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日本史の叛逆者12

时间: 2019-05-24    进入日语论坛
核心提示:     12 信長《のぶなが》は、島津《しまづ》家の当主|義久《よしひさ》に降伏勧告の使者を送った。 一刻も早く織田《お
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 信長《のぶなが》は、島津《しまづ》家の当主|義久《よしひさ》に降伏勧告の使者を送った。
 一刻も早く織田《おだ》家の配下となり、家臣の礼をとれというのである。
 これに対し、ただちに島津の本拠|鹿児島《かごしま》城で重臣たちが集まり、対策を練った。
 島津家は、当主義久の下に三人の弟がいる。義弘《よしひろ》、歳久《としひさ》、家久《いえひさ》である。いずれも武勇に長《た》け、四兄弟の結束は堅い。
 さらに、家臣にも優秀な武将が大勢いる。その中で一人だけ挙げろといえば、新納武蔵守忠元《にいろむさしのかみただもと》であろう。
 すでに七十近く、髪も髭《ひげ》も雪の如《ごと》く白い男だが、薩摩《さつま》一の豪傑として近隣諸国にその名は轟《とどろ》いていた。
 その忠元と四兄弟のうちの歳久は、この勧告を受け入れるべきだと主張した。
 二人とも時代を見る目を持ち、また歳久は、上方《かみがた》商人とのつき合いを通して、織田軍がいかに恐るべき力を持った、史上かつてないほどの強大な軍団であるかを知っていたのである。
「腰が抜けたか」
 当主の義久は、吐き捨てるように言った。
「左様《さよう》ではござらぬ」
 忠元は、義久を睨《にら》み返した。
「ならば、なぜ降伏なぞせよと言う」
「ほかに、道がないからでござる」
 忠元は、冷静な口調で答えた。
「織田|右府《うふ》の軍勢は、十万とも十五万とも聞こえ、なおかつ上方《かみがた》のほうに、さらにこれに匹敵する兵力を備えております。しかも、その鉄砲隊は、あの天下一とうたわれた武田《たけだ》騎馬隊を撃破したほどの力を持つもの。それに引き替え、我が薩摩は、せいぜい薩摩、大隅《おおすみ》二カ国あわせても、五万の軍勢を擁すればいいところ。これでは、かない申さぬ」
「忠元、その五万は薩摩|隼人《はやと》の五万ぞ。上方の腰抜け武士とは、力も技も違う」
「でもござりましょうが、戦《いくさ》の勝敗を分けるのは個々の兵の力量にあらず、その装備であり、用兵であり、数でござります」
「武蔵殿。それは、あまりな暴言ではないかな」
 当主のすぐ下の弟である義弘が、異を唱えた。
 義弘は、兄義久以上の絶倫の武将として知られ、この男の行くところ敵なし、という噂《うわさ》があるほどの男である。
「暴言ではござらぬ。敵の力を正しく推し量り、我らの力と比べることこそ肝要。負ける戦をせぬのが、名将の道でござります」
「名将名将と言うが、臆病《おくびよう》のことを名将と言うのではないか」
 末弟の家久が吠《ほ》えた。
 これに対して、すぐ上の兄である歳久はたしなめるように、
「武蔵殿の話をよく聞くのだ。猪武者《いのししむしや》では戦に勝てんぞ」
「兄上こそ、臆病者では戦に勝てませぬ」
「なに! 拙者《せつしや》のことを臆病者と申すか。弟だといえ、許さんぞ」
 歳久は、刀の柄《つか》に手をかけた。
「待て、ここは軍議の場ぞ。喧嘩《けんか》の場ではない」
 さすがに見かねて、義久が一喝した。
「忠元。そちの言うことはわからぬでもないが、全九州にその名を轟かせた我が島津が、いかに大軍とはいえ、一戦も交えることなく降参したとあっては示しがつかぬ。ここは、是非《ぜひ》とも一戦交えるべきだと思う」
「御屋形《おやかた》様、もしその一戦を口実に、当家には服属の意志なしと、右府がこの国を滅ぼしにかかったら、いかがいたします。取り返しがつきませぬぞ」
「そのときは、人種《ひとだね》が尽きるまで戦うまでだ」
 義久は言った。
「ただちに、織田家の軍勢を迎え撃つ態勢をとれ」
「先鋒《せんぽう》は、ぜひ拙者にお申しつけくだされ」
 義弘が頭を下げた。
「よかろう。そちに命ずる。上方の腰抜け武士どもに、我が島津の武威《ぶい》をとくと見せてやれ」
