月は明るい。半月である。
「人目に立つな」
中大兄は娘を横座りにさせて、自分の前に置いていた。
「恥しゅうございます」
「何を恥しがることがあるものか」
中大兄はそっと手を伸ばして、娘の胸に触れた。
「あっ」
娘は甘い声を出して、身をよじった。
(生娘ではないな)
中大兄は秘かに感じた。
このところ、そういうことがようやくわかるようになった。
ようやくといっても、中大兄はまだ若い。若過ぎるほど若いのである。
しかし、女については老いていた。
(ならば、からかってやれ)
中大兄は悪戯心を出した。
その手は一層大胆に動いた。
「皇子様、御身分にかかわります」
娘は当惑して言った。
「なに、身分の上下はあっても、男女の道にはかわりない」
「でも、誰かが見ているかも」
「誰も見てはおらぬわ。この夜更けに」
「——」
娘は無言で馬の口をとっている豊人に視線をあてた。
豊人はむろん前を見ているから、そんなことはわからない。
「豊人」
中大兄は呼びかけた。
「はい」
「娘が気にしておる。何も見ておらぬ、と言ってやれ」
「——何も見ておりませぬ」
豊人は笑いをふくんだ声で返答した。
「見ておらぬではないか」
と、中大兄は娘を抱き寄せた。
「いやでございます」
娘は抵抗した。
「どうしてだ」
「皇子様には、お妃様がおいでになるのでしょう」
「ああ、いる」
当然ではないか、と中大兄は思った。
妃は倭姫王《やまとひめのおおきみ》といい、古人大兄皇子の娘である。
これも政略結婚であった。
古人大兄は壮年の、次の帝に最も近い皇子と目されている。
しかも入鹿ら蘇我一族の支持も篤い。
中大兄の異母兄でもある。
古人大兄は、そのために、自分は次の帝になれると信じている。
それは甘いと、中大兄は思っている。
言うまでもなく入鹿の存在だ。入鹿は自分が天皇になることを狙っている。古人大兄はそのための道具に過ぎない。自分はそんな道具になるのは真っ平だ。
しかし、古人大兄はそんなことは夢にも思っていない。ひたすら入鹿の意を迎えることに専心し、それを続ければ自然に皇位が転がり込んでくると思っているのだ。
だが、そんな人物とも、中大兄は縁を結ばなければいけなかった。
母の命令である。
中大兄は、前帝《さきのみかど》と現帝を父母として生まれた。古人大兄と父は同じだが、古人大兄の母は法提郎媛《ほてのいらつめ》という蘇我馬子の娘である。
母は、古人大兄との仲を心配した。
そこで、古人大兄の娘と中大兄が結婚すれば、すべてうまくいくと、母は考えたのである。
正直言って、倭姫はあまり美人ではなかった。それに古人大兄も「兄」として尊敬できる人物ではない。
当然、妻に対する愛情は薄れた。
それが若くして中大兄を女漁りに走らせた原因かもしれない。
「妃というものはな、必ず一人はおかねばならぬ」
中大兄が言うのは正妃のことである。
娘はその言外の意味を察した。
正妃以外なら何人いてもよい。それを言いたいのだろう。
「いや」
娘は言った。しかし、それは断固たる拒否ではない。
中大兄にはそれがわかった。
女は、口にする言葉と、心は別のものなのだ。
「そなたを得て、これにまさる喜びはない」
中大兄はそう言って、ぎくりとした。
自邸の玄関に、女が立っているではないか。
近づくにつれて、それが今話題にのぼっていた正妃の倭姫であることに気が付いた中大兄は、呆気にとられた。
「妃よ、そこで何をしておる。このような夜更けに供も連れずに?」
中大兄は馬上から声をかけた。
「わが君をお待ち致しておりました」
姫は言った。しかし、その語気は荒く棘《とげ》があった。
「はしたないふるまいをするでない」
苦々しげに中大兄は言った。
「はしたのうございましょうか」
「身分を考えることだ」
「御身分を。夜な夜な女狩りをなさることも御身分にかかわるのではございませんか」
「これは——」
言いかけて中大兄はぐっと言葉を飲み込んだ。まさか密議のことは口にできない。
妃は古人大兄の娘なのだ。
「いかがなされました」
倭姫は皮肉を込めて言った。
「よい、そのことは」
と、中大兄は、先程から身の置きどころがなくて困っている赤草娘を馬から降ろして、自分も降りた。
これは、
「わが妃じゃ——。これは倉山田石川麻呂殿の娘御にて、赤草娘じゃ。きょうから、わが家《や》を家《いえ》とする。よろしく頼むぞ」
中大兄は二人にそう言い、さっさと邸の中に入った。