「おのれ、入鹿め、人も無げなふるまい」
中大兄は怒りと屈辱で真っ赤になった。
「その方らも何だ。娘がさらわれるのを手をこまねいて見ているとは」
怒鳴りつけられた家司たちは、一様にうつむいた。
ただ、怪我をしている者はいるが、死人は一人もいない。
偶然ではなかった。人死《ひとじに》が出ると問題が大きくなるので、その点は入鹿も自重したのである。
中大兄は一旦はずした剣を再び帯びた。
「なにをなさるのです?」
妃の倭姫が冷やかな声できいた。
「知れたこと、大臣家へ行き赤草娘を取り戻してくる」
「おやめなさいませ。それこそ、御身分にかかわります」
「妃」
中大兄はきっとにらんで、
「これは色恋の沙汰ではない。わが家人が無体にも連れ去られたのだぞ。取り戻すのは家長としてのつとめじゃ」
「相手は大臣家でございますよ」
「だからこそ」
と、中大兄は剣の柄を強く握って、
「なめられてはならぬのだ。われらは皇族ぞ。その皇族が、たかが臣下に過ぎぬ大臣家にこのような仕打ちを受け、黙っていたとあっては、しめしがつかぬ」
「——」
「参るぞ」
中大兄が外へ出ようとした時、家司の一人があたふたとやってきて来客を告げた。
「蘇我倉山田石川麻呂殿と中臣鎌子殿が急ぎお目にかかりたいと申しております」
「鎌子が——」
中大兄は舌打して、いったん剣をはずした。
「客殿に通せ、すぐに行く」
中大兄が入って行くと、鎌子と石川麻呂が緊張した表情で待っていた。
「鎌子、何を申したいかわかっているぞ」
中大兄は開口一番言った。
「それは結構なことでございますな。わたくしも手間が省けてよろしゅうございます」
鎌子はのんびりした口調で言った。
中大兄はかえっていらいらして、
「行くなと言うなら、聞かぬぞ」
鎌子と石川麻呂は顔を見合せたが、石川麻呂が、
「皇子様、わたくしは娘はもう死んだものとあきらめております」
と、目を伏せて言った。
「なんだと」
中大兄は驚いて言った。
「父親のわたくしがあきらめておるのでございます。どうか、皇子様も、お腹立ちでもございましょうが、大事の前の小事とおぼし召し下さいませぬか」
「——しかし、胸のつかえがおりぬ」
中大兄が言うと、石川麻呂は微笑して、
「そう思いまして、新たな手土産を持参致しました。これ、入るがよい」
石川麻呂が声をかけると、若い美しい娘が入ってきた。
中大兄は自分の目を疑った。
それは、かどわかされた赤草娘に、あまりにもよく似ていたのである。
「これは——」
中大兄は思わず言葉を飲み込んだ。
「遠智娘《おちのいらつめ》と申します」
石川麻呂が言った。
「妹か?」
「はい、皇子様」
娘は頭を下げた。
「わしにくれると言うのか」
「はい」
石川麻呂は即答した。
「娘、よいのか?」
中大兄は遠智娘に向かって言った。
「皇子様の御心のままに——」
「そうか」
中大兄の顔がほころんだ。
「参るがよい」
中大兄は娘の手を取った。
「皇子様、それでは思いとどまって頂けるのですね」
鎌子が念を押した。
「うん?」
中大兄はけげんな顔をした。
「大臣家《おおおみのいえ》には行かれませぬな」
「ああ、そのことか」
中大兄はもうその気を無くしていた。
「——今度だけは許してやろう。どうせ、長いことはないのだ」
そう言い捨てると、中大兄は遠智娘の手を取ってそのまま行ってしまった。
鎌子と石川麻呂は顔を見合わせた。
「——われらとは、お育ちが違いまするな」
石川麻呂は言った。
あきらめとも、愚痴とも取れる口調である。
「まことに」
鎌子も、皇子の性格に、一抹の不安を抱いていた。