腰には剣を帯びている。
ここまではすべてうまく進行していた。
石川麻呂は相変わらず、上表文をゆっくりと読み上げている。
百済の分が終わるところだった。続いて高句麗、新羅と続く。
鎌子たちも入ってきた。
すべて配置は終わった。
予定では、三韓の分すべてが終わる直前、まず子麻呂と網田が斬りかかり、中大兄と鎌子が支援し、場合によっては漢殿が加わることになっていた。
石川麻呂はふと気付いた。
入鹿が入口の方を気にしている。
(なぜだ。まだ、終わっていないのに)
石川麻呂は、入鹿が何を考えているのか、考えた。そして気付いた。
(百済の分が終われば帰るつもりだ)
それに違いなかった。
入鹿にしてみれば、百済さえ後回しにならなければそれでいいのだ。百済が終わり、次の高句麗の頭の部分を聞けば、席次は一切変らなかったことになる。
これは予行演習なのである。あの面倒臭がり屋の入鹿が、最後までおとなしく聞いているということは、有り得ないことではないか。
(しまった。これを読み終えれば、入鹿は帰ってしまう)
石川麻呂の顔から冷汗が流れた。
打ち合わせでは、三韓の上表文のすべてが読み終わる直前に、子麻呂と網田が斬りかかることになっている。
しかし、実際はそのずっと以前に、入鹿はさっさと引き上げてしまうかもしれないのだ。
おそらく、そのことに中大兄以下は、まったく気が付いていないだろう。
子麻呂も網田も、まだ心の準備ができていないかもしれない。
(いかん)
石川麻呂は急に読む速度を落とした。
少しでも読み終わりを遅らすしか、いまのところ手はない。
女帝がいぶかしげに石川麻呂を見た。
石川麻呂は初めて読み誤った。
「どうした、気分でも悪いのか」
入鹿がからかうように言った。
「——いえ、御前で、畏れ多くて」
石川麻呂は咄嗟にごまかしたが、目の前は真っ暗になった。
(早くしてくれ)
中大兄はどうして石川麻呂が急におかしくなったのか、わからなかった。
(何をしている、あんなことでは怪しまれる)
中大兄は鎌子に合図を送った。
予定を変更して、ただちにかかれと命じたのである。
「さあ、行け」
鎌子は命じた。
「え、もう、行くので」
子麻呂は尻込みをした。
石川麻呂が危惧した通り、子麻呂はまだ心の準備ができていなかった。
人を殺す、ましてや相手は当代一の権力者である。
子麻呂は決して臆病者ではなかった。
しかし、人を殺すのは初めての経験である。徐々に気力を充実させて、ぶつかっていこうとしていたのに、これではどうしても気遅れする。
網田も同じだった。
(バカめ、一体、何をしているのか)
中大兄はあせった。
石川麻呂は誰が見てもおかしくなっている。
このまま放っておけば、入鹿に感付かれるかもしれない。
(やるか)
咄嗟に決意した。
中大兄は剣を抜き、大声をあげて入鹿へ突進した。
「やあーっ」
入鹿も石川麻呂も母の女帝も、驚いて中大兄を見た。
中大兄は入鹿に斬りかかった。
だが、入鹿は簡単にこれをよけた。
「なにをなさる」
声には充分な心の余裕があった。
「命をもらう」
中大兄は血走った目で叫んだ。
「乱心召されたか」
「なにを!」
「その腰付きでは、とうてい人は刺せませぬぞ」
入鹿は嘲笑した。
「おのれ、覚悟」
中大兄は再び大上段から右手の剣を振りおろした。
だが、その剣は空を斬り、中大兄は勢い余って床に倒れ込んだ。
「乱心者を取り抑えよ」
入鹿が叫んだその時、柱の陰から無言の気合いを込めて突進してきた若者がいた。
漢殿である。
その漢殿の槍が、入鹿の胸をずぶりと刺し貫いた。
