毛利《もうり》軍は敗走し、本城である安芸国郡山《あきのくにこおりやま》城へ入った。
郡山城では、若い当主毛利|輝元《てるもと》を中心に、その叔父《おじ》である吉川元春《きつかわもとはる》、小早川隆景《こばやかわたかかげ》が激論を交わした。
隆景は言った。
「この際、織田《おだ》家の条件に応じて、和を結ぶべきでござる。最初は五カ国|割譲《かつじよう》と申していたが、いまは三カ国に減った。この機を逃しては、千載《せんざい》に悔いを残すことになりまするぞ」
だが、兄の元春は首を振った。
「それはできぬ。戦わずして敵に屈するなど、武門の恥じゃ」
「戦わずしてと兄者《あにじや》はおっしゃるが、すでに戦い、敵の力量はよく見極めたはず」
隆景は反論した。
「そのほう、臆病風《おくびようかぜ》に吹かれたのか」
「臆病風に吹かれたのではござりません。敵の力量を正確に推し量り、我が家の立つべき道を見定めたのでござる」
「だが、信長は三カ国と言うが、三カ国ですむ保証があるのか。もし、これを受け入れたら、つぎは全|身代《しんだい》をよこせと言ってくるかもしれぬぞ」
「そのときは拙者《せつしや》が身を挺《てい》してでも、この毛利本家だけは残すことをお約束申す」
隆景は、きっぱりと言い放った。
元春は腕組みをして、しばらく考えていた。
実は元春も、このままでは毛利家が滅びるという危機感を抱いていたのである。しかしながら、まだ余力のあるうちに降伏することは、どうしても武士としての意地が許さなかった。
(だが、このままではいかん。隆景にすべて任せるか——)
ひそかに、そう思った。
隆景は、毛利|元就《もとなり》の息子のうち、もっとも優秀な頭脳を持っている。武将としての戦闘力は、元春のほうが上かもしれないが、隆景には、それに勝《まさ》る謀才《ぼうさい》がある。
元春は、とうとう決断した。
「よかろう」
元春は言った。
「そちの存分に任すがよい。だが、わしは力を貸さぬぞ」
隆景は、驚いて元春を見た。
それまで黙っていた、甥《おい》で本家当主の輝元が言った。
「叔父上は、いかがなされるおつもりか」
元春は、年若の甥に対しても家臣としての礼をわきまえ、一礼したあとに言った。
「拙者、嫡子元長《ちやくしもとなが》に家督を譲り、隠居いたす所存でござる」
「隠居」、この言葉には、輝元も隆景も驚いた。輝元は、呆気《あつけ》にとられて何も言えなかった。
代わりに隆景が言った。
「兄上。隠居とは、いかなるご所存でござるか」
「決まっておろう。わしは、降参することを潔《いさぎよ》しとせぬ。だが、このままでは本家は立ちゆかぬ。されば、わしが身を引くしか物事の解決はできまい」
元春は、もはや決心を翻《ひるがえ》さなかった。
天正《てんしよう》十(一五八二)年七月十五日。毛利家は、織田|信長《のぶなが》に対して、降伏を申し入れた。
信長と秀吉《ひでよし》が率いる五万の大軍は、毛利の本拠、安芸国郡山城に入城した。ここで臣従《しんじゆう》の誓いを受けるためである。
当主輝元は、叔父の小早川隆景を引き連れ、信長の前に手をついた。
「中納言《ちゆうなごん》殿。まあ、お手を上げられよ」
信長は、ていねいに言った。
「このたびのご決断、両家にとって誠に祝着《しゆうちやく》でござる」
「ははっ」
輝元は、信長の威《い》に押されて、またふたたび顔を伏せた。
「右大臣様」
今度は、隆景が言った。
