月に三度ほど、ここで請安から漢籍の手ほどきを受ける。
請安は隋に留学経験もあり、中国語を自在にあやつる。
中大兄は大陸の人々と、直《じか》に意志疎通をしてみたかった。だから、他の皇子はあまり関心を示さない会話にも興味を示した。
しかし、このところ足繁く請安の家をたずねるのは、学問のためではない。
入鹿を殺し、蘇我一族を滅亡させるための密議をこらすためである。
「鎌子《かまこ》」
請安の講義が終ると、中大兄はこの年上の偉丈夫に声をかけた。
「はい」
鎌子は小さな声でうなずき、あたりをうかがって、
「漢《あや》の御方《おんかた》の館をおたずねになった由《よし》、既に耳に致しております」
「さすが、早耳だな」
中大兄は驚きを込めて言った。
この男を特徴づけているのは、その情報収集力だ、と中大兄はいつも思う。
実際、宮中に関する些細な出来事が、いつの間にか鎌子の耳に入っている、そんな例は少なくないのだ。
「皇子様、こちらへ」
と、鎌子は席を立って部屋の壁へ耳を寄せると、増々小さな声で、
「大臣家の間者《いぬ》が一人いなくなり、かの者が血眼《ちまなこ》で行方を探しておると聞きますが、まさか、皇子様が——」
「そうだ。密議を聞かれたのでな」
中大兄は苦虫を噛みつぶしたような顔をして認め、前後の事情を説明した。
「左様でございましたか」
鎌子は、周囲に人の気配がないか再度確かめると、
「かの君との御交流、まことに目出度き限りと申し上げねばなりませぬが、肝心の事の方は急がねばなりませぬな」
「やはり、そうか、入鹿めを——」
「しっ、皇子様、壁に耳ありでございますぞ。かの者と仰せられませ」
中大兄はうなずいて、
「ならば、その、かの者、いつ討つ?」
「近々。わたくしめに一案がございます。お聞かせ申し上げたいので、今宵《こよい》深更、例の場所《ところ》へお出まし下さりませぬか」
「わかった」
「そのおり、お引き合わせ申し上げたき人物がおりまする」
「何者だ」
「心強き味方、とのみ申し上げておきましょうか——」
部屋の外で足音がしたので、鎌子は口をつぐんだ。
「——皇子様」
扉の向うから声がした。
請安の声である。
「先生、いかがなされました」
中大兄は言った。
「宮中よりのお召しでございます。舎人《とねり》の清麻呂が使者で参っております」
請安は答えた。
「お召し? 何だろう」
中大兄はひやりとして言った。
(まさか、あのことが入鹿の知るところとなったのではないだろうな)
あのこととは、入鹿の間者に密事を聞かれ、始末したことである。
「では、ございますまい」
鎌子は言った。
「うん?」
けげんな顔を中大兄がすると、鎌子は声をひそめ、が、力強く、
「心を強くお持ちなさることです。心の動きを見透かされてはなりませぬ」
「——わかった」
中大兄はうなずいた。
鎌子は微笑して、
「それほどの大事ではありますまい。今宵、お待ちしております」
「うむ、それでは、後刻」
中大兄は舎人の先導で宮中へ向かった。
鎌子は人目に立たぬよう、見送らなかった。
(まさか、皇子の心配なされた通りではあるまいな)
だとしたら、皇子ばかりでなく自分の身も危ないことになる。
鎌子は厳しい表情で請安の邸を辞した。