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日本史の叛逆者21

时间: 2019-05-24    进入日语论坛
核心提示:     21 小田原《おだわら》城において、当主|北条氏政《ほうじよううじまさ》以下、重臣たちは、勅使勧修寺晴豊《ちよく
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 小田原《おだわら》城において、当主|北条氏政《ほうじよううじまさ》以下、重臣たちは、勅使勧修寺晴豊《ちよくしかじゆうじはるとよ》が持ち出し、吹っかけてきた、相模《さがみ》一国をよこせという過大な要求をどのように扱うか、鳩首《きゆうしゆ》協議をしていた。
 北条家の談義は、当主氏政が優柔不断《ゆうじゆうふだん》な上に、その弟も多く、有力な親族や老臣たちも口を出すため、なかなかまとまらないので定評があった。俗に、これを小田原評定《おだわらひようじよう》と言う。そういう揶揄《やゆ》する言葉すらできるような長談義なのである。
「それにしても、馬鹿《ばか》にしておる」
 氏政の弟|氏照《うじてる》は、憤慨《ふんがい》していた。
「伊豆《いず》ならばまだしも、相模を渡せとは、いったい何事ぞ。この北条に、飢え死にせよというのか」
「そうではござりますまい。おそらく、我らを憤激《ふんげき》させ、兵を挙げさせた上で、滅ぼす魂胆《こんたん》かと」
 宿老《しゆくろう》筆頭とでも言うべき、松田憲秀《まつだのりひで》が言った。これに対して、その伝言を伝えた氏規《うじのり》は、沈黙していた。
 氏規には、都人《みやこびと》の真意はわかる。相模をよこせというのは、最初からそれを望んでいるのではない。初めから伊豆を望めば、話は、伊豆以下の話になってしまう。そこで、まず相模を持ち出して相手の度肝《どぎも》を抜いた上で、おもむろに話を切りだす。それがやり方だということを、心得ていたのである。
 ただし、そのことをいつ口にすべきか。その機を計っていたのである。
(勧修寺殿の真意は、伊豆一国をすべてよこせにある)
 だが、そのことをいま口にすることは、かえって一同を憤激させ、戦《いくさ》の道のもとになりかねぬ。
(さて、どうするべきか)
 その懸念《けねん》を吹き飛ばしたのは、やはり、長老の北条|綱成《つなしげ》改め入道道感《にゆうどうどうかん》である。
「御屋形《おやかた》様、お聞きくだされ」
 と、道感は進み出た。
「ほほう、長老は何か、名案があるのか」
 氏政の問いに、道感は答えた。
「ござります」
「それは何か?」
「武蔵《むさし》一国を譲るのでござる」
 道感は、重々しい声で言った。
 一同は驚いて、道感の顔を見た。
 武蔵一国、それは、たしかに北条の領土である。しかしながら、武蔵国というのは、領土であるということが意識されないほどの未開の地であった。
 現に、織田《おだ》との交渉でも、織田側は相模、伊豆とは口にしても、武蔵などとは口にしない。武蔵という国は、昔から野蛮《やばん》の地の代名詞でもある。
 しかも、本能寺《ほんのうじ》の変に乗じて、北条は、武蔵国|八王子《はちおうじ》城にあった北条氏照を総大将として、信長側の関東管領《かんとうかんれい》として赴任してきた滝川一益《たきがわかずます》を討つべく、上野国《こうずけのくに》に攻め入った。
 最初のうちは、本能寺の変報で意気消沈《いきしようちん》していた一益軍が、信長は生きているということで立ち直り、逆に、北条軍は織田軍得意の鉄砲の戦術に、さんざん撃ち破られ、大敗を喫《きつ》したのである。
 その結果、武蔵半国、つまり北半分のもっとも肥沃《ひよく》な地帯は、織田軍に奪われる形になっていたのである。残りの南半国、とくに江戸《えど》という村のあたりは、だれも欲しがらない、いわば荒蕪《こうぶ》の地である。
 そのような地を信長に差し出すといっても、むしろ、その憤激を招くだけではないかというのが、一同の感想であった。
「信長の使者に、江戸を見せるのでござる。おそらく信長は、江戸に飛びつくはず。あのような土地は、あやつめの好みに最適の地と考えます」
