「これはよくいらせられました」
思いもかけない「兄」の訪問に、漢殿は全身に喜びをあらわして歓迎した。
「近くまで来たのでな」
あくまで、ついでに立ち寄ったのだ、という形をとりたかった。
「はい、わかっております。さあさあ、どうぞお入り下さいませ」
漢殿は先に立って中に入った。
中大兄はしぶしぶ後に続いた。
漢殿は中大兄より少し背が高く、筋骨も隆々としている。顔はさすがに母を同じくするだけに、よく似ているが、漢殿の方が少し眉が太く、目鼻立ちもくっきりとしている。
中大兄の方がすっきりとした貴人の顔立ちである。
中大兄が、この世で一番嫌なこと、それはこの漢殿と似ている、と言われることだ。
中大兄は、自分の顔を極端に下品にしたのが、漢殿の顔であるような気がして、どうしても好きになれない。
いや、母の不倫の証拠に手足がついて堂々と歩いているような気すらする。
ある時、側近が、二人がよく似ていると言った。
言った方にすれば、お世辞のつもりだったかもしれない。だが、中大兄は激怒した。
そこには漢殿もいたのだが。中大兄は一切かまわずに怒鳴りつけ、二度と言うなと念を押した。
だから、今は誰も言わない。
その漢殿の館に、中大兄はやって来た。
もちろん初めての訪問である。
「何もございませんが」
と、漢殿が差し出したのは、見たこともない菓子と赤紫色の液体だった。
「これは?」
「葡萄《ぶどう》の酒にございます」
中大兄は驚いた。
葡萄とは唐の国ですら、まだ滅多に手に入らない果物だ。その果物から作った酒とは。
白瑠璃《はくるり》の杯に注がれた葡萄の酒を、中大兄は一口、舌の上で転がしてみた。
(うまい)
今まで一度も味わったことのない芳醇な香りがした。
「いかがでございましょう。お口に合いますでしょうか」
漢殿は丁重に言った。
「——まあ、まずくはないな」
あまり感心していると思われるのもしゃくだった。
「それはよろしゅうございました」
漢殿は伏し目がちに言った。
初めて母の手で引き合わされて以来、この男は兄、いや本当は弟である中大兄に対して、一度も馴れ馴れしい態度に出たことがない。
それは当然だ、と中大兄は思う。
この男は異国の血を引いているのだ。そんな男に、兄弟のようにふるまわれたら腹が立つ。
しかし、このように、あまりに丁重なのも腹立たしいものだった。
たまには、ぶつかってこい、とすら思う。
だが、もし本当にぶつかってきたら、おそらく中大兄は激怒するだろう。「身分をわきまえろ」と言うだろう。
それがわかっていて、中大兄はやはり他人行儀だとも思うのである。
「これは何だ?」
本当はもっと飲みたかったが、中大兄は杯を卓上に置いて、皿の上の菓子を見た。
「砂糖菓子でございます」
「砂糖?」
これも貴重品だ。
葡萄ほどでないにせよ、この国で手に入れるのは至難の品である。
(やはり新羅《しらぎ》か——)
漢殿は新羅人とつながっている。
いや、それどころか、その新羅人こそ——。
中大兄は、その黒っぽい固まりを取り上げて口に入れた。
甘い。蜜ほどではないが、何か柔らかな甘さがある。
「いろいろと珍しいものが出てくるのう」
「恐れ入ります」
中大兄はふと、壁に立てかけてある大きな槍に目をとめた。
槍というのは珍しい。
朝廷の兵でも使うのは刀か、せいぜい矛《ほこ》である。
矛は先端が剣のように上下にふくらんでおり、突くだけでなく斬ることも出来る。
しかし、槍の穂先は細く刃も小さく、ただ突き通すだけの武器だ。
槍より矛の方が有利とされている。
だが、ここにあるのは槍だった。
穂先は七、八寸、柄は四、五尺もあるだろうか。
穂先はともかく、柄は長い。
その柄には、すべらないための用心か、紐が二重に巻きつけてある。かなり手垢に汚れていた。
「あの槍はおまえのものか」
中大兄は聞いた。
「はい」
「どのくらい、使える」
「は、それは——」
漢殿は口ごもった。
槍には自信がある。ただ、中大兄の前でそれを自慢気に言うのは、ためらわれた。
「使ってみろ。見たい」
中大兄は言った。
豊璋の言った「汚れた仕事」に使えるかどうか、確かめてみたいと思ったのである。
「わかりました」
漢殿は立ち上がって槍を取ると、庭に出た。燦々《さんさん》と陽光がふり注ぐ広い庭であった。
池があり、花壇がある。
その中に、漢殿は立った。
「あまり、お近付きになりませぬように」
漢殿は一言注意すると、槍を持って、二度ほどそれをしごいた。
そして呼吸を整えると、まず水車のごとく振り回した。
中大兄は舌を巻いた。
槍は本当に水車のように、いや風車のように回転するのである。
重い槍がまるで生き物のように動く。
「たあーっ」
漢殿がすさまじい気合いを込めて叫んだ。
中大兄は一瞬あとずさりしたくなった。
それほどの気合いである。
漢殿は動いた。
広い庭を左右に、時には姿勢を低くし、あるいは高くして、まるで十数人の目に見えない敵と対決しているかのようである。
目に見えない敵をすべて倒し終って、漢殿は直立し、槍を構えなおして一礼した。
「あの花のあたりを御覧下さい」
呼吸は乱れておらず、言葉にも淀みがなかった。
ただ、うっすらと額に汗をかいているに過ぎない。
中大兄はそちらの方を見た。
春の花に蜂が慕い寄っている。
漢殿は、そろりそろりと近寄った。
そして、無言の気合いで飛んでいる蜂を突いた。
「——!」
信じられないことだった。
槍は、その小さな蜜蜂の体をつらぬいた。
それが、はっきりと見てとれたのである。
漢殿は、またそろりそろりと戻り、一礼して槍の先をよく見えるようにして差し出した。
まぎれもなかった。
蜂の体は、ほんのわずかばかり槍に喰い込まれ、羽はまだばたばたと動いていた。
「見事」
うめくように中大兄は言った。
たとえ相手が誰であろうと、これだけの妙技を見せられては、褒めないわけにはいかなかった。
「恐れ入ります」
漢殿は頭を下げた。
「中に入ろう、そなたに、あらためて話がある」
中大兄は興奮を押さえて言った。