「我が毛利家では、当主輝元が養嗣子《ようしし》にて秀元《ひでもと》を、小早川家では同じく嗣子の秀包《ひでかね》を、人質として差し出す所存でござりまする。なにとぞ、お受けくださりませ」
「ふむ。そなたは左衛門佐《さえもんのすけ》じゃな」
と、信長は隆景の通称を呼んだ。
「いかにも。小早川左衛門佐隆景にござりまする」
「そなたは、毛利の知恵袋として名高い。余《よ》も、そなたの軍略の才は耳にしておる」
「恐れ入ります」
隆景は、頭を下げた。
しかし、信長は表情をやや硬いものにして、
「だが、そなたの兄である吉川元春はどうした。毛利の両川《りようせん》と讃《たた》えられた二人のうち、一人しかおらぬとは、いかなるわけか」
輝元と隆景は顔を見合せたが、隆景が代表して言った。
「兄元春は、家督を嫡子元長に譲り、隠居いたしましてござりまする」
「なに、隠居。隠居とは、いかなるわけか」
「はあ」
隆景は腹に力を込めて、
「降伏は武士の恥。主家《しゆか》のためとはいえ同意することはできぬと、かように申しておりました」
「そうか」
信長はうなずいて、
「どうしても気に入らぬとあれば、やむを得ぬ。だがそれならば、なぜ新しい吉川家の当主がここに来ぬ。さもなくば、臣従を誓ったことにはなるまい」
厳しい咎《とが》めるような口調だった。
隆景は、顔を上げると笑みを返し、
「すでに、次の間に控えております」
吉川元長が現れた。
元長は、当主輝元よりは年上だが、まだ若い。
その元長が引き連れたのは、弟の広家《ひろいえ》であった。
「これなるは、我が弟、吉川広家にござりまする。私は、まだ子がござりませぬゆえ、この弟を人質として差し出したく存じまする」
「よかろう。よき心がけじゃ」
信長は、満足そうにうなずいた。
「さて、左衛門佐。そちが、我が家来となるならば、一つ命じたき儀《ぎ》がある」
「はっ、なんでござりましょう」
「そのほうも存じておろうが、余の望みは天下に武を布《し》く。つまり、この日本を統一することにある。そのためには、あと四国と九州、関東、奥州《おうしゆう》を押さえねばならぬ。それゆえ、そちに九州征伐の先陣を命じる」
輝元も隆景もその命令を受け、ただちに軍勢の準備を始めた。
八月に入って、温暖な中国地方での稲刈《いねか》りがすむと、毛利軍一万五千は先鋒《せんぽう》として、安芸郡山城を出発した。
後詰《ごづ》めには信長、秀吉率いる本軍五万がいる。総勢六万五千の大軍である。
ただし、信長はこの軍を、むやみやたらに攻め込むことに使おうとはしなかった。これだけの軍勢を一度に動員できる大名は、日本広しといえども織田信長ただ一人である。信長は、戦わずして勝つことをめざしていた。
九州は、北九州の肥前《ひぜん》、筑前《ちくぜん》、豊前《ぶぜん》あたりを根城《ねじろ》に勢力を伸ばしている龍造寺隆信《りゆうぞうじたかのぶ》、および中九州、筑後《ちくご》、豊後《ぶんご》、肥後《ひご》、日向《ひゆうが》あたりを勢力圏とする大友宗麟《おおともそうりん》、そして薩摩《さつま》、大隅《おおすみ》から日向への進出を果たした島津義久《しまづよしひさ》の三者による鼎立《ていりつ》状態であった。
信長は、まずこの中で、最近龍造寺、島津両氏の圧迫を受け、もっとも勢力が衰えている豊後の大友宗麟に使いを送った。
「傘下《さんか》に入れ」
という使いである。上使《じようし》は秀吉の弟、羽柴秀長《はしばひでなが》であった。
