入鹿にそう報告したのは、忍びの棟梁|猿手《さるて》だった。
入鹿は、長身で髭《ひげ》の剃りあとが青々とした、男盛りである。
男臭さがぷんぷんと匂うような入鹿が、大きな目で猿手を見た。
「なぜ、戻らぬ」
物憂げな、押し殺したような声だった。
この声を聞いただけで震え上がる者も、この国には大勢いる。
「わかりませぬ」
「わからぬことがあるか」
入鹿は目をつり上げた。
猿手は恐怖のあまり身を硬くした。
「も、申しわけもございませぬ」
「すぐに調べよ。探せ。乙丸は何をしておった」
「は、大臣《おおおみ》様の目と耳になるべく、あたりを見回っておりました」
「そこで何かを見た。そして始末されたのであろうな」
猿手はおそるおそる顔を上げて、
「まさか。この国に、大臣様の家来と知って、そのような暴挙に出るものがおりましょうか」
「では、そちは乙丸がたわむれに水泳《みずおよぎ》でもして、溺れたとでも申すか。そちの配下はそんな間抜け揃いか」
「いえ、滅相もございませぬ」
猿手はあわてて言った。
「ならば、行け。疾《と》く、探れ。わしは、のろまは好まん」
「ははっ」
猿手は血相を変えて去った。
入鹿は、最近|甘橿丘《あまかしのおか》に造営した館の庭にいた。池の中央に橋がかかっている。
ここは見晴らしもよく、曲者が隠れる場所もない。
忍びたちと密議をこらすには格好の場所である。
だが、入鹿はそういう時でなくとも、従者も連れずにたった一人でここへ来ることがよくあった。
考えごとにも、ここはいい。
(さて、誰が乙丸を始末したか)
入鹿はあらためて考えてみた。
始末するとなると、よほどまずいことを探り取られたからだろう。
大臣家の従者と知ってか知らずか、いずれにせよ何かよほどのたくらみがあるのだ。
(わしを殺そうとでもいうのか)
考えられないことではなかった。
入鹿はこの国の王になるつもりである。
とりあえずは、先帝と父蝦夷の妹|法提郎媛《ほてのいらつめ》との間に生まれた古人大兄《ふるひとのおおえ》皇子を天皇の位に即《つ》ける。
そして、蘇我一族の言うことなら、何でも聞かなければいけない古人大兄が帝である間に、この国のすべてを蘇我一族で握ってしまう。
そのうえで、古人大兄を除いて自分が皇位に即くのである。
そこまで気が付いている者がいるかどうか。
おそらくはいまい。
ただ、蘇我一族を、天皇家をないがしろにするものとして、除こうとする輩《やから》はいないとも限らない。
(待てよ、あるいは山背大兄《やましろのおおえ》の残党か)
それなら恨みである。
入鹿は、聖徳太子の息子山背大兄王を攻め、一族を皆殺しにしたことがある。
もちろん古人大兄を位に即ける邪魔になるからだ。その残党が、入鹿に憎悪を抱いていることはまちがいない。
恨みか、それとも天皇家の反撃か。
もしそうだとすれば、その首領は誰か。
(そんな覇気のあるやつがいたか)
入鹿の脳裏にふと中大兄の顔が浮かんだ。