「かしこまりました」
 軍議の結果、交戦と決まり、義久は織田家の使いを褌《ふんどし》一丁の裸にして髷《まげ》を切った姿で縛り上げ、織田側の本営まで送り届けた。
 信長は、それを知って激怒した。
「おのれ、田舎侍《いなかざむらい》め。目にもの見せてくれる!」
 織田側も、ただちに軍議を招集した。
「拙者に、先陣をお申しつけくだされたく存ずる」
 そう名乗り出たのは、小早川隆景《こばやかわたかかげ》である。先の龍造寺《りゆうぞうじ》攻めでは、立花道雪《たちばなどうせつ》ら大友《おおとも》勢の働きがめざましかったので、ここでなんとしてでもひとつ、毛利《もうり》側の人間として手柄を立てておきたかったのである。
「お待ちくだされ」
 と、今度は立花|宗茂《むねしげ》が名乗り出た。
「小早川殿の武勇は、充分に存じているが、あの薩摩とは、田舎侍ながら、なかなか手強《てごわ》い相手でござる。しかも、その戦法にはいささかの工夫があり、それを知る者でなくては、うまく攻めることかないませぬ。ここは、かつて薩摩の者どもと何度も戦ったことのある、この宗茂めに先陣をお与えくださいますよう」
 信長は笑って、隆景と宗茂の顔を相互に見やって、まず隆景に言った。
「宗茂は、あのように申しておるぞ。どうじゃ」
「なるほど、薩摩の侍どもは、なかなかの戦巧者《いくさこうしや》とは聞いたことがあり申す。しかし、何ほどのものがござりましょう。戦は本来、敵を撃つ、この一言こそ肝心《かんじん》かなめなことと存じます」
「そちは、薩摩のことなど知らずとも充分に戦える、と申すのだな、どうじゃ、宗茂」
 今度は、信長が宗茂に水を向けた。
「いえ、そのお考えはきわめて危のうござるな。油断とまでは申しませぬが、甘くなめてかかると、えらい目に遭《あ》いますぞ」
 隆景は反論せず、黙っていた。宗茂の言葉をあえて無視することによって、自信を示したのである。
「よかろう。先陣は隆景に命ずる。毛利家の名誉を賭《か》け、薩摩の田舎侍どもを撃ち破ってみせい」
「ははっ、かたじけなきお言葉」
 隆景は、その場に両手をついた。
 それに引き替え、宗茂は不満げな面持ちである。
「もし、隆景がしくじるようなことがあれば、宗茂、そちの出番じゃ。おこたりなく支度せよ」
「かしこまってござる」
 宗茂は、重々しく答礼した。
 顔を上げた隆景と宗茂のあいだに、火花が走った。
 小早川隆景率いる毛利三千の軍勢は、織田軍六万の先鋒として、豊後《ぶんご》と日向《ひゆうが》の国境にある戸次川《べつきがわ》で、島津軍の島津義弘隊、同家久隊と激突した。
 隆景は、宗茂の言葉を本気にしていなかった。島津軍には独自の戦法があるなどと言うが、どうせ田舎武士の垢抜《あかぬ》けない戦法であろう。
 それに対して、隆景自身は、日本で最先端の装備を持つ織田軍とも対決した経験すらある。
 負けるはずがない、と思った。
 しかも、戸次川を挟んで薩摩側に布陣している島津軍は、どう見ても三千程度にしか見えない。
 いくらなんでも、島津軍が総力を上げれば、五万ほどの軍勢は確保できるはずだが、まったく気配が感じられないのである。
「島津恐るるに足らず」
 隆景は大胆にも、敵の目前で渡河を始めた。
 川を渡ることは、行軍速度が落ち、敵の鉄砲の的になりやすいものだが、島津側には鉄砲の備えも見えなかった。
 隆景は悠々と川を渡って、対岸の島津勢に迫った。
 中央に、島津義弘の馬印が翻《ひるがえ》っている。
「あれこそ、島津家当主義久の弟、義弘の本陣ぞ。義弘の首を取れ。取った者には望みの恩賞を与えるぞ」
 隆景は、大音声《だいおんじよう》で叫んだ。兵たちは、それに対して歓呼の声をあげ、どっとばかりに義弘隊に襲いかかった。
 義弘隊は、初めわずかな抵抗を示したものの、すぐにじりじりと後退を始めた。
 隆景は、ますます島津の力を侮《あなど》った。
「これが、九州にその名を轟《とどろ》かせた島津の軍勢か。口ほどにもない」
 隆景は、本陣と離れる形となり、ますます前へ前へと進んだ。
 だが、それは義弘の誘いの隙《すき》だったのである。
