もたらしたのは大極殿にいた官吏の一人である。
「なに、大臣が殺されたと」
古人大兄は寝耳に水の報に仰天した。
「はい」
「一体、誰に殺された」
「初め、漢の御方が槍をつけられ、続いて鎌子の従者が、そして中大兄皇子様が——。ただ、初めの一突きが最も深傷《ふかで》と見えました」
「では、韓人《からひと》が大臣を殺したのではないか」
古人大兄は叫んだ。
「ははっ」
「心が痛む。どうして大臣は殺されねばならなかったのか」
古人大兄は寝所に入った。
そして、そのまま誰にも会わぬと、引きこもってしまった。
入鹿の父|蝦夷《えみし》は、入鹿の死を知って悲しむよりも呆然とした。
まさか入鹿に反旗をひるがえす者が出るなど、思いもよらぬことだった。
「漢直《あやのあたい》を呼べ」
蝦夷はただちに命じた。
漢直は蘇我家の私兵隊長というべき存在である。
蝦夷は漢直に兵の召集を命じた。
一方、中大兄も兵を集めていた。
法興寺には、古人大兄を除くすべての皇子、それに官軍の将兵が集まってきていた。
(これなら勝てるな)
中大兄はほっとした。
母の帝は何も言わないが、入鹿が死んだ今となっては蘇我氏に肩入れする理由は何もない。
実の息子である中大兄、それに漢殿を支持するのは当然のことだ。
中大兄は、官軍の中で最も優れた将軍として定評のある巨勢徳陀《こせのとこた》に最も精鋭の兵を預け、蝦夷の館へ向かわせることにした。
「畏れながら、その前に、一つ打つべき手があるやに存じます」
鎌子が言上した。
「何をせよ、と申すか」
中大兄はけげんな顔をした。
この期に及んで兵力を動かす以外に、どんな手があるというのか。
「大臣の屍《しかばね》を、蝦夷のもとへ送り届けるのでございます」
鎌子は言った。
「そんなことをして、何の益がある」
「大臣家の士気が一挙に落ちましょう」
「落ちるかな」
「あの大臣が死んだと耳にしても、この目で見るまでは、なかなか信じられぬのが人というものにござりまする。そこへ屍を送り届ければ、誰もが大臣の死を疑わず、士気阻喪致しましょう」
「なるほど、では、門前に放り出してくるか」
「いえ、それよりは棺《ひつぎ》に納め、丁重に送り届けた方がよろしゅうござる」
「それは?」
「手荒い扱いをすれば、人は怒りまする。怒らせれば、味方になる者をみすみす敵に回します」
「なるほど」
中大兄は感心したが、徳陀将軍にも一応たずねた。
「そちはどう思う?」
「鎌子殿の策、しかるべしと考えまする」
「そうか、では、そう致そう」
中大兄は断を下した。
鎌子の策は当たった。
入鹿の屍を見て、蘇我家の兵は次々に脱走を始めた。
そこへ徳陀が兵を率いて駆け付け、降服する者の罪は問わないという布告を出した。
効果は抜群であった。
蘇我軍は戦わずして敗北した。
(なんということだ、蘇我家もこれまでか)
蝦夷は天を仰いで嘆息した。