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日本史の叛逆者19

时间: 2019-05-24    进入日语论坛
核心提示:     19 四国|伊予国《いよのくに》において、長宗我部《ちようそかべ》元親は、四万の軍勢を率い、四国征伐の羽柴秀吉《
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 四国|伊予国《いよのくに》において、長宗我部《ちようそかべ》元親は、四万の軍勢を率い、四国征伐の羽柴秀吉《はしばひでよし》の本軍七万五千を迎え撃つために、刻々と北上しつつあった。
 途中、元親は、街道沿いに大きな神社を見つけると、全軍を停止させ、主だった者を社殿の前に集め、太刀《たち》を奉納して、戦勝を祈願した。
 元親は、神殿の階《きざはし》を上がると、重々しい動作で、神殿の鈴を鳴らし、手を合わせて目を閉じ、その場にひざまずいて、一心に祈念《きねん》を凝《こ》らした。
 重臣たちも目を閉じ、頭を下げていたが、しばらくして目を開けたときも、元親は、まだ神殿にぬかずいていた。
(殿も必死なのだ)
 重臣たちは、ますます闘志が湧《わ》き上がってくるのを感じた。
 その元親は、突然あっと叫び、立ち上がると、二、三歩あとずさりし、そして慌てて平伏した。
「殿、いかがなされた?」
「ありがたいことじゃ」
 元親は、頭を下げたまま言った。
「父上。いかがなされたのです?」
 長男の信親《のぶちか》が近づいてきた。元親は、今度は立ち上がって、神殿のほうに向かって、しきりにうなずき、
「ありがたいことじゃ」
 と、ふたたび言った。
 けげんな顔をする家臣一同を前に、元親は振り返って、
「おのれらは、何も見なかったのか?」
 と、言った。
「何をでござるか?」
 家臣たちは、口々に言った。
「いま、神がこの御前《おんまえ》に現れ、お言葉を賜《たまわ》ったではないか。聞こえなかったのか?」
 一同は唖然《あぜん》とした。信親が代表して聞いた。
「父上。神は何をおっしゃったのです?」
「知れたこと。このたびの合戦。汝《なんじ》らの勝利、疑いなしと仰《おお》せられた。ありがたいことじゃ」
 元親は、そう言って、神殿に頭を下げ、
「めでたく勝利の暁《あかつき》には、この社《やしろ》を新しく建て直すことにいたそう。神もお喜びであろう」
 元親は、ふたたび全軍を振り返って、
「聞いてのとおりじゃ。我らが勝利、疑いなし。上方《かみがた》の腐れ武士どもに、我らが負けるはずはない」
 元親は、大声で叫んだ。
 喜んだ兵たちは、いっせいに鬨《とき》の声をあげた。
 一方、秀吉は、すでに元親の動きをつかんでいた。
 策敵《さくてき》(敵の動きを探知すること)は、織田軍のもっとも得意な軍事行動の一つである。
 信長の開運のもととなった桶狭間《おけはざま》の合戦も、的確な策敵行動が、その勝敗を決したと言ってもいい。
 まともにぶつかっては勝ち目のない戦いだったが、今川義元《いまがわよしもと》の本隊がどこにいるかを、すばやく察知したことによって、奇襲攻撃が可能になったのである。
 そのことをよく知っている織田家の将領《しようりよう》たちは、自分たちが今川義元にならないように、常に警戒していた。
 なにしろ織田軍は、京を抑えて以来、どの軍団も大軍と化しつつあったから、敵は味方より少数である。
 したがって、桶狭間のような乾坤一擲《けんこんいつてき》の逆転劇を挑んでくる者が、敵にいることは充分に考えられ、そのために秀吉も、柴田勝家《しばたかついえ》も、滝川一益《たきがわかずます》も、敵の奇襲に対しては、警戒する習慣がついていたのであった。
「長宗我部め。我らと直接、雌雄《しゆう》を決せんとするか」
 軍議の席で、中央の床几《しようぎ》に腰かけた秀吉は、傍《かたわ》らの参謀《さんぼう》役の黒田官兵衛《くろだかんべえ》に笑いかけた。
「田舎《いなか》武士にしては、見上げた心がけと申し上げておきましょう。だが、世間知らずでござりますな。我が軍の中ほどを突破するつもりでござりましょうか」
「おそらくは、その考えであろう。だが、そのようなことができると思っておるのは、田舎者たるゆえんよ」
「筑前《ちくぜん》どの。ぜひ先陣は、この立花宗茂《たちばなむねしげ》にお任せください」
 と、九州攻め以来、秀吉に随従《ずいじゆう》することを命じられている立花宗茂が言った。
 軍の区分けとして、九州勢は主に秀吉、そして小早川隆景《こばやかわたかかげ》をはじめとする中国勢は、弟の羽柴秀長《はしばひでなが》に従う形となっている。
「立花殿。手柄のひとり占めは、よろしからず。このたびは、一働《ひとはたら》き所望《しよもう》したい者どもがおる」