 隆景が義弘の本隊に肉薄《にくはく》したと信じたそのとたん、あっという間に左右両翼から伏兵が出現して、いきなり鉄砲を撃ち込んできた。
 この思いもよらぬ攻撃に、隆景隊は、たちまち浮き足立った。
「しまった、伏兵か」
 そのときになって初めて、隆景は前に進みすぎているのに気がついた。敵が巧妙にじりじりと後退したため、思いもかけず深入りしてしまったのである。
「しまった。周りを固めよ」
 隆景はとりあえず、兵を散らさずに密集させる下知《げち》を下した。その上で、敵陣の手薄なところを狙《ねら》って、強行突破しようとしたのである。
 だが、義弘はそれも読んでいた。
 もうひとつ伏兵として伏せてあった新納《にいろ》忠元隊を繰り出し、またたく間に隆景隊の退路を塞《ふさ》いだ。
 ここにいたって、まさに隆景は袋の鼠《ねずみ》となったのである。
「まんまと引っかかったな、たわけめ」
 義弘は、会心の笑みを洩《も》らした。
 これが、島津得意の釣《つ》り野伏《のぶ》せ戦法である。このやり方で、薩摩はこれまでにも五倍や十倍の敵を相手にして、勝利を収めている。敵の主力部隊をおびき出し、殲滅《せんめつ》することによって、ちょうど蛇《へび》の頭を叩《たた》き潰《つぶ》すようにして、残りの軍勢を無力化してしまう。
 いまや、隆景の首は取ったも同然だった。
 しかし、義弘がそう思ったときに、突然、背後から雄叫《おたけ》びが起こり、伏兵となって隠れていた軍勢が、一気にこちらの陣に突進してきた。
「島津義弘、首はもらったぞ」
 その軍勢の大将は、立花宗茂であった。
 宗茂は、島津の戦法を逆手にとって、彼らの注意が小早川隊に向いているあいだに、義弘隊の背後に回ったのである。
 義弘は焦《あせ》った。隆景隊を取り囲む形で前方に全力を集中しているために、背後は、まったくの手薄であった。そこを宗茂に突かれてはたまらない。
 たちまち、薩摩軍の鉄の包囲の陣形が崩れた。
 島津軍は、主将義弘を守るために、後ろに向かって散開した。
 一方、鉄の包囲が解けた小早川隊は、味方の軍勢の応援に勇気百倍し、崩れかけた島津隊に襲いかかった。
 こうなれば、勝敗は完全に逆転する。
 勇猛をもって鳴る新納忠元隊も、この逆流した潮の流れを支えきることはできなかった。
 そこへ、さらに対岸でこれを見ていた信長が下知を下し、全軍を殺到させたため、島津軍は壊滅状態になって敗走した。
 戸次川の合戦は、こうして織田軍の大勝利に終わったのである。
「立花殿、かたじけのうござった」
 隆景は、宗茂に向かって深々と頭を下げた。
「いやなに、拙者は島津の小ずるいやり方を存じておるゆえ、それを逆手にとったまでのことでござるよ」
「いや、恐れ入った」
 隆景は、感嘆の声を洩《も》らした。
 たしかに、この男の言うことは正しかったのである。
 もし宗茂がいなければ、隆景隊は殲滅され、隆景自身は首を義弘に取られていただろう。
 薩摩の戦術は、それほど巧妙だったのである。
「貴殿の忠告を無視した拙者の知恵の浅さ、まことに恥じ入る次第でござる」
 隆景は、十いくつも下の、まだ大人になったばかりといっていい宗茂に、ふたたび頭を下げた。
「いえ、もう過ぎたこと。それより、今後は織田軍の精鋭として、ともに力を合わせ、手柄を立てましょう」
「願ってもない言葉じゃ」
 そう言って、隆景はおおいに笑った。
 一方、敗走した島津側は、鹿児島城でふたたび軍議を催していた。
 いざ戦ってみると、織田軍というのは、これまで戦ったことがないほどの精強部隊であった。
 少なくとも、これまで九州では、龍造寺も大友も島津の敵ではなかった。一度は九州の覇王となりかけたこの二大勢力を、島津は寡兵で撃ち破ってきたのである。
 その自信が、まったく崩れたことが大きかった。
 そこへふたたび、信長から降伏勧告の使者が来た。
 一同は、顔を見合わせた。
 どう考えても、織田軍には勝てそうにない。このまま戦えば、かならず滅亡である。
 かといって、降伏するのは、なんとも耐えがたい。
 しかし、それでも義久には、先祖から受け継いできたこの島津家を保つ責任があった。その当主としての責任が、つぎの言葉を言わせた。
「断腸の思いではあるが、ここは織田家の申し入れを受けるしかあるまい」
