鎌子があわててとめた。
「なぜだ、この男は——」
中大兄は叫んだ。
蘇我一族なのである。
蘇我|倉山田《くらやまだ》石川麻呂、痩《や》せて浅黒い面長な顔に茶色の瞳の、背の高い男である。
それが目の前でおびえた目をして、中大兄を見ていた。
「お味方でございます」
鎌子は低い声で、しかしはっきりとそう言った。
「味方? この男がか——」
不審の目を向ける中大兄に、鎌子はうなずいて、石川麻呂を座らせた。
「倉《くら》殿は、皇子様にお味方すると誓ったのでございます」
鎌子は言った。
「まことか」
中大兄は鋭い目で石川麻呂を見た。
「はい、何卒お味方のうちにお加え下さりませ」
石川麻呂は平伏した。
中大兄は無言で見つめていた。
蘇我一族といっても、多くの家がある。
今は、蝦夷《えみし》・入鹿《いるか》父子の家が他を圧しているが、石川麻呂の家もなかなかの名家だ。もし入鹿の家が滅ぶようなことにでもなれば、石川麻呂は一族の長者の地位に就くことができよう。
(だが、油断はならぬ)
中大兄はそう簡単に人を信用する性質《たち》ではなかった。
石川麻呂に入鹿|誅殺《ちゆうさつ》の密謀を打ち明けるのはよいが、それを入鹿に密告されたらどういうことになるか。
(斬ってしまうか)
中大兄はそこまで考えた。
「お待ち下され」
鎌子が言った。
半分その気になりかけていた中大兄はぎくりとした。
鎌子は石川麻呂に向かって、
「手土産がござりましたな」
「はっ、ただちに御前に」
石川麻呂は手を叩いた。
現われたのは、若く美しい娘であった。
中大兄は目をみはった。
「わが娘、赤草娘《あかくさのいらつめ》でございます」
隣に座って平伏する娘をちらりと見て、石川麻呂は、
「何卒、この娘をお連れ下さいますよう」
と、中大兄に言った。
中大兄は一転して顔をほころばせた。
「これを、くれるというのか」
「はい、忠誠の証として、お受け下さいませ」
石川麻呂はためらいもなく言った。
「娘、面《おもて》を上げよ」
中大兄は命じた。
赤草娘は顔を上げた。
まちがいなかった。先程この部屋に入ってきた時、見た通りの美女だ。
やや小振りだが、均整のとれた身体《からだ》で、唇から顎にかけて、やや肉が足りなかった。しかし、それは美貌を消すほどの欠点ではない。
娘は伏し目がちだった。
それが、中大兄の好色を誘った。
「娘、そなたの父はかように申しておるが、そなたはよいのか」
「——はい」
赤草娘は、か細い声で言った。
「他に好きな者がおるならば、無理にとは言わぬ、どうだ?」
赤草娘は首を振った。
中大兄は意地の悪い顔で、
「同じ一族に、そなたを好いている者はおらぬのか——」
と言った。
これは重要なことだった。もし、そんなことがあれば、中大兄は身内に間者を抱えるも同然になる。
「——おりませぬ」
「しかと左様か」
「はい」
赤草娘は澄んだ目で答えた。
「ならば、よい」
中大兄はうなずくと、石川麻呂へ視線を移して、
「頼むぞ、石川麻呂」
「ははっ」
石川麻呂は再び平伏した。
(皇子の女好きにも困ったものだ)
鎌子は自分で仲介しておきながら、内心嘆息した。
この皇子に唯一欠点がある。
それは女に目がないことだ。
美女を得られるとなると、すぐに相好を崩す、判断が甘くなる。だからこそ、石川麻呂を味方にするにあたって、娘を差し出すように勧めたのである。だが、それがあまりにもうまくいくと、かえって不安になる。
(皇子様も、ほどほどになされませぬと、身を滅ぼすことにもなりかねませぬぞ)
本当はこう言いたいところだが、今はそれを言えない。
「では、娘よ、参ろうか」
中大兄がそう言って立ち上がりかけたので、鎌子はあわてた。
まだ重要な話が残っている。
「皇子様——」
鎌子は言った。
「まだ、大切な話が終っておりませぬ」
「うん? あ、ああ、そうか」
中大兄は緩んだ表情をあわてて引き締めた。
鎌子は石川麻呂に目配せした。
石川麻呂は娘を立たせて、外へ連れ出した。
「行ってしまうのか」
中大兄は、おもちゃを取り上げられた子供のような顔をした。
「お帰りにはお供させます。御心配なく」
鎌子が言った。
石川麻呂が戻ってきて密談が始まった。
「昼間申し上げたように、三韓の調《みつぎ》の儀にことよせて、かの者をおびき出すのでございます」
「三韓とは、どこのことだ」
中大兄は聞いた。
むろん三韓が半島の三国である百済《くだら》、新羅《しらぎ》、高句麗《こうくり》を指すことは、わかっている。
しかし、これら三国はそれぞれ独立した国家であり、半島の覇権をめぐって対立している。