大友宗麟は、かつては九州一の威勢を誇る大名であった。宣教師からいち早く南蛮《なんばん》の文明を取り入れて、大砲を造り、種子島銃《たねがしまじゆう》を大量採用して、軍備の増強に励んだときは、その努力が功を奏して、一時は九州の覇王ともいうべき勢いを示した。
ところが、勝利に驕《おご》った宗麟は、しきりに酒に溺《おぼ》れ、女に淫《いん》するようになった。そして、家臣の妻女でも、気に入った女がいると無理やり取り上げる、という横暴すら行うようになり、人心が離れた。
そして、天正六(一五七八)年十一月。薩摩、大隅の二カ国を完全に統一し、体制を固めた島津氏が北上し、大友氏の領国日向に進入した。
宗麟は、六万の兵をもって島津征伐に乗り出したが、慢心と不摂生のために、二万に満たない島津軍に大敗して壊滅状態に陥り、戦死者は三分の一の二万人にのぼる、という大敗北を喫《きつ》した。
世に言う耳川《みみかわ》の合戦である。これは、大友氏が領国の体制を確立して以来、初めてだが最大の敗北であった。
この敗北によって、大友氏はそれまで手にしていた九州九カ国のうち六カ国、肥前、豊前、筑前、筑後、豊後、肥後のうち、豊後と肥後を残して、ほとんどその残りを龍造寺氏と島津氏に奪われるという屈辱をなめた。日の出の勢いの両氏に比べ、まさに豊後は日の沈む国であった。
ただ、宗麟は家来に恵まれていた。立花道雪《たちばなどうせつ》、臼杵鑑速《うすきあきずみ》、吉弘鑑理《よしひろあきなお》、という豊州《ほうしゆう》三老と呼ばれる名家老たちがおり、さらに武勇の誉《ほま》れ高い高橋紹運《たかはしじよううん》がいた。
紹運も、もとは吉弘家の一族である。さらに、高橋紹運の息子が望まれて立花家に養子に入り、立花|宗茂《むねしげ》と名乗っているが、この立花宗茂も、養父道雪に勝るとも劣らぬ勇将として有名だった。道雪はすでに老年だが、宗茂はまだ若い。
この優秀な家臣団が、織田家の申し入れを検討した結果、受けるべしとの結論に達した。
宗麟も、酒に溺れてはいるものの、九州六カ国の覇王として名を轟《とどろ》かせた男である。利害の判断は、まだ衰えていなかった。
「わかった。織田家に臣属するといたそう」
やむを得ぬことと、だれもが割りきった。かつて六万の大軍を動員できた大友家は、現在では一万も動員できるかどうか、それほど国力が衰えているのである。まさに、やむを得ぬ仕儀であった。
大友宗麟降伏の知らせを受けた織田・毛利連合軍は、関門海峡を渡って、筑前の立花城に入った。
立花城は、眼下に博多湾を見下ろす小高い山の上に建つ山城である。ここは、堺と並んで巨万の富を産み出す日本有数の貿易港・博多港を守護する城であり、大友氏にとっては、本城の豊後臼杵城に匹敵する価値のある城であった。
城主は、道雪の婿《むこ》養子、立花宗茂である。宗茂は、道雪の一人娘で女丈夫《じよじようふ》の名が高い千代《ぎんちよ》と夫婦になり、この城を守っていたのである。
信長はその城で、大友氏の主だった面々と対面した。
宗麟は、もはや屈辱を通り越し、無表情になっていた。考えてみれば、この結果はみずからが招いたのである。宗麟にしてみれば、豊後、肥後の二カ国さえ保てれば、あとは不満はないのであった。
「大友|義鎮《よししげ》であるな」
と、信長は宗麟の本名を呼んだ。ちなみに、宗麟は法号である。
「左様でござります」
称号もなしに、本名を呼び捨てされる屈辱に宗麟は耐えた。だが、控えていた立花道雪や宗茂の顔色は、さっと変わった。
「そちの家臣には血の気の多い者が多いようだが、このことについて不服を言う者はおらなんだか」