「それは、降参ということでござるか」
 義弘は、すかさず言った。
「そうだな。言葉を飾ってもつまらぬ。降参は降参じゃ」
「それはおかしゅうござる」
 真っ先に反対の声をあげたのは、意外なことに、かつて降伏勧告受け入れを主張した新納忠元であった。
「降参するのならば、最初の使いのときに降参すべきであった。そのことは、この忠元も申し上げたはず。それなのに、皆様はなんと仰《おお》せられたか。忠元を卑怯者《ひきようもの》、臆病者《おくびようもの》と罵《ののし》ったではないか。そして、こうも仰せられた。一戦して負けることがあっても、人種が尽きるまで戦うと。その覚悟は、いったいどうされたのでござる」
 それを聞いて、苦々しい顔でだれもが黙った。
 やや沈黙があって、その沈黙を当主の義久が破った。
「たしかに、わしの不明であった。許せよ、忠元。わしはな、敵の力を正しく推し量ることができなんだ。これは当主として失格じゃ。そこで、わしは今日より隠居する」
「隠居?」
 義弘以下、一同は驚いた。
「隠居とは、いかがなわけでござるか。いまは危急存亡の時でござるぞ、兄上」
 と、義弘は言った。
「さればこそ、このような凡庸《ぼんよう》な当主がいても埒《らち》があかぬ。家督《かとく》は、そちに譲る」
 義久は言った。義久の子は、まだ幼いのである。
「しかし、兄上」
「口答えは許さぬ。これは、当主としての命令じゃ。だが、当主となって最初の仕事が降伏では、いかにも家臣家中の示しがつかぬ。そちもやりにくかろう。降伏は、わしの裁断《さいだん》でする。そして、隠居じゃ。その後は、そちの好きなようにやるがよい。よいな、しかと申しつけたぞ」
 義久はそう言って、さっさと立ち上がると、奥の間に引っ込んでしまった。
 残された家臣たちは、あまりのことに呆然自失《ぼうぜんじしつ》した。
 信長軍は、豊後から日向《ひゆうが》に入り、大隅を経て、薩摩の加治木《かじき》城まで進出していた。
 その加治木城を本営とする信長軍のもとに、ある日、墨染《すみぞ》めの衣をまとった僧二人が訪れた。
「薩摩家当主、島津義弘にござります。この者は従者の当家家老、新納忠元。なにとぞ、右大臣さまに御意《ぎよい》を得たい」
 信長は、驚いて拝謁《はいえつ》を許した。
 一度は偽者ではないかと疑ったが、戦場で彼らの顔を何度も見ている大友家や元龍造寺家の家来たちに確認させて、たしかに二人に間違いないと確かめてから、目通りを許したのである。
「その墨染めの衣は、いかなる訳か」
 信長が開口一番、問うた。
「降伏の印でござります」
 義弘は答えた。
「そなた、島津家当主と申したが、当主は義久ではないのか?」
 信長は、あえて当主の名前を呼び捨てにした。
 義弘は、いささかも怒りを見せずに、
「左様でござりました。十日前までは」
「十日前?」
「はい。十日前に、義久は敗軍の責任をとり、当主の座を下りたのでござります」
「そちが、その跡を継いだのか?」
「このように、首を洗ってまいりました。なにとぞ拙者の命に代えて、島津家の存続と兵どもの助命を、お願いしとう存じます」
 義弘は、床に深々と額をすりつけて懇願した。
 それを見ていた忠元は膝《ひざ》を進めて、
「拙者、島津家家来、新納忠元と申す者でござります」
「ほう。そちが鬼武蔵《おにむさし》の異名をとった剛勇の者か。噂《うわさ》は聞いておる」
 信長が言った。
「恐れ入ります。主君義弘のことについて、一言申し上げたき儀《ぎ》これあり」
「よかろう。申してみよ」
「先君義久公は、義弘殿に家督をお譲りになる際、敗軍は自らの責め、降伏は我が名をもってすると仰せられたにもかかわらず、義弘公はそれを潔しとせず、当主を継いだ上で、こうして降伏にまかり出たのでござります。なにとぞ、その意をお汲《く》みおきくださるよう、お願いいたします」
「そうか。殊勝な心がけである」
 信長は大きくうなずいて、
「両名とも、我が軍勢に刃向かいし罪は許す。また、戦場でのことは互いにその場かぎりのこととして咎《とが》めはせぬ。義弘、そちも僧体《そうてい》である必要はない。還俗《げんぞく》せい」
「かたじけないお言葉、義弘、生涯忘れませぬ」
