飛鳥の原に春が来ていた。
中大兄《なかのおおえ》皇子は、わずかな供を連れて、倭《やまと》京の近郊にある三輪山の麓《ふもと》の余豊璋《よほうしよう》の邸《やしき》を訪ねていた。
豊璋は百済《くだら》の王族だが、日本と百済の友好のきずなをより固いものにするために、子供の頃から家臣と共に来日している。
中大兄と豊璋は親しい友でもあった。ともに王族同士ということで、分け隔てなく付き合えた。
日本人同士ではこうはいかない。
「王子《おうじ》、また来ましたぞ」
馬から降りると、中大兄は、迎えに出た豊璋に声をかけた。
「これは皇子《みこ》、よういらせられた」
「そなたの顔が見とうなっての」
「お目当ては、また蜂の蜜でございましょう」
豊璋は笑った。
つられて中大兄も笑みを浮かべ、
「図星だな」
と、手綱を豊璋の家の者に渡した。
邸は、あちこちを赤く塗った唐風の建物である。
大広間に入って、中大兄は食卓の前の椅子に座った。
豊璋も向い合わせに座った。
「蜜を持って参れ」
召使が一礼して取りに行った。
ここは日本で唯一、養蜂の技術を伝えているところである。邸の裏に一面の花畑があり、蜂の巣箱が置かれている。
蜂を飼い、蜜を集める、そのことは百済人だけが出来る特技であった。だから、この国で、蜂蜜を食することのできるのは、この余豊璋の館だけであり、それは途方もない贅沢でもあった。
中大兄はここが唯一、心の休まる場所だった。
何でも話せる友は、豊璋しかいないのである。
多くの友を求めるには、中大兄の身分は高過ぎた。彼の屋敷には大勢の人がいるが、それは全部家臣に過ぎない。
では、身分を同じくする他の皇子と友人になれるかといえば、そんなことは有り得ない。
母を同じくする兄弟ですら、皇位継承という将来の前に立てば、すべて敵である。
ましてや、母の違う兄弟など、いつ寝首を掻かれるかわからぬほどのものだった。
豊璋は隣国百済の王子である。
身分は同格だが、日本の皇位継承には何の権利もない。
だからこそ気楽な話ができるのだ。
大きな玻璃の碗に山盛りの蜜が運ばれてきた。
中大兄は歓声を上げて、次から次へと喉に流し込んだ。
「あとで少しお届けいたしましょう」
「少しと言わず、もっとくれ。これを食べていると世の憂さを忘れる」
中大兄は珍しく本音を吐いた。
平素、愚痴らしいことは一切口にせぬ男である。
「確かに、蜜は疲れによく、若返りの妙薬とも言われますが、食べ過ぎては何事もよろしくございません。過ぎたるは猶及《なおおよ》ばざるがごとし、と、論語にも申します」
滞日十数年ともなれば、日本語にも慣れる。豊璋の言葉は淀みなかった。
これに対して、中大兄は中国語で同じ論語の一節を諳《そらん》じてみせた。
「なかなか上達されましたな」
豊璋は感心した。
日本人の皇族で、朝鮮語はともかく中国語まで習っている者はいない。
通訳を使えば充分だし、大陸との交流もそれほどないからだ。
しかし、ひとり中大兄だけは、常に海の向うの情勢に気を配っていた。
「王子、人払いをしてくれぬか」
「はい」
豊璋は理由は聞かずに言われた通りにした。
「——お悩みごとがありますね」
「わかるか」
中大兄は笑いもせずに、うなずいて、
「人生の岐路に立ち、悩んでいる。どうすべきか、左へ行くか、右へ行くか。わしには相談する者が、そなたしかいない」
「光栄です。おうかがいしましょう」
豊璋は言った。
中大兄は別人のように厳しい目で、注意深くあたりを見回した。
そして言った。
「入鹿《いるか》めを、どう思うか」
豊璋はすぐには答えず、あたりを見回して、
「どう、と仰せられるのは?」
「わかっているはずだ」
中大兄はいらいらして言った。
豊璋はうなずいて、
「捨ててはおけませぬな」
「そうであろう」
「蘇我《そが》一族の専横、目に余るものがあります」
「このままでは、わが大王家《おおきみのいえ》の存亡にもかかわると見たが、そなたの考えはいかがかな」
「同じでございます」
「ならば、蘇我討つべし、ということになるが——」
と、中大兄はあらためて豊璋の顔を見た。
豊璋は背筋に冷たいものが走るのを覚えた。
蘇我入鹿、いまや大王家をしのぐこの国の権力者である。
女帝である皇極《こうぎよく》帝の寵愛をいいことに、自らの邸を「宮門《みかど》」と、勝手に人民を使役して作らせた大墓を「陵《みささぎ》」と呼ばせていた。
これは大王家しか許されないことのはずだ。
放っておけば、大王家に代って、この国の王者になるかもしれなかった。
中大兄は、母である皇極帝に何度も諫言《かんげん》したが、そのたびにしりぞけられた。
母の目は曇っている。
なぜ曇ったのか、その理由もはっきりしている。
だが、そのことだけは友の前でも口にする気にはなれなかった。
とにかく蘇我一族は帝の絶対の信任を得ている。しかし、だからこそ危険なのだ。いまのところ、蘇我を討とうと考えている者はいない。
だが、中大兄だけはそう考えていた。豊璋はその決意を打ち明けられて当惑していた。