信長は、あえて問うた。
「いえ、不服など。上様のご意向には逆らえません」
と、宗麟はあくまでへりくだった。
「それでよい。当座の引き出物に茶入れを遣わす」
と、信長は茶道の開祖、村田珠光《むらたしゆこう》が賞愛したと伝えられる茶入れを、宗麟に与えた。
「かたじけのうござりまする」
宗麟の顔は、喜びに輝いた。
宗麟に茶の嗜《たしな》みがあり、しかも相当な数奇者《すきもの》であることを、信長は知っていたのである。
「さて、道雪」
と、信長は道雪のほうは号で呼んだ。
「そちは、九州一の武勇と誉れ高い者であるそうな」
「いえ。さほどのことはござりませぬ。ただ、この歳《とし》になっても戦場には真っ先に駆けていきますゆえ、そのようなことを申す者もござります」
道雪は、静かな口調で答えた。ただし、目だけは爛々《らんらん》と輝いている。
「そうか、その足で駆けられるのか」
信長は、道雪を見て言った。
織田側の家臣から、どっと笑い声が起こった。
道雪は足を痛めており、歩行も不自由のように見受けられた。どう見ても、速く走れる身体ではない。
「拙者、この歳ゆえ足が萎《な》えておりますが、戦場へは駕籠《かご》に乗り、参ります」
「ほう。そなた、いくつじゃ」
「当年とって、六十八になりまする」
一座から驚きの声があがった。
道雪は、髪を剃《そ》り落としているせいもあるが、精悍《せいかん》で、肌の色もつやつやとしており、とても六十八には見えない。
「駕籠に乗るというが、戦場では後れをとることはないのか」
「ござりませぬ。拙者の駕籠は山駕籠で、屈強な者六人が担ぎ、そして、その周りを薙刀《なぎなた》を持たせた百名の若侍で警護させております。この駕籠の行くところ敵なしで、さえぎった者はおりませぬ」
「ほう、それは上々《じようじよう》。では、そなたには引き出物としてこれを遣わそう」
と、信長は刀を一振り、道雪に与えた。それは、備前国長船《びぜんのくにおさふね》の住人、兼光《かねみつ》の名刀であった。
「かたじけのうござります」
道雪は一応、礼を述べた。
「九州にはもう一人、駕籠で指揮をとり、さえぎる者なし、という男がいるそうだな」
道雪は、はっとした。それはだれのことをいっているのか、言うまでもなかった。龍造寺隆信である。島津、大友と九州を三分し、いまや日の出の勢いの豪勇、五州二島《ごしゆうにとう》の太守とも豪語する龍造寺家の当主であった。
この龍造寺隆信も、駕籠で指揮をとる。ただし、その理由は道雪とはまったく違う。
道雪が駕籠を使うのは、壮年期に雷に撃たれ、下半身が不随になったからである。が、隆信が駕籠を使うのは、太りすぎのあまり馬にも乗れないからである。
しかし、隆信の勇名も九州に轟いており、その駕籠の行くところ敵なしと言われているのも、また事実であった。
「どうじゃ。どちらの駕籠乗りが強いか、余に見せてくれぬか」
「それは、龍造寺攻めの先陣を務めよ、ということでござるか」
信長は、うなずいた。
「奉公の手始めには、一働き所望するのが世の習いじゃ。異存はあるまい」
「ござりません」
道雪は一礼して、
「この拝領《はいりよう》した刀を持って、みごと隆信めの首をあげてご覧にいれましょう」
「よくぞ申した」
信長は、満足げにうなずいた。
龍造寺家にも、降伏を勧告する使者は送られていた。
しかし、隆信はこれを拒否した。