 一同は驚いた。氏政が代表して言った。
「あの、山ばかりで何もない江戸がか?」
 現在の東京(江戸)を見慣れている読者は、北条一族のこの問答を意外に思うかもしれない。
 だが、江戸はこの時代まで、平野の中央に神田山《かんだやま》という山がそびえ立ち、そのあたりを小さな小山が囲むという形で、広い平地などはなかったのである。
 それが、なぜ今日のように発展したかといえば、本能寺の変後、天下を取った秀吉が、肥沃な駿河《するが》(静岡県)を家康《いえやす》から取り上げて、この地に封じ込めたからである。家康は、仕方なく神田山を削《けず》り、それで海を埋め立て、今日のような広大な東京をつくったのである。
 ちなみに現在、神田山は神田台《かんだだい》という地名になって残っており、東京に|市ヶ谷台《いちがやだい》、駿河台《するがだい》といった台地が多いのも、実はそのためである。また、その取り除いた土を使って埋め立てた土地のことを築地《つきじ》という。築地というのは、文字どおり、築いた土地という意味である。中央区に築地という地名が、いまもある。
 このような大規模な土木工事は、戦国時代も終わりに近づき、家康のような大大名が出たからこそ、初めて可能になったことであり、普通の戦国大名クラスでは、そのようなことは、とうてい考えつきもしなかったし、たとえ考えついても、実行できるようなプロジェクトではなかった。
 そうだったからこそ北条は、武蔵を制覇したのちも、決して小田原から遷都《せんと》しようとしなかったし、秀吉も家康を困らせる意味で、江戸に封じたのである。つまり、江戸というのは、当時の人間にとっては、それだけ価値のない、どうしようもない土地だったのである。
「ここは氏規殿に、使いに立ってもらうべきだと存ずる」
「拙者《せつしや》が?」
 氏規は、意外な顔をして道感を見た。
「都へ行け、とでも仰《おお》せられるか?」
 道感は、首を振った。
「そうではない。そちの幼なじみの徳川《とくがわ》殿に会い、一度、江戸というところを見てもらうように頼み込むのだ。おそらく江戸を見れば、信長の心は変わるはず」
「左様《さよう》でござりましょうか」
 一同は、まだ首をひねっていた。本当に信長は、武蔵国江戸が気に入るのだろうか。
 そこで道感は、膝《ひざ》を乗り出して氏規に言った。
「おことが遠江《とおとうみ》に行き、徳川殿を口説いてくれれば、なんとかなる」
「拙者が、徳川殿を?」
 氏規は、意外な言葉に目を丸くした。
「何を驚く。おことと徳川殿は、竹馬《ちくば》の友ではないか」
「それはそうでござるが」
 氏規は一瞬、道感は歳《とし》をとって耄碌《もうろく》したのではないかとすら思った。
 たしかに、少年時代の友人である氏規が訪ねていけば、家康は会うことは会ってくれるだろう。だが、家康とて信長の忠実な同盟者、いや、いまはむしろ家臣同様である。信長の不利益になることなら、受けるはずがない。なによりも、その激しい怒りを恐れ、何事も聞かずにすまそうとするのではないか。
 道感は、その胸中を察して、
「このおいぼれの言うことを、信じてくだされ。とにかく、一国も早く遠州浜松《えんしゆうはままつ》城へ行ってはくれぬか」
「されど、勅使勧修寺殿はどうするのです?」
「なに、公家《くげ》どもには、女でもあてがい、酒を飲ませておけばよい。だが、それほど長くは待てぬであろう。おわかりか、氏規殿」
「わかり申した」
 氏規は、きっぱりとうなずいた。
 遠江とは、都に近い湖(近江《おうみ》)に対して、遠い湖(浜名《はまな》湖)をさす。浜名湖のほとりに建てられた浜松城は、東海道の要衝《ようしよう》にあり、海と湖と背後の山に囲まれた、風光絶佳《ふうこうぜつか》の美しい城であった。
 初め家康は、三河国岡崎《みかわのくにおかざき》城を本拠としていたが、岡崎は海から遠く離れ、山に近く、平野も狭く、大規模な城下町を営むには、あまりにも小さすぎた。
