入鹿は不機嫌な声を出した。
「はい」
報告したのは猿手《さるて》である。
大臣邸の庭である。冬の間は寒々として見えた泉水が、このところはやや涼しげに、気持ちよく見える。そんな季節になっていた。
だが、入鹿の心はおだやかでない。
(石川麻呂め、何のために娘を差し出した)
なにか魂胆があるに違いない。
(まさか皇子と同心して、わしを討とうというのではあるまいな)
その考えも一度は頭に浮かんだが、入鹿はすぐに打ち消した。
(あの臆病者が——)
石川麻呂のことである。
入鹿は石川麻呂をそのように見ていた。
実際、石川麻呂は狩りで獲物が殺されるのを見ても、血の気が引くような男である。
そんなことができるはずがない。
「はて、何のためにそのようなことをする」
入鹿は口に出した。
猿手の見解を聞きたいと思ったのである。
しかし、入鹿は「どう思う?」とは聞かない。臣下たるものは、主人からそのように水を向けられなくても、答えるものだという考えがあった。
「これは小耳にはさんだ噂でございますが——」
猿手は言った。
「石川麻呂は、このたび新羅より多額の付け届けを受け、あることを承知なされたとか」
「あることとは何だ?」
「三韓使節の席次についてでございます」
「新羅を上席にする、ということか」
「はい。近々そのことを帝に奏上なさると聞きました」
「出過ぎたことを」
入鹿は怒った。
「異国《とつくに》との付き合いのことは、わしに任せておけばよい。新羅はわれらとは縁薄き国、さればこそ席次は低いのじゃ。みだりに席を変えれば、百済との仲も悪《あ》しゅうなる」
「左様でございます」
「そうか、中大兄皇子も、新羅を嫌われておる」
そのためか、と入鹿は理解した。
新羅嫌いの中大兄に、この件について了解を求めるために娘を贈ったのだろう。入鹿はそう解釈したのである。
ならば手は一つだ。
「猿手」
「はい」
「娘を奪え」
「——」
猿手は目を丸くした。
「本当に力のある者は誰か、思い知らせてやるのだ」
「しかし、それでは、皇子様がお怒りになるでしょう」
「かまわん、こう言え。これは蘇我一族の娘、どこへ嫁ぐかは家宰たるこのわしが決める、とな」
「では、夜陰にまぎれてではなく?」
「堂々とだ、よいな」
「配下の者を連れて行ってもよろしゅうござりますか」
「かまわぬ、行け」
「かしこまりました」
猿手は言った。
そして、そのまま大勢で中大兄の邸へ押しかけ、家司たちを蹴散らして、泣き叫ぶ赤草娘をかどわかしてきた。
「そちにくれてやる、どうとでもせい」
入鹿は猿手に言った。
「ま、まことでござりますか」
入鹿はうなずいた。
「ただし、もう外へは出すなよ」
「かしこまりました」
娘はずっと下を向いていたが、さすがに顔を上げ叫んだ。
「鬼、人でなし」
「そなたの父が悪いのだ。恨むなら父を恨め」
猿手は嬉々として娘をかつぎ上げ出て行った。
入鹿はこれから先のことを考えていた。
中大兄はたまたま在宅していなかったという。
(皇子、どうなさるかな)
入鹿は無気味な笑いを浮かべていた。