九州のうち五州を治め、龍造寺家の紋所(十二日足《じゆうにひあし》)のごとく日の出の勢いにある隆信にとって、戦わずして降参するということは、とんでもないことであった。
ましてや、日ごろから宣教師と深く交わり、中央の情勢にもくわしい大友宗麟と違って、隆信は織田信長という男がどれほどの実力の持ち主かも知らないのであった。
今度は、新たに降伏した大友軍が、立花道雪を大将とする一万の軍勢を率い、龍造寺家の領国筑前に侵入した。総勢は、毛利勢を合わせ七万五千である。
これに対し、龍造寺隆信は領国に動員令を発し、総勢五万人を動員して、これを迎え撃った。
信長は、外交的な手も打った。
かねてから龍造寺家に服属はしていたものの、龍造寺の強引なやり方に深く不満を抱いていた肥前長崎の大名、有馬晴信《ありまはるのぶ》に対し、黒田官兵衛《くろだかんべえ》を送り込み、龍造寺家に反旗を翻すように説得したのである。
晴信も、官兵衛とともにキリシタンであった。
元来、晴信は領国に平戸《ひらど》という、これも堺、博多ほどではないが日本有数の貿易港を抱えており、昔から宣教師との交流も深い。
その関係をたどって、信長は官兵衛を派遣し、説得にこれ努めたのである。晴信は、簡単に応じた。そしてまた、筑前地方の豪族で、かつて隆信に人質である幼い息子を殺された恨みを持つ赤星統家《あかぼしむねいえ》らも、信長の呼びかけに応じ、龍造寺家に反旗を翻すことを決めた。
これより、龍造寺の軍勢は五万から四万二千に減じた。しかも、龍造寺家は全体に装備が古く、鉄砲隊はわずか三百しかいない。
対する信長軍は、本軍に三千の鉄砲隊を備えている。その兵力差は十倍である。
織田軍七万五千は西国《さいごく》街道を南下し、迎撃した龍造寺軍と肥前国、田手畷《たでなわて》で激突した。
この戦いで、信長軍は鉄砲隊を中心に龍造寺家の前衛を撃破し、その思いもかけぬ攻撃に驚いた。龍造寺軍は、態勢立て直しのために本城である|水ヶ江《みずがえ》城まで引き返した。織田軍はただちに移動し、水ヶ江城を遠巻きに取り囲んだ。
信長軍の先鋒《せんぽう》たる大友軍立花勢の戦意は、高揚していた。
実は、かつて大友軍は、この佐賀平野で龍造寺隆信に大敗を喫したことがある。それは、元亀《げんき》元(一五七〇)年の夏のことであった。
当時、新興勢力であった龍造寺家と、全盛期を迎えていた大友家がその対立を深め、当主大友宗麟は六万の大軍を佐賀平野に差し向け、この水ヶ江城を取り囲んだのである。
一方の龍造寺軍は、わずか五千の兵力しかなく、どう考えてもこの戦いは大友軍の圧勝に終わるはずであった。
ところが、龍造寺家には鍋島信生《なべしまのぶなり》という名家老がいて、夜襲の作戦を提案した。
まさか夜襲などありえない、とたかをくくっていた大友軍は、鍋島勢の夜襲を受けてさんざんに敗北し、大将大友|親定《ちかさだ》は鍋島家の臣、成松信勝《なりまつのぶかつ》に首を取られてしまった。
これは、龍造寺と大友の力関係を逆転させる、龍造寺家にとってはまさに信長の桶狭間《おけはざま》の合戦に匹敵するような大勝利であり、大友家にとっては屈辱の敗戦であった。
この敗戦に、立花道雪も従軍していた。いや、従軍していたどころの騒ぎではない。大将大友親定のもっとも近くに布陣し、事実上の副将格にあったのが、道雪なのである。
この、世に言う今山《いまやま》合戦は、大友家屈辱の歴史であり、その屈辱を雪《すす》ぐ日がついにきたのである。
道雪は、養子の宗茂を呼んで言った。
「明日、わしは龍造寺隆信の首を取らずば、生きて帰らぬ覚悟じゃ」