 そのために、家康は今川《いまがわ》家が滅びたあと、その領土であった遠江浜松に進出し、ここで同じく今川から駿河を奪った武田《たけだ》と、血で血を洗う戦をくりひろげていたのであった。そのときの国境は、遠江と駿河のあいだを流れる大井《おおい》川であったが、武田亡きいま、家康は駿府《すんぷ》(現在の静岡市)に本拠を移す決意を固めていた。
(いずれ、小田原攻めのご沙汰《さた》があろう。されば、この浜松よりも、小田原に近い駿府のほうが有利だ)
 それだけではない。駿府には格別の思い出がある。それは、屈辱《くつじよく》をともなった懐かしさとでも言おうか。
 もと三河の国主の子として生まれた家康だが、若いころに祖父そして父が、つぎつぎに家来に暗殺されるという不運に遭《あ》い、幼くして家を継がねばならなくなった。ところが、この弱肉強食の戦国の世に、そのような弱体化した国を放《ほう》っておくはずがない。
 一度は、尾張《おわり》の織田|信秀《のぶひで》(信長の父)のところに人質として送られたのだが、紆余曲折《うよきよくせつ》の末、当時、近隣の中ではもっとも大国であった今川家に、人質として送られることになったのだ。人質といっても、当主である。きわめて異例のことである。普通は、当主の子供か弟が送られるものだったが、家康自身が若く、子供などがいなかったために、彼自身が人質とされるはめに陥《おちい》ったのだ。
 そのために三河|松平《まつだいら》家は、当主を今川家に抑えられた形となった。このため、今川家が戦争をするたびに、松平兵は、その最前線に立たされ、戦死率がもっとも高い部隊となり、そして無事、戦いが終わって故郷に帰れば、今川から派遣されてきた情け容赦のない代官の苛斂誅求《かれんちゆうきゆう》に遭い、地獄の苦しみをなめる時代が長く続いたのである。
 その間、家康は、この駿府に留《と》めおかれ、そこで、あらゆることを学んだ。学問も、人の情けも、人の恨みも、そして男と女の道も。
 人質と見下して、家康につらく当たる人間もいたが、人として分けへだてなく接してくれた人間もいた。家康を文字どおり、いじめる者もいれば、逆に好意以上のものを見せ、やさしくいたわってくれる人もいた。
 最初の妻、築山殿《つきやまどの》は、今川家の重臣の姫である。その年上の姫を義元《よしもと》から押しつけられる形で、家康は娶《めと》ったのだが、この正妻とのあいだには、信康《のぶやす》という子が生まれた。
 その築山殿も信康も、いまは亡《な》い。
 桶狭間《おけはざま》の合戦で、今川義元が死んだときに、家康は最大の決断をした。今川家を捨てて、織田家につくということである。その決断をしたがゆえに、松平家に残っていた今川色は、すべて一掃されることになった。家康自身、それまで義元の「元」の字をもらって、松平元康と名乗っていたのを、まず「元」の字を捨てて家康と改め、さらに数年後には姓まで変えて、徳川家康としたのである。
 しかし、これを不満に思った築山殿は、家康を見限り、こともあろうに武田と通じようとした。それには、武田の密偵《みつてい》の巧みな働きかけもあったのだが、この事実を知った信長は激怒し、築山殿と、その産んだ子である信康の処置を命じた。
 信康は、この件に関しては無実であった。だが、信長の怒りはおさまらぬため、家康は結局、泣く泣く築山殿を殺させた上、信康には切腹《せつぷく》を命じなければならなかった。
 そういう苦い思い出も、すべて駿府時代のことである。
 また、竹馬《ちくば》の友もいた。とくに親しかったのは、家康と同じに北条家から人質に送られてきていた北条家の五男坊、氏規である。
 尾張での人質時代には、そこの当主の息子信長に対し、ちょうど八歳年長の兄に接するような形で遊んだ。これに対して、駿府人質時代の友である氏規は三歳年下で、弟のようなつもりで接したことがある。
 思い出のすべてが、駿府に詰まっている。その駿府に、勝利者として、新しい君主として赴任することは、単に軍事上の有利さというほかに、家康の心をくすぐる何かがあった。
「殿。小田原から、北条|美濃守《みののかみ》殿が参られましたぞ」
 重臣の酒井忠次《さかいただつぐ》が突然、現れて言った。
「なに、氏規が」
 意外なことであった。いま駿府のことを思いふけっていた、この折も折、氏規が訪ねてくるとは、なんということだろう。
