粟津で、大友方の将軍犬養連五十君と谷直塩手を処刑した後、余勢をかって男依の軍団は大津京へ入ったのである。
既に大友方の軍団はすべて壊滅していた。
大友の側近である左大臣|蘇我赤兄《そがのあかえ》、右大臣|中臣金《なかとみのかね》ら、重臣はことごとく捕われた。
男依は信頼できる部下を数人引き連れ、兵火にかかった大津京跡を検分した。
ただ一つ気になっていたことが、無事片付いたのである。それは大津京を滅ぼしたことではない。
「男依——」
名を呼ばれて、男依は急いで剣をはずすと、大地に額づいた。
そこに現われたのは、数人の侍女に囲まれた白衣の若い女性である。
大友の帝の后で、そして大海人皇子の娘の十市《とおちの》皇女《ひめみこ》である。
「皇女様、よくぞ御無事で」
男依が最も気にかかっていたのは、このことである。
大海人に無事助け出すよう厳命されていた。
だが、それだけではない。
「男依、戦いは勝ったのですね」
十市は、まるで石のように生気のない白い顔で、聞き取れないほどの低い声で言った。
「はい」
男依はおそるおそる十市の顔を見た。
(ああ、おやつれになった)
男依は痛ましさに言葉を失った。
父と夫が生死をかけて争ったのである。
その争いに際し、皇女は、最後は父に味方した。
「わが君はいかがなされたであろう」
「——」
男依は、ますます返す言葉がない。
その「わが君」、大友の帝を討たねばならないのだ。
「そなたが、帝のお命を奪おうとしていることは、わかっています」
十市は、まるで他人事のような口調で、
「でも、何とか異国《とつくに》へでもお逃がせすることはできぬのであろうか」
男依も覚悟を決める他はなかった。
「なりませぬ」
「——」
「帝が、百済《くだら》へでも渡られることになれば、それこそ一大事でございます。この国が二つに割れてしまいます」
十市は目をかっと見開いて、男依をにらんだ。
「——だから、お命を奪う、と申すのか」
「はい。これは、お父上の御命令でございます」
「それにしても——」
と、十市が何か言いかけた時、興奮した伝令が男依のもとへ駆け込んできた。
そして、そのまま男依の許可も得ずに、叫んだ。
「帝の御首級、ただいま物部麻呂殿が持参なされました」
「たわけ者!」
男依は厳しく叱責した。
「控えるがよい、皇女様の御前であるぞ」
そう言われた伝令は、初めて十市の存在に気付き、あわてて平伏した。
だが、もう手遅れだった。
十市は、みるみる血の気を失い、その場に崩れ落ちた。
「皇女様」
侍女があわてて支えるところへ、男依も立ち上がって、
「急いで、お移し申せ。あちらに焼け落ちておらぬ建物がある」
男依は部下に命じて案内させた。
そして十市が支えられて、その場を去ると、地面に這いつくばっている伝令に声をかけた。
「帝の御首級はいずこじゃ?」
「はっ、あちらに、御案内致します」
伝令は先に立って歩き始めた。
かつての大極殿の裏方に、麻呂は悄然と立っていた。
男依が来ると、あわてて平伏した。
「帝の舎人頭ともあろう御方が、そのようになさることはあるまい」
男依は吐き捨てるように言った。
麻呂は肩をぴくりと震わせたが、何も言い返さず、ただうつむいている。
首は、地面の土を少し盛り上げたところに、無造作に置かれていた。
(おいたわしや)
男依は涙を禁じ得なかった。
その顔は苦しみの表情に満ちている。
恨みよりも、痛みが激しかったのだろうか。
「麻呂殿、まさか、そなたが帝を討ったのではあるまいな」
「滅相もない」
麻呂は顔を上げて、泣きそうな表情で、
「帝は、御井の裏山で自ら縊《くび》られたのだ。わしは、その首を運んだまでのこと」
「主の首を斬り取るとは、いかなる心地がするものか」
「将軍!」
麻呂は、今度はにらみつけるように、
「わしとて、かようなことはしたくはなかった。だが、そうすれば、妻も一族も助けると、口車に乗せられてな」
男依はその話に興味を持った。
「誰かな、その口車の主は?」
「それは——」
「将軍、それは、このわしのことだ」
背後から押し殺したような声がした。
男依はびくっとして振り返った。
いつの間にか虫麻呂がそこにいた。
「おぬしか」
男依はあまりいい気持ちがしなかった。
この虫麻呂という男、何かというと人の背後に回る癖がある。
(いやな男だ)
大海人皇子の忠実な犬であることは、よくわかっている。男依自身も皇子には忠誠を誓っている。しかし、どうもこの男を仲間と考えたくはない。
だが、虫麻呂はそんな男依の胸中を知ってか知らずか、
「将軍、皇子《みこ》様の御下知を伝える」
虫麻呂は立ち上がった。
逆に男依の方がその場に跪《ひざまず》き、配下の兵士もこれにならった。
それを見て麻呂も、のろのろとした動作で同じように跪いた。
「大友の、——皇子の首を取り、本陣まで持参せよ、とのお言いつけだ」
虫麻呂は、もう大友のことを帝とは呼ばなかった。
「なんと」
男依は驚いて顔をあげた。
「首を取れとは、皇子様の御指示か」
虫麻呂はうなずいて、
「このたびは首が要《い》る。世の変ったことを民に知らしめねばならぬ、そのように仰せられたのだ」
「——」
「これは皇子様の御指示ではないが、この際、首を先頭に高々とかかげ、不破の関まで戻られるのがよかろう。それが皇子様の御心にかなうというもの。また、この麻呂殿の手柄はただちに御報告せねばなるまいな」
「おぬしの指図は受けぬ。わが君は皇子様ただ一人——」
男依は憤然として立ち上がった。
虫麻呂は別に怒りもせず、
「では、確かに伝えましたぞ」
と、それだけ言うと、その場から走り去った。
(犬か、犬の足は早い)
男依は視線を大友の首に戻した。
(そこまでせねばならぬか)
この首を、軍の先頭にかかげ、美濃国まで凱旋《がいせん》せねばならぬのか。
(やむを得ぬ)
人の道に反することかもしれぬ。
しかし、大海人が多分そこまで望んでいるだろうことは、男依にもよくわかっていた。
(許されい、大友の帝、もとはと言えば、御父君《おんちちぎみ》が、お悪いのです)
男依は兵士に命じて、大友の首を白絹に包ませた。