書は読んだことも見たこともなかったが、その鉄則をもっとも体得しているのが秀吉であることも、また事実であった。
「わかり申した」
 秀吉は頭を下げて、
「ただちに、恵瓊めを毛利の本陣に差し向けましょう」
 信長の意を体《たい》した安国寺恵瓊は、その日のうちに小早川隆景の陣所に赴いた。
 恵瓊は、この毛利の本国安芸(広島県)生まれの僧侶《そうりよ》であり、その謀才《ぼうさい》を買われて秀吉の家来となった。そこで、僧侶には姓がないので安国寺を姓とし、いわば半僧半俗《はんそうはんぞく》の風体で秀吉に仕えている。
 もちろん恵瓊は安芸生まれだから、その言葉の訛《なま》りもしゃべれたし、隆景とは何度も講和交渉で顔を合わせ、顔見知りであった。
「御坊《ごぼう》。今度は何をしに参られた」
 隆景は、面長で背の高い、均整のとれた体躯《たいく》の持ち主である。顔は、戦国武将には珍しく白く、そして太い眉《まゆ》と細い目がなんとも奇妙に調和した、一度見たら忘れられない顔であった。
 その隆景は、祖父元就の血を引いて、毛利家ではもっとも謀才に富む男というのが衆目《しゆうもく》の一致するところであった。
「和の条件でござるわい」
 恵瓊は、隆景の前にどっかと腰をおろすと、まずそう言い放った。
「五カ国をよこせ、さもなくば皆殺しということか」
 隆景は、苦笑して言った。こんな条件が、通ると思っているのだろうか。
「いえ。その五カ国はあまりにも欲をかきすぎると、上様のご判断でござる。なにとぞ美作、伯耆、備中の三カ国を賜《たまわ》りたい。これにて、当織田家は矛《ほこ》をおさめる所存でござる」
「それだけでよいのか」
 隆景は、意外な顔をした。
「あとは人質」
 抜かりなく、恵瓊はつけ加えた。人質を取らねば、毛利家が織田家に臣従したことにならないのである。
「ふん」
 隆景は、腕組みをして考えていた。
 実のところ、魅力的な条件である。
 強硬論を唱える者が多い毛利家の中にあって、隆景だけは信長の実力を見抜いていた。
 このまま戦えば、毛利側は多大な損害を出し、おそらくは壊滅させられるだろう。そうなれば、国が残るどころではない。一族皆殺しに遭《あ》うことになる。
 それならば早いうちに手を打って、家来として頭を下げてしまうのもいいと考えていたところであった。
 それに、注目しなければならないのは、信長の運の強さだ。
 信長は、数々の幸運に恵まれている。
 ずっと昔のことでいえば、そもそも桶狭間《おけはざま》で今川義元《いまがわよしもと》を討ち取ったこともたいへんな幸運であった。そして、最大の敵であった武田|信玄《しんげん》も、信長との雌雄《しゆう》を決する前に病死し、上杉|謙信《けんしん》も同じく病死した。
 そして、その運をいっさい帳消しするような目に遭うところであった本能寺の変も、なんとか切り抜けた。
 これは、信長に天運がついているとしか思えない。そういう天運のついている者に逆らったところで道は開けないということを、隆景は兵法を研鑽《けんさん》するうちに気づいていたのである。
「いかがでござる」
 恵瓊は上目遣いに、上座の隆景を見た。
「なるほど。当家にとっては、受け入れられぬ話ではないな」
 隆景は、そう言った。
 恵瓊は喜びの色を浮かべ、
「では、ご承引《しよういん》くださるのか」
「いや、待て待て。そう簡単にはいかぬ」
 隆景の脳裏に浮かんだのは、実兄の吉川元春の存在であった。
 元春は隆景と違って、勇猛一点張りの男である。戦わずして、たとえ五カ国から三カ国へ減ったとはいえ領土を割譲するようなことを策していると知れば、兄は黙っていない。下手をすると、その兄に斬《き》られる恐れすらあった。
 隆景としては、毛利家を存続させるには、いま織田家との講和を結ぶ以外にないと考えている。しかし、中には元春のように、とにかく相手を倒してしまえばいいではないか、と考える強硬派も多数いるのである。
「せっかくだが、おそらく受けられぬ」
 隆景は、やはりそう言わざるを得なかった。
 恵瓊はなんとも言えぬ、すがるような目で隆景を見た。
 隆景は、ふたたび首を振って、