 しかし、家康は決して喜びはしなかった。氏規の目的は、わかっている。今回の織田と北条との和平交渉において、信長の同盟者である家康に、口添えをしてもらおうというのだろう。
 しかし、それはできぬ相談である。本能寺以来、信長の考えは大きく変わったという話も聞いてはいるが、あの自分のやり方に口を出すことをとことん嫌う専制君主に、何か差し出がましいことを言えば、睨《にら》まれるのは家康である。
 氏規には、久しぶりには会いたいが、だが話を聞くことはできない。
(だが、門前払《もんぜんばら》いするわけにもいかぬ)
 と、家康は、とりあえず氏規と会った。
「おう。助五郎《すけごろう》殿か。懐かしいのう」
「三河守《みかわのかみ》様も、お元気そうでなにより」
「これこれ、そのような堅苦しい挨拶《あいさつ》は抜きじゃ。まず、酒を用意したゆえ、一献《いつこん》、傾けていかれよ」
「いえ。酒などとは、とんでもない」
 氏規は、慌てて言った。これから話すことすべて、酒の上の話にされてしまっては、たまらない。
「北条氏規、一世一代《いつせいいちだい》のお願いがあって、まいりました」
 氏規は、居ずまいを正して言った。
「聞かぬぞ、聞かぬぞ」
 家康は、あえて笑みを浮かべ、冗談事《じようだんごと》のように言った。
「そなたとは、友垣《ともがき》じゃ。友のためを思うて、なしてやりたいこともないとはいわぬ。だが、いま、わしは三万の家臣と、それに倍する家族を養う身じゃ。そう簡単に聞いてやれることと、聞いてやれぬことがある。ここは、昔の友が酒を酌み交わし、そして左右に別れた。それでよいではないか」
「いえ。おっしゃることは、ようわかります。しかしながら、これは氏規の一存でもなく、また当主氏政の考えでもござりません」
「なに、北条殿の考えでもないと?」
「入道道感殿の知恵なのでござります。まずは、お聞きくださいませぬか。その上で、ご判断くだされたく存じます」
「うーん、道感殿の知恵か」
 それを聞いて、家康も少し考えを改めた。
 いまの北条家の当主氏政は、先代|氏康《うじやす》に似ても似つかない凡主《ぼんしゆ》である。とくに代替わりしてからは、武蔵でも下総《しもうさ》でも、それまで北条家がその国を制する勢いであったのに、上杉や織田に奪われ、いまや完全に支配していると言えるのは、相模、伊豆の二国のみである。それだからこそ信長も、相模、伊豆の二国を交渉の場に持ち出してきたのだ。
 逆に言えば、北条の支配権が完全におよんでいる国は、この二カ国しかないのである。かつての北条氏康が健在であったころは、三カ国どころか五カ国をも制する勢いであったのに。その屋台骨《やたいぼね》を、かろうじて支えているのが、先代からの長老とも言うべき北条綱成改め道感入道であった。
 道感の知恵というならば、家康も聞く耳はあった。
 氏規は、一部始終を話した。だが、家康の表情には、それを聞いても納得の色は浮かばなかった。
「武蔵国の江戸とは、わしも見たことがないが、そんなによき土地なのか」
「はい。そのように道感殿は申されております」
「だが、そのような土地、はたして本当に信長公のお気に召すであろうか」
「とにかく一度、見ていただきたい。信長公ご自身は無理でしょうが、信長公の目となり耳となるご家来衆は、何人かいるはず。そのほうに、ぜひ見ていただき、その上で、もしお気に入らないことがあれば、相模でも伊豆でも進ぜましょうというのが、道感入道の口上《こうじよう》でござります」
「ほう。道感殿が、そこまで申したのか。それは、もちろん当主氏政殿も承知のことであるな」
「はい。この氏規、子供の使いではござりません」
「わかった。至急、殿下《でんか》に言上《ごんじよう》いたすことにしよう」
「殿下」という聞き慣れぬ言葉に、氏規は首をかしげた。家康は、笑って言った。
「信長公は、いまや関白《かんぱく》だ。関白の敬称は『殿下』と決まっておる」
 そう言って、家康は苦笑した。
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