四国遠征軍の総大将を命ぜられた羽柴秀吉《はしばひでよし》は、本営を九州|小倉《こくら》城に置き、小倉から南下して、別府《べつぷ》城に入った。小早川隆景《こばやかわたかかげ》、立花宗茂《たちばなむねしげ》らも、これに従っている。
一方、羽柴秀吉の弟、羽柴|秀長《ひでなが》を中心とする五万五千の軍勢は、中国路を京へ西上し、姫路《ひめじ》に入った。この先、明石海峡を渡って、淡路《あわじ》島から阿波国《あわのくに》(徳島県)に上陸するつもりなのである。
そして、別府側からは伊予国《いよのくに》(愛媛県)に入る。
敵の長宗我部《ちようそかべ》勢は、四国のうち土佐《とさ》、阿波を完全に抑え、讃岐《さぬき》、伊予についても、その中心部を押さえている。
実際、信長による天下統一がなければ、とうの昔に四国の覇王となって、中国地方にも進出していたはずである。長宗我部の大将、元親《もとちか》は、それがわかっているだけに悔しく、やるせないのである。
十月半ば、秀吉を総大将とする総勢八万五千の本軍が伊予側から、一方、弟の羽柴秀長を総大将とする別働隊五万五千が阿波側から、ともに四国に上陸した。
長宗我部元親は、もともと土佐の出身ではあるが、本拠を土佐|岡豊《おこう》城から、四国のちょうど中心にある阿波|白地《はくち》城に移していた。この白地城からならば、短い時間で四国のどの地域にも行くことができるからである。
白地というのは、そもそも兵法でいう駆馳《くち》、すなわち交通の要衝《ようしよう》を示している。
一方、讃岐国の一角では、早くから秀吉と友好関係にある三好康長《みよしやすなが》が、東方を確保していた。三好の一族である十河存保《そごうまさやす》も讃岐十河城にあり、信長の先鋒《せんぽう》隊の役目を果たしていた。
そもそも、本能寺《ほんのうじ》の変当時における、織田|信孝《のぶたか》を総大将とする四国遠征軍の派遣は、織田家に友好的な三好家を、長宗我部の手から守ることにもあったのである。
もし、織田の援軍がなければ、三好家は、とうの昔に滅亡していたところだろう。逆に、総勢十四万に近い軍勢の応援を得て、三好勢の意気は天を突くものがあった。
長宗我部元親は、阿波白地城にあって、伊予、讃岐、阿波の三方にわたる攻撃を受けることになり、とりあえず、どの地に遠征軍を派遣するか悩んでいた。
長宗我部の動員できる最大勢力は、せいぜい四万だが、中央を抑えた織田軍の進行を前にして、寝返ったり、中立に傾く者が多く、総勢は三万を切っていた。
「このままでは、はかばかしい戦いができませぬ。父上、ここは乾坤一擲《けんこんいつてき》の機をもって、事に当たるべしと存じます」
元親の嫡男《ちやくなん》、信親《のぶちか》は、軍議の席で膝《ひざ》を乗り出した。
信親は、元親自慢の男子で、身長六|尺《しやく》五|寸《すん》、堂々たる偉丈夫《いじようふ》で、もはや家督を譲っても問題はないとすら、元親は思っている。
ちなみに、皮肉なことに信親の信は、かつて長宗我部家と織田家が友好関係にあったときに、長子誕生を祝って、信長から贈られた名前であった。信長の信を取って、信親と名づけたのである。
「その意気やよし」
と、元親は、とりあえず息子を誉《ほ》めた。
だが、頭のすみにあるのは、別の考えであった。
総勢十四万にのぼる軍勢を受ける力は、いまの長宗我部家にはない。とすれば、家を保つためには、一つの手段しか残されていない。
それは降伏である。
(先に織田軍の攻撃を受けた島津《しまづ》は、結局、薩摩《さつま》、大隅《おおすみ》の二カ国を安堵《あんど》することを条件に降伏を申し入れ、許された。もし、それをこの長宗我部に当てはめると、いったいどういうことになるか)
せめて土佐、阿波の二カ国は欲しいところだが、もともと阿波の持ち主であった三好家が秀吉の保護下にあることを考えれば、この望みが通ることは難しいだろう。
ならば、そもそも長宗我部の領地であった土佐一国を安堵するという条件ではどうだろうか。
実は、土佐一国ですら、本来は長宗我部のものではない。この国は、京都から逃れてきた公家出身の一条《いちじよう》家の領地であった。しかしながら、元親は本来の領主である一条|兼定《かねさだ》を追って、土佐一国の領主の地位を得たのであった。
うかつに降伏を申し出れば、一条家を前に押し立て、土佐の領土権すら認めない態度に出るかもしれなかった。
それを防ぐにはどうしたらいいか。
島津のように、とりあえず抵抗の姿勢を見せ、その強さを知らしめることかもしれない。一戦して、とりあえず局地戦の勝利を収めることだ。長宗我部勢、侮《あなど》りがたしという印象を敵に植えつければ、交渉もうまくいくかもしれない。
そのために、どの敵を叩《たた》くかが最大の問題だった。
秀吉の本軍は七万五千もあり、しかも、新たに傘下《さんか》に加えた小早川隆景、立花宗茂ら勇将猛卒《ゆうしようもうそつ》を多数、抱えており、これらの武将のあいだでは、先陣争いが激しいとさえ聞く。そのような中に、みすみす少人数で飛び込んでいけば、まさに飛んで火にいる夏の虫ということになる。
では、羽柴秀長率いる別働隊のほうはどうか。
これは、五万五千と本軍よりは少ないが、それにしても蜂須賀家政《はちすかいえまさ》、池田輝政《いけだてるまさ》ら、かつて信長軍の創業以来の古強者《ふるつわもの》たちである。それゆえ、秀吉の本軍と比べて侮りがたいものを持っている。
では、もう一つの別働隊ともいうべき、阿波三好・十河連合軍はどうだろうか。
これがもっとも与《くみ》しやすいことは事実である。ただ問題は、それぞれ居城を持っており、野戦ではなく、城攻めになることだ。
三好勢はせいぜい一万、いや、おそらく一万に満たない。それゆえに、本軍が到着するまで、城に籠《こも》って抵抗の姿勢を見せるであろう。野戦なら、場合によっては一日で片がつくが、攻城戦となれば、何日もかかる。その間、敵地に釘《くぎ》づけにされれば、敵軍に退路を遮断《しやだん》され、全滅の危険すらある。
軍議の席では、信親の強硬な意見に同調する者が相次いだ。
もともと長宗我部|侍《ざむらい》は田舎者で、中央の情勢をよく知らない。織田軍がいかに恐るべき存在であるか、何も知らないのである。
しかし、いまの元親に残された道は、なんとしてでも長宗我部を滅亡の淵《ふち》から救い、家名を残すことであった。
そのためには、このはやり立つ家臣をいかに抑え、いかに軽蔑《けいべつ》をまねくことなく、講和への道を探るかということになる。
いずれにせよ、道はきわめて険しく、ひとたび岐路《きろ》を誤れば、まさに破滅が待っていることになる。
(やむを得ぬ)
元親は、心中ついに一つの決断を下した。