押し殺したような声がした。
「虫麻呂か」
漢殿《あやどの》は、じっと見入っていた槍を卓の上に置いた。
声は床下からだ。
「大臣家の動きはどうだ?」
「はい、気付いておる様子はございませぬ」
「確かか」
「はい、中大兄皇子様が、石川麻呂殿の娘御《むすめご》を取り戻しには行かれなかった。そのことがかえってよろしゅうございました」
「兄君、恐れるに足らずと、入鹿に思わせたか?」
「御意」
「御苦労、ひき続き大臣家を見張れ。変った動きがあれば、すぐに伝えよ。わしはこれから宮中へ参る」
「くれぐれもお気を付けなされ。相手は蘇我大臣でござる」
「わかっている」
漢殿はそう言って槍を取ると、
「兄君も必死なのだ。仕損じれば命はないのだから——」
虫麻呂は去った。
漢殿は槍の穂先に皮の袋をかぶせると、身仕度をして外へ出た。
空を見上げると、今にも泣き出しそうな曇《くもり》空である。
青い空は少しも見えない。
(まるで、自分の人生のようだ)
と、漢殿は思った。
自分はこの国の帝王の血をひいている。
では、そのことによって輝かしい地位を得られるか、といえばそんなことはない。
かえって平民に生まれた方がどんなに気楽だったか。
いまの自分は平民になることもできないし、皇族の待遇を受けることもない。実に中途半端な中ぶらりんなのである。
馬に乗った。
この馬も、人目につくところでは乗れない。
人の目をはばかって生きていく。それしかないのだ。
だが、もしそれが少しでも変るとしたら、本日の一挙を成功させるしかない。
権勢を誇る蘇我大臣を倒す。成功すれば「兄」の中大兄は次代の権力者になるだろう。
(少しは、ましな地位につけるかもしれぬ)
このままでは日陰者だ。
なまじ帝王の血を引いているばかりに、どこへ行くこともできない。
(入鹿を必ず倒す)
漢殿は心に誓った。
さほど憎しみはないが、大手柄をたてぬ限り、自分は浮かび上がれないのである。