「わしはよいのだ。だが、兄が黙っていまい。少なくとも一戦《ひといくさ》せねばわからぬと言っているのだからな」
 実は、織田と毛利の戦いはすでに一度あった。しかし、それは水軍同士の決戦であった。
 毛利家は、信長と敵対する摂津《せつつ》(大坂《おおさか》)の本願寺《ほんがんじ》と同盟を結び、信長が本願寺を包囲したのに際して、毛利方はその兵糧《ひようろう》補給を務めることにしたのである。
 というのは、石山《いしやま》本願寺は、海に面しているからだ。
 信長は、陸側をすべて包囲し兵糧の補給を断って、この巨大な本願寺城を兵糧攻めにしようとした。ところが敵もさるもの。毛利と同盟を結び、海側から兵糧を運ばせたのである。
 信長は、これを阻止しようと、配下の水軍に毛利方の村上水軍と戦わせた。だが、結果は惨敗《ざんぱい》であった。毛利の村上水軍の巧みな戦術の前に、織田の水軍は呆気《あつけ》なく敗れ去った。村上水軍の秘密兵器、焙烙玉《ほうろくだま》に敗れたのである。
 焙烙は、今日でいう焼夷弾《しよういだん》であって、敵の船に当たると、ちりぢりに弾《はじ》けて火災を起こす作用がある。そのために、木造船は呆気なく燃え上がり、灰になってしまうのだ。
 村上水軍は、この焙烙玉をもって日本無双の水軍となっていたのだ。
 しかし、信長はこれに対抗手段を考えた。
 それは、鉄甲船と呼ばれるべきものであった。つまり、木造の船を鉄の薄板を貼《は》って装甲するということによって、焙烙玉の焼夷能力を無効にしてしまうというものである。
 しかも、その船はとてつもなく巨大であって、村上水軍の船が束《たば》になってもかなわないほどの銃火器《じゆうかき》を備えていた。大砲と数十|挺《ちよう》の鉄砲である。
 この織田に属する九鬼水軍の鉄甲船艦隊と、村上水軍との決戦は、最初の決戦が行われたのと同じ、摂津の国、本願寺城の前海である木津《きづ》川口において行われた。
 そして織田軍は、今度は完膚《かんぷ》なきまでに村上水軍を撃ち破ったのである。
 したがって、今度の遠征にも、九鬼水軍は瀬戸内海を通って備中の国まで進出していた。陸路で敗れた毛利軍が、村上水軍の船によって逃亡するようなことがあれば、それを今度は鉄甲船で叩《たた》こうというわけである。
 隆景は、織田軍の実力、戦闘能力も評価していたが、それ以上に評価しているのは、その経済力である。
 毛利氏は大国とはいえ、その兵隊はほとんど領内の百姓を徴発したものである。いわば徴兵制であった。しかし、信長の軍団というのは、諸国の浪人やあぶれ者を金で雇った傭兵《ようへい》なのである。
 一見、たしかに傭兵集団というのは、風向きが悪くなるとすぐ逃げてしまうという欠点があり、一方、徴兵制による兵隊は苦戦に強いという利点はある。
 しかし、いかんせん徴兵制の最大の弱点は、年間を通して戦えないということであった。これに対して信長の軍隊は、その豊富な補給能力とともに一年中、戦うことができる。
 こういう軍隊と戦えば、おそらく勝つことはできないだろう、というのが隆景の読みであった。しかしながら、その考え方に納得しない者も多い。
「やむを得ぬ仕儀《しぎ》だな」
 隆景は言った。まったく戦いをしないで講和をするのは無理である、ということを恵瓊も悟らざるを得なかった。
 恵瓊の報告によって、五万の信長軍と三万の毛利軍は、高松城を横に見る形で激突した。
 結果は、呆気なかった。
 信長軍の誇る鉄砲隊の総攻撃によって、毛利軍はこれまでにない恐怖を覚え、つぎつぎと敗走した。中国十一カ国の覇者であったはずの毛利家は、長年絶対的な地位を築いてきた反動によって、実戦経験が不足していたのである。
 これに対して信長軍は、つねに天下布武《てんかふぶ》のために強化され、百戦錬磨の軍団であった。
 その差が出たのである。
 信長は、ただしこれまでのような徹底的な追撃の仕方はやめ、毛利軍が敗走したあと、ふたたび高松城周辺に本陣を置き、静観の姿勢をとった。
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