 その声を聞いて、軍議の場にいた島津義弘《しまづよしひろ》が身を乗り出した。
「では、先陣は拙者《せつしや》に?」
 秀吉は、大きくうなずいた。
「奉公の手はじめに一働き所望と、殿下も仰せられておる」
「かしこまった。あの田舎|侍《ざむらい》など、我が島津の釣《つ》り野伏《のぶ》せの陣で撃退してくれましょう」
「ほう、釣り野伏せの陣とな。それは薩摩《さつま》の秘密の陣法であるな」
 秀吉は言った。
「左様《さよう》でござります」
「楽しみだな、立花殿」
 義弘は上機嫌《じようきげん》だった。
 とっておきの攻め方を秀吉に見せるということは、もう二度と敵対しないということの証《あかし》でもあるからだ。
「薩摩の陣法には、我らもさんざん煮え湯を飲まされておりますゆえ」
 と、宗茂は苦笑した。
 大友勢は、いや九州各地の武士たちは、この薩摩の戦法に何度も何度も痛い目に遭っている。
 釣り野伏せとは、いかにも敵に弱いように見せ、敵をおびき出し、痛撃を浴びたとたん逃げ出す。当然、相手は追ってくる。それをまんまと罠《わな》の中に誘い込み、四方に伏せておいた伏兵《ふくへい》が一気に襲いかかるという手段である。
 これで、島津家は、味方に数倍する軍を何度も破ったことがある。
 宗茂は、さんざん痛い目に遭ったから、その手の内はよく知っているが、四国の侍は、それを見るのは初めてのはずである。
「お手並み拝見と参りましょう」
「かしこまった」
 義弘は、すぐに立ち上がって、自陣に向かった。
「敵の先鋒《せんぽう》はだれだ?」
 元親はたずねた。
「丸に十の字の紋《もん》が見えます。おそらく、島津|薩摩守殿《さつまのかみどの》の軍勢でござりましょう」
「島津か。相手にとって不足なし」
 その島津は、先鋒を矢のようにとがらせた突撃陣形で、大将みずからが先頭に立ち、長宗我部の本陣に向かって突っ込んできた。
(田舎侍め。戦い方を知らぬな)
 元親も、島津が用兵に巧みだとの風聞《ふうぶん》を知らぬわけではなかった。しかし、その突撃のやり方を見て、ただの猪武者《いのししむしや》ではないかと侮《あなど》った。
 その侮りが、最後に手痛い打撃を受けることになった。
 元親は、このような場合の常道として、陣を鶴翼《かくよく》にとり、相手を包み込む作戦に出た。突っ込んでくる相手を左右から包み込んでしまい、そして両翼の兵が、敵の背後を遮断《しやだん》する。こうすることによって、敵の先鋒は、長宗我部陣の輪の中に取り残されることになる。
 それをやるつもりで、元親は動いた。
 ところが、島津もさすがにそれと察したか、途中まで来て、慌てて百八十度、方向転換し、もと来た道を逃げ戻りはじめた。
「逃がすな。奴《やつ》こそ大将、島津義弘だ。討ち取ってしまえば、戦《いくさ》は勝ちだぞ」
「父上、拙者にお任せを」
 予備隊の副将格として、父元親に近習《きんじゆ》してきた信親は、絶好の機とみるや、ただちに自軍に属する一千の兵を率いて、あとを追った。
「待て」
 元親は、慌てて言った。
 信親は、大切な跡取りである。このような戦に、突出して戦う必要はない。なぜならば、この戦は、あくまで長宗我部が生き残るために、その強さを見せるのが目的だからだ。
 だが、信親は聞かなかった。若さゆえのはやりもあった。そして、二度と帰らぬ覚悟もあった。九州にこの人ありと知られた島津義弘を討ち取るならば、本望だと思ったのである。
 信親は、大男である父をさらに超えた身長六|尺《しやく》五寸(百九十五センチ)の大兵《だいひよう》であった。
 その信親に、命を捧《ささ》げて悔いなしと思う一千の兵が、信親に続いて義弘を追った。
 だが、それは義弘の巧みな罠《わな》だった。まるで魔術を見るように、義弘を追った信親勢一千は、いつのまにか退路を遮断されてしまった。
(しまった、伏兵だ)
 気づいたときは遅かった。
 まず、四方八方から、鉄砲が雨あられと浴びせられた。
 島津家の装備している鉄砲は、それほど多くない。だが、正面から撃たれるならともかく、退路を遮断されたところを、いきなり四方から撃ち込まれるのである。
 その被害は甚大《じんだい》だった。たちまち、二百から三百に近い兵が死に、あるいは深手《ふかで》を負い、戦闘不能になった。
「いかん、引き返せ」
 信親は、そう命令を下した。
 だがそのとき、息を呑《の》むようなできごとが起こった。あたりの草むらから、岩陰から、そして森の中から、いったいどこに隠れていたかと思うほどの多くの兵が、信親隊を取り囲んでいることに気づいたのである。
「敵の副将、長宗我部信親殿とお見受けする。拙者は、島津家家老・新納忠元《にいろただもと》でござる。もはや、逃れる道はあり申さん。いさぎよく降参されてはいかがだ?」
「なに、降参だと?」
 信親は、一気に頭に血がのぼった。
