入鹿はいまいましく思った。
猿手《さるて》の知らせによれば、石川麻呂は宮中で画策し、三韓の席次を変えようとしているという。
「思い知らせてやるか」
入鹿は参内することにした。
石川麻呂は、三韓の上表文の読まれる順番を、百済《くだら》・高句麗《こうくり》・新羅《しらぎ》から、新羅・百済・高句麗の順にしようとしている、という。
どうせ、新羅から賄賂をもらってのことに違いあるまい。
今頃、石川麻呂は自分を出し抜こうと、宮中での予行演習を進めているに違いない。予行だから大臣は立ち合わない。そこで席次を変えてしまい、本番はその通りに行なう。
そんなことで、本当に席次を変えられると思っているのなら、それは笑止の沙汰と言うべきだ。
「出かけるぞ」
入鹿は家の者に声をかけた。
「お供は、何人になさいます」
「二、三人でよいわ」
入鹿は言い捨てて、さっさと甘橿丘《あまかしのおか》の邸宅を出た。馬で行けば、ほんのわずか、湯がわくよりも早くつく。
入鹿は宮門の前で馬を降りた。
「これは大臣様」
衛士《えじ》の頭《かしら》が頭を下げた。
「石川麻呂が来ておるな」
入鹿は鋭くにらみつけた。
「はい、仰せの通り」
衛士頭はあわてて答えた。
「その方どもは、ここで待っておれ」
入鹿は家来にそう言いつけると、内門をくぐった。
「これは、これは、大臣様。きょうはいいお日和《ひより》で」
かん高い、つきぬけるような声がした。
宮中に仕える道化の春麻呂だった。
春麻呂は、いつもどぎついほど明るい色の衣をまとい、顔には紅|白粉《おしろい》を塗っている。
「いい日和なものか」
入鹿は言ったが、その声は怒っていなかった。入鹿は、滑稽な芸を見るのは、嫌いではない。
「大臣様、何をそのような、ものものしいお姿をなさっておられます?」
春麻呂は両手を広げて、おどけた身振りで入鹿の剣を見た。
入鹿の剣は大きく長い。
正式の参内の時は、唐の国の風習にならい、女帝の前では帯剣出来ない。
「ははは、これか」
入鹿は剣の柄に手をかけた。
「ひえっ」
と、声をあげて春麻呂は飛び上がると、
「帝もお見えです。大臣様、それはございませぬよ」
「そうか——」
入鹿は少し考えた。
確かに、いくら自家薬籠中の女帝とはいえ、その前に帯剣して進み出れば、悪い評判が立つかもしれぬ。
(気にすることはない)
そう思いながらも、入鹿は剣を鞘ぐるみはずして、春麻呂の前につき出した。
「預ける。くれぐれも粗相のないように致せ」
「ははっ。大臣様の御剣をお預け頂くとは、身に余る光栄にございまする」
春麻呂は剣を受け取ると、まるで子供を抱きしめるように抱いた。
そして、そのまま後ずさりして消えた。
入鹿はそのまま謁見の間に入った。
玉座には女帝がいた。
その前には石川麻呂が、そして数名の位の低い官人がいた。
入鹿は女帝に軽く一礼すると、ずかずかと石川麻呂に歩み寄った。
「おい、何をたくらんでおる」
その一喝に、石川麻呂は兎のようにおびえた目をした。
(他愛もない)
入鹿はますます侮った。
「何をたくらんでおるか、わしにはとうの昔にわかっておる。よいか、このわしを欺こうなどと考えることは、剣の前に身を投げ出すも同然なのだ」
石川麻呂の顔から血の気が引いた。
「わかったか」
入鹿は一喝した。
「は、はい」
石川麻呂はあわてて頭を下げた。
入鹿はいつもの位置、女帝から見て左側の最前列へ立った。
「さあ、早くしろ」
石川麻呂はうなずくと、三韓の上表文をたずさえて女帝の前に立った。
「読み上げまする」
石川麻呂は両手で書状を広げた。
まず、百済の分から読まねばならない。
入鹿はじっと石川麻呂を見ている。
石川麻呂は朗読を始めた。