この頃は、何につけても入鹿を思う。
政務のおりですら女帝は、何の脈絡もなく入鹿を思い出し、顔を赤らめることすらある。
その入鹿が、ひさしぶりに息せききって参内してきた。
女帝はただちに、入鹿に拝謁を許した。
「大臣《おおおみ》には相変らず壮健の様、何よりじゃ」
女帝の言葉に、入鹿は軽く頭を下げただけで、
「お人払いを願わしゅう存じます」
と言った。
女帝は驚いた。
「明るいうちから、何事じゃ」
「何を仰せられる。政事《まつりごと》の話にござる」
入鹿はうんざりした顔をした。
最も尊き存在であるはずの帝《みかど》が、ただの年増女になる、その瞬間がある。
それを引き出したのは入鹿なのだが、こうも続くとあきてくる。
初めの頃は、確かに嫌いではなかった。入鹿から見れば年上の女である。しかし、それなりの味はあった。
だが、もういい。
入鹿は天皇になりたい。
そのためには、いまのうちに既成事実を作っておく必要があった。
女帝が目がくらんでいる間に、豪族たちをすべて味方につけ、最後に帝にとって代る。
もちろん殺すつもりはない。
兵をもって脅し、帝位を譲らせるのである。
そのための道具としてしか、入鹿は女帝を見ていなかった。
女帝はそうではない。
「何事じゃ、そのようにあわてふためいて」
女帝は皮肉を言った。
「あわててなどおりませぬ」
入鹿は傲然《ごうぜん》と言った。
「このところ、大臣は多忙を極めておるようじゃのう」
「いかにも」
「いったい、人払いしてまでの大事とは何事か」
「わが首を狙っておるものがおりまする」
入鹿が言うと、女帝は目を丸くして、
「そのような者がおるとは、信じられませぬ。いったい、何のために大臣の命を狙うのです」
「さあ、わかりませぬな——皇子《みこ》様に聞いてみませぬと」
「皇子? わが皇子がかような企てを」
「御意」
入鹿は強い眼光で女帝をにらみつけた。
だが、女帝はそれを平然と受けとめた。
(この女は何も知らぬのだな)
入鹿はそれを直感した。
「大臣、誰がそのような企てをしていると申すのですか」
「——御存じないのか」
「知らぬ」
「中大兄《なかのおおえ》皇子でござる」
「まさか」
女帝は笑い出した。
入鹿は気分を害して、
「命を狙われる身になれば、笑いごとでは済まされませぬ」
女帝は少し真顔になって、
「何か証拠《あかし》があるのですか」
「証拠、つまり皇子様|謀反《むほん》の証拠ということでござるかな?」
入鹿は逆に聞き返した。
「謀反とは少し言葉が過ぎませぬか」
さすがに女帝はたしなめた。
謀反とは臣下が主君に対してするものである。その意味で言えば、大臣に過ぎない入鹿が中大兄に対して口にすべき言葉ではなかった。
「いや、謀反に等しいと申せましょう」
入鹿は強引に主張した。
根拠はある。この身は、最も帝の信頼の篤い重臣である。その最も信頼の篤い重臣を狙うのは、帝に対する叛逆に等しい。それが入鹿の論理である。
「いかがでござる」
入鹿は念を押した。
女帝は不承不承にうなずいた。
「ならば、この件の究明、お任せ下さいますな」
「それは——」
女帝は言葉を濁した。
中大兄のことが気になる。うっかり全権を入鹿にゆだねたら、最愛の息子が殺されることにもなりかねない。
「よろしいのでござるな」
「ならぬ」
予期せぬ拒否の言葉に、入鹿は意外な顔をした。
「なぜでござる」
「皇子は、天津日継《あまつひつぎ》となるかもしれぬ身、無闇に疑いをかけることはなりませぬ」
「——」
「それとも、何か証拠がありますか」
女帝がここまで強く出たのは、入鹿がかつて山背大兄王一族を皆殺しにしたという前歴があるからだ。
入鹿の信用は、この一点において欠けていた。聖徳太子の子の山背大兄王を、入鹿は無残にも殺した。そのことで、入鹿は皇族をも手にかける男として、信用をなくしたのだ。
だが、その点だけである。
それ以外は、女帝は入鹿の思うがままだ。
しかし、証拠があるかと正面切ってたずねられれば、そんなものは無い、と答えるしかない。
入鹿は仕方なく、
「それでは、確たる証拠をお持ちすれば、御裁可下さいましょうな」
「——」
「いかが」
今度は入鹿が攻める番である。
「わかりました」
女帝はうなずかざるを得なかった。
「では、これにて」
「もう、行くのかえ」
女帝の顔は、母の顔から女の顔になっていた。
「急ぎますので」
入鹿は振り切った。
女帝は不満を顔に残した。