「父上」
宗茂は、吠《ほ》えるように言った。
宗茂はまだ若いながらも、父道雪の名を辱《はずかし》めぬ勇将との誉《ほま》れが高い。いや、それどころか、むしろ武勇に関しては道雪を上回るのではないか、と噂《うわさ》する者もある。
「拙者もお供します。龍造寺隆信ならびに鍋島信生の首を取り、みごと右府《うふ》の御前《おんまえ》に供えてみせましょうぞ」
戦いは翌日、夜明けを期して始まった。
数に勝《まさ》る織田軍は、水ヶ江城をひしひしと取り囲んだが、織田軍の鉄砲隊の恐ろしさを思い知らされた龍造寺軍は固く守って、撃って出ようとはしなかった。
鉄砲隊の出番がないとなれば、あとは白兵戦である。
道雪は、今度こそ先陣の功を果たそうと、用意の山駕籠《やまかご》に乗り、六人の若者に担がせ、周りを薙刀で武装した百人の家来を引き連れ、総勢一万の大友勢の先頭に立った。
大将が突撃するのだから、ほかの人間も見習わざるを得ない。
それに対して龍造寺勢は、数少ない鉄砲隊を城内に配置し、狙《ねら》い撃ちの態勢をとり、主将隆信みずからが精鋭を率いて、中央撃破の態勢をとった。先鋒の立花軍を撃破し、その勢いで中核の織田軍に迫り、主将を討ち取ることによって数の少ない不利を補い、戦《いくさ》を終わらせようというのである。
しかし、これは夜間ならともかく、見通しの利く昼間としては、あまりにも無謀な作戦であった。しかも、四万二千いたはずの龍造寺勢は、対戦した織田軍の精鋭を見て、戦意を喪失した。
ここで、隆信自身に人望があれば、まだ戦況は違ったものになっただろうが、結局、隆信が叱咤《しつた》しても軍勢は動かず、隆信の本軍のみが敵陣中に突入して残される形となった。
「退路を断て」
道雪は情勢を見て、すかさず命じた。
肥前の熊《くま》とも恐れられる龍造寺隆信だが、その軍には、つねに猪突猛進《ちよとつもうしん》のきらいがある。
道雪は、まず退路を断つことによって、じっくりと料理をしにかかったのである。
そして、その作戦は成功した。
道雪の意を受けた宗茂が大友軍の精鋭を率いて、龍造寺隆信軍と本軍との連絡を断った。孤軍として残された隆信勢は、せいぜい二千である。
「いまだ、者ども」
道雪は、信長拝領の備前長船の名刀を振りかざして、絶叫した。
「今山の屈辱を晴らすのはいまぞ。恐れるな。後ろを振り返るな。めざすは、龍造寺隆信の首ただ一つ」
龍造寺軍に比べて、立花軍の戦意は旺盛《おうせい》であった。
いっせいに鬨《とき》の声をあげて、四方八方から襲いかかる立花軍の猛攻を、龍造寺隆信はわずか一刻《いつとき》の間も支えきれなかった。
そして、周囲の旗本をことごとく討ち取られた隆信は、まさに駕籠一つで、わずかな近習《きんじゆ》とともに敵軍の真っただ中に取り残されたのである。
「龍造寺の御屋形《おやかた》とお見受けする。拙者は大友家家老、立花道雪にござる。御首《おんくび》を頂戴《ちようだい》つかまつる」
道雪は大音声《だいおんじよう》で名乗りをあげ、最後の突撃の命令を下した。
「おのれ、道雪」
隆信は歯噛《はが》みして悔しがり、刀を抜いて、ついに駕籠から降りた。
道雪は駕籠を担がせ、龍造寺隆信のもとへ突進した。
その最期《さいご》は、きわめて呆気《あつけ》なかった。
道雪の周りを守る薙刀《なぎなた》隊の若衆に四方八方から斬《き》りたてられた隆信は、まず最初に左腕を失い、つぎに喉首《のどくび》をしたたかに斬られ、のけぞったところにとどめの一撃を脳天に食らった。五州二島の太守とみずから豪語した男の、呆気ない最期であった。