「ぐえーっ」
叫び声をあげる入鹿の体を槍ごと左へ払って、その反動で、漢殿は槍を引き抜いた。
鮮血が飛び散った。
入鹿はたまらず、床に手をついた。
そこへ子麻呂と網田も飛び出し、それぞれ一太刀浴びせた。
のけぞって苦しむ入鹿に、中大兄は今度は充分に狙いをすまし、脳天に一撃を加えた。
「ぐわっ」
頭から胸まで血だらけになった入鹿は、手探りで玉座の方へ向かい、その階《きざはし》の下で女帝を見た。
「わたくしめに何の罪がございましょう。お助け下さいまし」
女帝は驚き、顔をしかめて、中大兄に向かって言った。
「一体、何事じゃ」
「入鹿は、皇統を絶やして自ら帝位に即こうとしています。こんな下賤の者を帝位にのぼらすことなどできましょうか」
中大兄は胸を張って言上した。
その頬には血が飛び散っていた。
女帝は再び入鹿に視線を当てた。
「宝《たから》よ、助けてくれ」
入鹿は弱々しい声で叫んだ。
女帝の顔が怒りで赤くなった。
「宝」とは女帝の本名である。
その名を人前で呼ぶことは不敬の極みである。いや、人前でなくとも、呼べる者は誰もいない。
この世で最も高貴な存在である女帝の名を、そのまま呼べる者など、いるはずはない。
しかし、入鹿は呼んだ。
女帝と二人きりの時は、そう呼んでいるからだ。だが、女帝にとってみれば、実の息子や廷臣の居並ぶ前で、入鹿がその名を口にしたことが、許せなかった。
女帝は立ち上がり、奥の間へと消えた。
中大兄はうっすらと笑みを浮かべると、子麻呂と網田に向かって命じた。
「とどめをさして、外へ放り出せ」
まだ息のある入鹿の髪を子麻呂はわし掴みして体を起こすと、入鹿の胸に剣を突き刺した。
今度は悲鳴もあげずに入鹿は絶命した。
つい、先程まで、この国の大権力者だった男は、目をかっと見開いただけの物体になっていた。
(勝ったな)
中大兄はようやく勝利を実感した。
「兄君、よろしゅうございましたな」
漢殿が言った。
中大兄は不快げに、
「なぜ、指図もなく手を出した」
「——それは、兄君が危ないと思いましたので」
「余計なことを、そちの槍がなくても、勝っていたぞ」
「まあまあ、皇子様。お怒りでもございましょうが、ここは、ひとつ、この鎌子に免じてお許し下さいませ」
いつの間にか鎌子が来ていた。
「御苦労。そなたのおかげだ」
と、中大兄は一矢も放っていない鎌子の方には、ねぎらいの言葉をかけた。
「皇子様、皆の者にお言葉を」
鎌子は小声でささやいた。
中大兄ははっとして、
「見ての通りだ」
と、大声で言った。
「大逆の罪人は正義の刃に伏した。これから、わしは残党を討つ。われらは義軍だ。かまえて帰趨《きすう》を誤るでないぞ」
その惨劇に立ち合うことになった官吏たちは、黙って中大兄の言うことを聞いていた。
中大兄は子麻呂に命じた。
「何をしている、早く放り出せ」
「ははっ」
子麻呂が入鹿の両手を、網田が両足を持ち、外へ運び出した。
中門をくぐり、馬場へ出たところに、入鹿の従者がいた。
「大臣様」
駆け寄った従者を見ていた中大兄は、漢殿に声をかけた。
「あやつら、皆殺しに出来るか」
「出来まする」
漢殿は素早く走り寄り、三人をそれぞれ串刺しにした。
(使える)
中大兄は、その鮮やかな手並みを見て、あらためてそう感じた。
入鹿の死体は従者の死体と共に、宮門の外へ放り出された。
突然、ごおーっという音と共に、激しい雨が降ってきた。
入鹿はその雨に打たれたまま、放置されていた。
中大兄はただちに兵を集め、法興寺を本営と定めた。