「それでは腰が寂しかろう」
 と、信長は立ち上がって、自らの太刀《たち》を小姓から受け取ると、義弘に渡して、
「これを遣わす。佩刀《はいとう》とするがよい」
「お受けいたします」
 義弘は、両手を伸ばしてそれを受けた。それは、信長がつねに愛用している来国行《らいくにゆき》の名刀であった。
「忠元、そちも寂しそうじゃの」
 と、信長は小姓に命じて大薙刀《おおなぎなた》を持ってこさせると、わざと先の刃の根本のほうを握り、柄《え》のほうを差し出して、忠元に渡した。忠元は平然として、これを受けた。
 周りの家来は、はらはらしながら信長を見ていた。
 もし、忠元が悪心を起こして立ち上がり、その大薙刀を持って信長の首を刎《は》ねようとすれば、できないことはないのである。
 しかし、忠元はもとよりそんなことをする気はなかった。負けは負け、認めた以上はじたばたしないというのが、薩摩の武士の美学である。
「どうじゃ、忠元。このような主は見限って、余に仕えぬか。余の直参《じきさん》となれば、一万|石《ごく》あてがわせて遣わすが」
 信長は言ったが、忠元は大きく首を振り、
「拙者、薩摩島津家|譜代《ふだい》の臣でござる。かようなこと考えもおよびませぬ。もしその一万石|賜《たまわ》るならば、主人義弘に賜れば幸いでござる」
「そうか。よくぞ申した」
 信長は、からからと笑った。
 薩摩島津家を、ついに配下に置いたことも大きいが、何よりの儲《もう》けものは、島津家の豊富な人材が、こちらの手に移ったということだ。
 信長は、大きな手ごたえを感じていた。
「筑前。これで、あとは四国だな」
 島津衆が引き揚げたあと、上機嫌の信長は、羽柴秀吉《はしばひでよし》を相手に酒を飲んだ。
 臨時の本営となった寺の奥座敷には、ほかに森蘭丸《もりらんまる》ら数名の近習《きんじゆ》がいるばかりである。
「左様でござりますな。上様にとっては、因縁《いんねん》の四国攻め。早く片づけとうござる」
 秀吉がそう言ったのは、本能寺《ほんのうじ》の変が起こったのは、信長が四国の長宗我部《ちようそかべ》を征伐しようと、軍を大坂《おおさか》に集結させたことが、きっかけとなったからである。
 信長は苦笑いした。
 あのとき、高柳左近《たかやなぎさこん》の注進《ちゆうしん》がなければ、いまごろ信長は、この世の人ではない。
「さて、そこでだ」
 信長は盃《さかずき》を置いて、秀吉に向かって、
「つぎの四国攻めの総大将は、そちに命じる」
「えっ」
 秀吉は驚いて盃を置き、一礼すると、
「それは願ってもない御言葉ですが、されど——」
 と、口ごもった。
「信孝《のぶたか》がことか——」
 信長はすぐに察した。
 本能寺の変の折には、四国攻めの総大将は、信長の三男で伊勢《いせ》の神戸《かんべ》家に養子に入った神戸信孝であった。信孝を総大将に、丹羽長秀《にわながひで》が補佐する形だった。
 したがって、仕切り直しというべき、つぎの四国攻めも、信孝が総大将を務めることが大方の予想だった。
「あやつには、まだ早すぎたわ」
 信長は、苦々しい顔で言った。
 信孝を総大将に任じたのは、これをもって大軍の総指揮を実際に体験させ、ゆくゆくは織田軍団の軍団長として、四国を領地に与えようという考えからだった。
 しかし、本能寺の折の信孝の動きは、いかに不意を突かれたとはいえ、誉《ほ》められるものではなかった。
 まだまだ、もっと小さな部隊の指揮から修行させる必要がある。
 信長はそう感じていた。
「すると、若君は、四国へは行かれぬのですな」
 秀吉の問いに、信長はうなずいた。
「余のもとで、ほかのところで一働きも二働きもさせてやる。とりあえずは、小田原《おだわら》が働き場よ」
「北条《ほうじよう》でござりますか」
 秀吉は言った。
 残る敵、それも大大名は三つしかない。
 東北の伊達《だて》、関東の北条、そして四国の長宗我部である。
「軍を二手《ふたて》に分ける。四国は、すべてそちに任せるぞ」
「ははっ」
 秀吉は、かしこまって平伏した。
 天下の三分の二は、すでに織田家の手中にある。
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