もし、このことが事前に知れたら、豊璋もただでは済むまい。百済の王族で、日本との友好を求めるために在住している。だから殺されることはあるまいが、国へ送り返されることはあるかもしれない。
豊璋は正直なところ、そんなことは夢にも考えたことはなかった。
故郷百済のことは、子供の頃の記憶しかない。それよりはこの国こそ故郷であり、この三輪山の麓で、日本人たちに尊敬されて日を送るのが一番いい。その暮らしを続けるためには、日本の王家の争いに口をはさむべきではなかった。
局外中立こそ、生きのびる道なのである。
しかし、豊璋は、敢えて言った。
「何か、力を貸せることが、このわたくしにもあるでしょうか?」
「いや、そのお言葉だけで充分だ」
中大兄は感激して、豊璋の手を握った。
「そなたは百済国の者、この国の争いに係わってはならぬ」
「——」
「わかっておろう。そのことは」
「わかっています。ただ、何とか力をお貸ししたいと思ったのです」
「わかっている」
中大兄は豊璋の手を握りしめたまま、
「きょうここへ参ったのは、そのことを、そのことだけを確かめたかったのだ。入鹿を討つか、討たぬか」
「そうでしたか」
「そなたのおかげで決心がついた」
中大兄は笑った。
その笑顔を見て、豊璋は逆に心配になってきた。
皇子だからといって、もしも蘇我一族を討とうと心に期していることが露見したら、一体どういうことになるだろう。
無事に済まないどころか、一族皆殺しの目にあうことすら考えられるのである。
あの聖徳太子の子、山背大兄王《やましろのおおえのおう》一族の滅亡もまさにそれではなかったのか。
「かの一族を討つのはよろしかろう。されど、もし万一討ち損じられるようなことあらば——」
「それもわかっている」
中大兄は大きくうなずいて、
「手立ては決める。力を貸してくれる者もいる。あとは、やるかどうかなのだよ、王子」
「ならば、もう何も申し上げることはございません」
豊璋は言った。
この自分より二つほど年上の、若い皇子の行動力には、豊璋もつねづね敬意を払ってきた。
また卓上の蜜を口にして、中大兄は、
「誰が手を貸すか、知りたいであろうな」
「それは——」
知りたい、と言いかけて、豊璋はあわてて口をつぐんだ。
「そうだ、知らぬ方がよい。知れば迷惑がかかるかもしれぬ」
中大兄はそう答えた。
豊璋を信じないわけではない。
しかし、この件はそう言っておいた方がいいのである。
万一の場合、中大兄は二度とこの蜜を味わうことはできなくなる。
ここで、一味の名を漏らせば、それは結果において豊璋に迷惑をかけることになるかもしれないのだ。
「もういい、話は終った」
中大兄は声を大きくすると、
「もはや、人払いは無用だ」
「そういえば、きょうは漢殿《あやどの》の姿が見えませぬな」
ふと気が付いて豊璋は言った。
とたんに、中大兄の顔がみるみる不機嫌になった。
「いかがされた、弟君の身の上に何か?」
「あやつを弟と呼ぶな」
中大兄は叫んだ。
豊璋は驚いて言葉を呑み込んだ。
中大兄は、すぐに表情を穏やかなものに変え、
「すまぬ。つい怒鳴ってしまった、許されよ」
「いえ、許すも許さぬもありませぬが」
「申しておこう。あやつは弟と呼ばれておるが、弟ではない。あやつの方が年が上なのだ」
「上?」
「そうだ。そなただから言ってしまう。あれは、母が若き頃、つまらぬ男と通じて生んだ不義の子なのだ」
中大兄は自嘲気味に、
「わが母は、よき母だが、たった一つ、悪《あ》しき所がある。——多情でな」
豊璋は何と言って応じたものか、迷っていた。
まさか、なるほどとも言えない。しかし、そうではございませぬでしょう、とは白々しくて言えない。
蘇我一族の当主で、男盛りの入鹿と皇極帝の間があやしいということは、豊璋の耳にも入っているのだ。
いつの頃からか、漢殿と呼ばれる男が、中大兄の弟として一緒に暮らすようになっていた。
弟にしては、「皇子《みこ》」の名で呼ばれぬので、豊璋も不思議だとは思っていた。
そういう事情があったのか。
しかし、同時に豊璋はもう一つ疑問が湧いてきた。仮に年上だとしても、同じ母から生まれたのなら、やはり兄弟だろう。母親は、ときの帝なのである。
それなのに、どうして、漢殿は皇子と呼ばれないのか。
中大兄も、豊璋の胸の内に浮かんだ疑問を容易に察した。
「——かの者の父、その名ばかりは語るわけにはいかぬ」
「——」
「だが、これだけは覚えておいてもらいたい。あの男には、この国の大王となる血はない。それだけは、たとえ天と地がくつがえろうと有り得ぬことなのだ」
「——では、このたびのことには、あの方の力は借りぬと……」
「そうだ、これは大王家のことだからな」
「それはいかがなものでございましょう」
豊璋は首を傾《かし》げて、
「武芸に秀でた者を使わぬという手はありませぬ」
「それが汚れた者であってもか」
「汚れた者には、汚れた仕事をさせればよろしいのでは」
豊璋の言葉は、中大兄に衝撃を与えた。
そういう考え方もあるのだ。
中大兄の脳裏に、漢殿の顔が浮かんだ。
(いっそのこと、汚れ仕事は、すべてあやつにやらせてみるか)