三つの国がまとまって、調を送ってくるなど、有り得ないことだ。
だから、中大兄は聞いたのだ。
その意図を汲んで、鎌子は答えた。
「無論、本来かようなことは有り得ませぬ。その、有り得ぬ話をでっち上げるのでございます」
「——?」
「倉殿」
鎌子がうながした。
石川麻呂はうなずいて、
「今回、たまたま三つの国からの調が同じ時に着いたことに致すのでございます。いや、実のところ百済と高句麗の調は難波の港に着いております。これに、新たに新羅の調も着いたこととし、その三韓すべての調の上表文《おくりじよう》を帝の前で読み上げることに致します」
「なるほど。だが、それならば、百官すべてを呼ばねばなるまい」
中大兄は言った。
百官とは朝廷に仕える役人たちで、実際は百人とは限らない。ただ全員の総称として百官という言葉がある。いずれにせよ大勢の人が参内《さんだい》する。これではまずい。邪魔が入るかもしれないし、人を伏せておくのも難しい。
「はい。そこで、まず儀式の段取りを決めねばなりませぬ。ついては大臣《おおおみ》のお立ち合いを願いたいと、使者を出すのでございます」
「それは聞いた。だが、段取りを決めるだけのことで、入鹿が来るかどうか」
入鹿は尊大で面倒なことは嫌いである。
そのような使いを出せば、本当の儀式の時に呼べ、と追い返される懼《おそ》れがある。
「そこは、お任せ下さい。あの者が来ずにはおられぬような手立てを考えまする」
鎌子が言った。
中大兄は不思議そうに、
「どうするのだ?」
「三韓の調が同時に行なわれるなどとは、前代未聞のこと。それゆえ、段取りを決めねばならぬと申せば、通るはずでございます。そこで、もう一つ、決めねばならないことは、三国の席次でございます」
「席次なら決っておるではないか」
中大兄は妙な顔をした。
使者の座る順序も、その国書を読む順番も決っている。
百済・高句麗・新羅の順である。
「それを変えるのでございます」
「変える?」
鎌子はうなずいて、
「ここにいる倉殿の画策で、百済を後にして新羅を先にする、その形でとりあえず仮の儀式を行なうと、噂を流すのでございます」
「なるほど」
中大兄は感心した。
入鹿は百済と親しく、その代理人をもって任じている。
一方、同じ蘇我でも石川麻呂はどちらかというと新羅と親しい。
そこで石川麻呂が、三国の調が一度に行なわれるという異例な事態の中で、自分と親しい新羅の席次を上にするよう陰謀をめぐらしている——そのように入鹿に思わせるのだ。
当然、入鹿は怒り、そのようなことは許さぬぞとばかりに参内してくるはずである。
「そこを討つ、というわけだな」
「仰せの通り」
鎌子は一礼して、懐《ふところ》から見取り図を出した。
大極殿の見取図である。
ところどころに朱点がある。
「こことここに、子麻呂と網田を配しまする」
と、鎌子は佐伯連子麻呂と葛城稚犬養連網田に注意を促した。
図をのぞき込んだ両名がうなずくと、鎌子は中大兄に、
「皇子様はここに。剣を持って万一に備えて頂きます」
「うむ、そなたは?」
「はい、わたくしは弓を持って、ここへ控えまする」
と、鎌子は玉座から少し離れたところを指さした。
「万一に備えてか?」
中大兄は笑みを浮かべて言った。
「はい、まず、わたくしめの出番はござりますまい。この二人がやってくれましょう」
鎌子は頼もしげに子麻呂と網田を見た。
「うむ、頼むぞ」
中大兄は二人に言った。
二人は身を固くして一礼した。
鎌子は中大兄の目をのぞき込むようにして、
「——皇子様、もうお一方《ひとかた》、よろしゅうござりますか」
「誰だ?」
中大兄は首をひねった。
「——槍のお得意な、あの御方でございます」
「あやつか」
中大兄は一瞬不快な顔をしたが、すぐにとりつくろうように笑みを浮かべ、
「よかろう、枯木も山のにぎわいと申すからな」
「ありがとう存じまする」
鎌子は今度は石川麻呂に、
「手筈は、倉殿に三国の上表文を、御前《ごぜん》でそれぞれ読んで頂く。入鹿は当然、そのことに気を取られるはず、そこを合図と共に討つ」
「もし、大臣が何か文句をつけてきたら?」
石川麻呂は反問した。
「当然つけてくるでしょうな。三国の席次のこと、みだりに変えることは許さぬ、と。それでよいのです。倉殿は恐れ入ったふりをして、何事も大臣の申される通り、と従って頂きたい」
鎌子は淀みなく答えた。
「わかった」
石川麻呂は言った。
「で、決行は?」
中大兄が最も肝心なことを聞いた。
「四日後と致しましょう」
鎌子は言った。
「四日後、十二日だな」
季節は夏、六月である。