戦いは終わり、龍造寺軍は主将龍造寺隆信、および家老龍造寺|長信《ながのぶ》ら一族の重鎮《じゆうちん》を失い、龍造寺家の知恵袋と言われた鍋島信生は敗軍の中、生け捕りにされた。
気がついてみると、当初は五万近くいたはずの龍造寺軍はすべて逃げ散り、佐賀平野に敵の姿はなかった。
その日の夕刻、総大将信長は、意気揚々と龍造寺家の主城である水ヶ江城に入城した。
首実検の座には、無念の形相で歯噛みした大きな首が一つ、引き出された。もちろん、龍造寺隆信の首である。
「みごと」
信長は、道雪ら立花一族の働きを激賞した。
「勇猛とは、そなたのことを申すのだな、道雪」
信長は大きな声で、道雪を誉《ほ》めた。
道雪とて、誉められてうれしくないわけがない。笑顔を押し隠して、一礼した。
「恐れ入りまする」
「そなたの息子、宗茂の働きもみごとであった。褒美《ほうび》に馬をとらせる」
「かたじけのうござります」
道雪が代わって礼を述べた。宗茂も傍《かたわ》らに控えている。
「さて、道雪。そちには何を褒美にとらそうか」
信長が言うと、道雪はそれを待っていたかのように膝《ひざ》を進め、
「是非《ぜひ》、願いのいただきものがござります」
「ほう。それは何か」
「鍋島信生めの首でござります」
道雪は言った。
道雪の心の中には、かつて今山の屈辱的な敗戦のことが、片時も離れることがなかったのである。
「なるほど、信生の首か」
信長は考えていたが、
「道雪。では、余からも頼もう。信生の首、余に買わせてはくれぬか」
「買うとおっしゃいますと」
「黄金十枚でどうかな。あるいは、馬でもよいが」
信長は言った。
「かの者の命を助ける、と仰《おお》せられる」
「うむ。あの男、なかなか物の役に立つ侍《さむらい》とみた。なにせ、かつて十倍以上の大軍を破ったほどの男だ」
信長はそう言ったが、道雪は顔をしかめた。その戦《いくさ》とは、大友家の屈辱的な記録なのである。
「かの者を憎む、そなたの気持ちはよくわかる。だが、道雪、考えてもみよ。すでに兵を失い、捕らえられ、動けぬ者の首を刎《は》ねたところで、そなたの武勇の誉れにつながるとは思えぬがの」
信長は、道雪の痛いところを突いた。
そのとおりだった。戦場で相まみえ、互角の戦いをして倒したならば誉れともなろうが、敗軍の途中に、しかも捕らえられた者の首を斬ったとしても、なんの名誉にもならない。
「よいではないか。そなたは隆信を討ち取り、この戦に勝ったのだ。もはや恥は雪《すす》がれた。あとは寛大な心を示すことこそ、武士の誉れというべきものだ」
「——わかり申した」
道雪は、うなずいた。
「父上」
宗茂が文句を言いかけると、
「言うな。右府様の仰せのとおりじゃ。わしは、恨みを水に流すことにした」
「よかろう」
信長は、莞爾《かんじ》として笑った。
「それこそ、名将と申すもの」
信長も満足していた。
鍋島信生は、信長の意を受けた秀吉の説得に応じて、秀吉に信長から預けられた形で仕えることに決まった。これを、寄騎《よりき》の制という。
同時に、信生は龍造寺隆信からもらった信の字を捨て、直茂《なおしげ》に改名した。鍋島直茂として、これからは織田軍の一翼を担うことになったのである。
九州の三大勢力のうち、大友の服属に続いて龍造寺が滅び、信長軍は九州のうち薩摩、大隅を除く七州を我が手に収めた。
あとは、この二州を治める島津だけが残っている。