女帝は言った。
「はい、母上」
中大兄は顔を上げて、しっかりした声音で答えた。
女帝はじっと息子の顔を見つめていたが、
「そうか」
と、ほっとしたように目を伏せた。
中大兄は緊張を少しゆるめた。
心配した通り、女帝の用件はそれだった。
入鹿を狙っていないかどうか、女帝は息子に糺したのである。
息子は否と答えた。
それは無論、嘘である。しかし、それは女帝を安心させた。
「母上、何故にわたくしが大臣の命を狙っているなどと、お考えになったのですか」
一転して中大兄は攻勢に出た。
「それは——」
と、女帝はますます目を伏せた。
「讒言《ざんげん》があったのですね。その主は誰ですか」
「——」
「入鹿でしょう。違いますか」
中大兄は進み出て、
「母上、実の息子の言うことよりも、あのような者の言うことをお信じになる。いったい、どういうわけでございましょう。わたくしは悲しゅうございます」
女帝は当惑した。
この息子が、入鹿に好意を持っていないことは知っている。その理由も見当はつく。
それだけに、これ以上、息子と入鹿が対立するのは耐えがたかった。
「入鹿ではない」
女帝は嘘を言った。
「では、誰です」
「——それは、秘すべきことじゃ」
「秘すべきこととは、いかなるわけでございましょう」
中大兄はなおも食い下がった。
「やめよ、皇子」
女帝はついに怒った。
「——秘すべきことは秘すべきことなのじゃ。それよりも皇子、漢《あや》の者とは仲良うしておりますか?」
「——」
中大兄が一瞬言葉に詰まると、女帝は逆襲した。
「あの者とは仲良うするようにと、この前も申し聞かせたはずじゃの?」
「——確かに、うけたまわりました」
「ならば、母の言いつけが、なぜ守れませぬ」
「守っておりまする」
中大兄は顔を上げて、
「先日も、かの者の邸《やしき》を訪れ、新羅渡りの珍しい酒や菓子など食しまして、話しおうてきたばかりにございます」
嘘ではなかった。ただ、槍のことについては、中大兄は一言も言わなかった。
「ほう、そうか」
女帝は嬉しそうにうなずいて、
「あの者は、頼りになりまする。父の素性が素性ゆえ、皇子として遇することはできませぬが、それが不憫《ふびん》でならぬ。頼みますよ、皇子」
「かしこまりましてございます」
中大兄は内心の不快を押し隠して、深々と礼をした。
母と子の会見はそれで終った。
いかにも苦々しい顔を、母に見られたくはなかった。