「我ら、土佐《とさ》侍をなめる気か?」
 信親は、この瞬間、死を決意した。たとえ、死んでもいい。薩摩に、そして上方侍たちに、土佐の侍がいかに恐るべき者であるか、思い知らせるしかない。
「島津薩摩守にもの申す」
 信親は、馬上から大音声《だいおんじよう》で叫んだ。
「貴殿は、よほど我らが怖いとみえる。こそこそ隠れて、鉄砲を放つなど、武士のやることではないわ。おのれが本当に九州一の弓取りと称するならば、出てきて尋常《じんじよう》に勝負しろ。我が兵は、敵に後ろを見せる卑怯者《ひきようもの》などは、一人もおらぬぞ」
「よくぞ申した。ならば、お相手いたそう」
 義弘も、兵たちの前に馬で進み出た。
「では、これからは、いっさい弓や鉄砲は使わぬ。土佐の長宗我部の兵《つわもの》が、その口ほどに働く者かどうか、見せていただこう」
 義弘は馬上で、配《はい》を握り直すと、
「かかれ」
 と、それを振り上げた。薩摩兵が、土佐兵に殺到した。
 信親は、馬上で腰の名刀|左文字則近《さもんじのりちか》を抜いた。
 これはかつて、織田家と長宗我部家が友好関係にあったときに、信長から元服《げんぷく》の祝いとして贈られたものである。そもそも、信親の「信」も、信長の「信」をもらったのである。
 ただし、目上の人間から名をもらう場合、目上の人の下の文字をもらい、それを上につけるというのが普通のやり方だった。
 たとえば、足利義「輝」に対し上杉「輝」虎といった形だが、長宗我部家は織田家の家来ではないので、あえて長親とせず上の「信」の字をもらって信親としたのである。
 だが、それもいまは昔のことだった。織田軍は敵として、この薩摩兵の向こうに君臨《くんりん》している。
「戦え。一歩も引くな」
 と、信親は叫んだ。
 実際、一歩も引けるような状態ではなかった。信親隊は、周りをびっしりと薩摩兵に囲まれているのである。
 当然、土佐兵は、馬上の信親を守るために円陣を組み、槍《やり》を突き出し、敵に抵抗した。
 だが、それでもその輪をくぐって、信親に殺到する者があった。信親は馬上から、それを左文字の名刀を振るって、片《かた》っ端《ぱし》からなぎ倒した。
 なにしろ、敵は具足《ぐそく》を身に着けている。その上から斬《き》るのだから、致命傷を与えることは難しい。殺さぬまでも、よほどうまく斬らねば、敵を戦闘不能にすることはできない。
 だが、信親は武芸の達人だった。少なくとも殺到する敵十人に手傷を負わせ、撃退した。だが、そのことで左文字は歯こぼれし、ぼろぼろになった。
「くそっ、これで終わりか」
 信親は、ついに叫んだ。
「いよいよ最期《さいご》だ。者ども、ともに地獄へ参ろうぞ」
 信親の叫びに答え、あちこちから、
「御供《おんとも》、御供」
 という声が、つぎつぎにあがった。
 それは、攻めている島津義弘を戦慄《せんりつ》せしめるほど、壮烈な光景だった。
(だが、もつまい。このまま討つしかなくなる)
 義弘はにわかに、この信親という武士を討つのが惜しくなってきた。だが、相手は決死の覚悟で踏みとどまって戦っているのである。いまさら、手をゆるめたところで、自害するだけのことだろう。
 その父の元親も、手をこまねいていたわけではなかった。なんとか島津の鉄の包囲網を切り破り、信親を逃がそうと試みるのだが、薩摩の陣形は巧みであった。
 内側に向かって信親隊を攻め、外側に向かっては槍衾《やりぶすま》ができ、容易に外の兵を近づけない。つまり、輪の中で、一方が内を向き、そして一方が背中合わせに外を向くという、独特の形で、敵がこの輪を破るのを防ぎつつ、中の敵兵を殲滅《せんめつ》しようとしているのである。
「あれが釣り野伏せというものか?」
 秀吉は、宗茂に聞いた。九州の陣で味方の小早川隆景がこの形で攻められたことがあったが、そのときは立花宗茂がうまく島津の裏をかいた。うまく決まった形を見るのは秀吉も初めてだった。
「左様。ああしておいて、敵の大将を引きずり込み、その旗本とともに討ち取って、敵を敗走させる薩摩得意の戦法でござる」
「恐るべきものだな」
 秀吉は言った。
 たとえ、敵が数万の大軍であろうとも、それを指揮する大将は、ただ一人。そして、その大将を守る旗本も、全体の軍勢に比べれば、ごくわずかである。
 それを巧みに戦場に引きずり出し、囲い込み、殲滅することによって、薩摩は勝ちを取るのだ。
(宗茂は、蛇《へび》の頭を潰《つぶ》すと申していたが、まさにそのとおりだな。頭を潰してしまえば、首から下にいくら長い身があっても、なんの役にも立たぬわ)
 いまや、その島津勢は、敵ではなく味方なのだ。秀吉は、そのことをいまこそ天に感謝していた。
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