北条《ほうじよう》家の提案は、ただちに家康《いえやす》を通じて、京《きよう》の信長《のぶなが》のもとに伝えられた。
「江戸《えど》?」
信長は、意外なその地名に眉《まゆ》をひそめた。
「殿下《でんか》。北条は何か、はぐらかそうとしておるのでござりましょうか」
近くにいた森蘭丸《もりらんまる》が言った。
「わからぬ」
信長は首を振った。
本能寺以前《ほんのうじいぜん》の信長ならば、癇癪《かんしやく》を起こすだけだったかもしれぬ。
しかし信長は、とりあえず相手の言うことを聞いてみようという気持ちになっていた。
もちろん、それが本当にはぐらかしであった場合、信長の怒りは倍加するのだ。
「取り急ぎ、気の利《き》いたる者に、その武蔵国《むさしのくに》江戸とやらを検分させねばならぬ。はて、だれがよいか」
「拙者《せつしや》が参《まい》りましょうか」
蘭丸が言った。
信長は、ニヤリと笑って首を振って、
「お蘭《らん》よ。そちには、そのような土地の善《よ》し悪《あ》しを見抜く才があるのか」
「ござります」
やや、むっとして蘭丸は言い返した。
「そうかな」
信長は、蘭丸の意気込みをどのようになだめていいものか、少しとまどっていた。
人間には、さまざまな才能がある。
そして、土地を見、その発展性を検分するのも一つの才能である。
もちろん、学ぶことはできる。
土地の見方というものは、古くから兵法の、そして陰陽道《おんみようどう》の一環《いつかん》として伝えられている。いわゆる風水《ふうすい》というものだ。
しかしながら、その風水だけでは単なる迷信にすぎず、土地を判断する材料としては、心もとない。
それよりも、むしろ土木建築者の目で、城はどのように建てるか、館《やかた》はどうするか、庶民の住まいはどうするか、水は確保できるか、交通の便はよいかというようなことを、総合的に判断する目を持たねばならない。
それができるのは、実は信長の麾下《きか》でも、ほんのわずかの人間だけであった。
その筆頭は、羽柴筑前守秀吉《はしばちくぜんのかみひでよし》であろうが、秀吉はいま四国|戦線《せんせん》にいる。
だとすれば、秀吉に匹敵《ひつてき》する目を持つ男は一人しかいない。
「五郎左《ごろうざ》を呼べ」
信長は言った。
丹羽長秀《にわながひで》のことである。
長秀は現在、大坂《おおさか》に新築中の新大坂城の普請奉行《ふしんぶぎよう》として、日々、汗を流している。
その長秀は、信長の急な呼び出しによって、取るものも取りあえず、京へ駆けつけた。
信長は本能寺にいる。
「殿下、何事でござりましょうか?」
「五郎左、そちは関東へ行け。そしてまず、武蔵国|八王子《はちおうじ》城の一益《かずます》を訪ねよ」
「は、滝川《たきがわ》殿を」
「そうだ。そこに北条からの使者が来ておるはず。その道案内によって、武蔵国江戸へ参れ」
「はて、江戸。そのようなところがござりましたかな?」
長秀は、無骨者《ぶこつもの》ぞろいの織田《おだ》家の中では、相当、教養のある人間だった。
その長秀にして、武蔵国江戸という地名は初めて聞く名前であった。
信長は、北条からの提案を伝えた。
「では、その地がはたして大城《おおじろ》を築くに足る土地であるかどうか、検分いたすのでござるな」
「そうだ。五郎左、よいか、余《よ》の目でものを見よ」
と、信長は言った。
「ははあ」
長秀はかしこまった。
余の目でというのは、織田軍団の代表者、いや、天下人《てんかびと》としての信長の目でものを見よということだ。
それがどういう意味を持つことなのか、長秀には、よくわかっていた。
「殿下、お願いがござります」
突如《とつじよ》、傍《かたわ》らにいた蘭丸が頭を下げた。
「なんじゃ?」
「拙者、ぜひとも丹羽殿に同道いたしたく、お許しを願いとう存じます」
「お蘭よ。そちはそちで、別の役目があるではないか。余の身のまわりにいて、さまざまなことを務めてもらわねばならぬ」
信長が蘭丸に期待しているのは、まず第一に、秘書官としての任務であった。
これは、機転が利き、融通《ゆうずう》が利き、場合によっては、それこそ信長の目でものを見なければ仕事がうまくいかない。
そういう得がたい才能を持っているのは、信長の周辺では蘭丸しかいないのである。
もちろん、蘭丸は武勇にも長《た》けている。
しかし、一将校としての蘭丸よりは、有能な秘書官としての蘭丸を、信長は買っていた。
だからこそ、いまでも、お蘭、お蘭と呼んで、毎日、仕事をさせているのである。
「しかし、この件については、曲げてご承諾をいただきたくお願いいたします」
蘭丸は、ふたたび頭を下げた。
信長は、負けず嫌いの蘭丸の心が手に取るようにわかった。
要するに、信長に新しい地を検分する目がないと思われていることが、悔しくてたまらないのである。
この際、長秀に同行し、そのことを一から学ぼうというのであろう。
(たしかに蘭丸は、ここにおいても必要だが、長い目で見れば、長秀に同行させ、学ばせたほうがよいかもしれぬ)
織田家は、いまや天下を統一しつつある。
天下統一の暁《あかつき》には、長秀のような人材も何人かいる。
いつまでも、長秀だけに頼ってはいられない。
「よかろう」
信長は、ついに許した。
「では、しっかりと学んでまいれよ。どうせなら、一益の目も学んでおくことだ」
信長は言った。
「滝川殿の目?」
蘭丸には、そのとき信長の言った意味がよくわからなかった。