中大兄は意外な言葉に驚いた。
「左様にございます」
鎌子《かまこ》はうなずいた。
二人の他に石川麻呂と漢殿《あやどの》がいた。
蘇我本宗家の打倒には成功した。今後の政治体制をどうするか。そのための密談が始まっていた。
その席で、鎌子は意外なことを口にしたのである。
譲位、すなわち母である今の帝の位を譲らせることだ。
遠く海の向うでは、そのような例があることを、中大兄は請安《しようあん》の教えで知っていた。
しかし、この国では例はない。
この国では、帝は終身にわたってその座にあるのであり、崩御して初めて皇太子がその座を継ぐ。過去の例を見ても、すべてそうなっているはずだ。少なくとも中大兄はその例外を知らない。その、この国始まって以来のことを、鎌子はやれと言う。
「では、わしには帝になれと?」
中大兄の言葉に、鎌子は首を振った。
今度は、石川麻呂も漢殿も意外な顔をした。
「なぜだ。新帝は兄君をおいて他にあるまい」
漢殿が言った。
彼の発言を好まない中大兄も、この時ばかりは、喜んだ。だが、鎌子はあくまでも首を振って、
「それは、よろしくございません。蘇我大臣に自ら剣をふるわれた皇子《みこ》様が、すぐに位に即《つ》かれては、とやかく申す者もございましょう。ここは一歩引かれ、皇太子の座のみ確かなものにされることこそ長久の道と存じます」
「では、帝には誰を?」
「軽皇子《かるのみこ》様にございます」
「叔父上か」
軽皇子は母の帝の弟で、年はもう五十を越えている。
つなぎ[#「つなぎ」に傍点]の帝としては格好かもしれぬ。
しかし、問題はあった。
「古人《ふるひと》が黙っているかな」
古人大兄皇子である。
蘇我入鹿が生きていた頃は、次の帝の最有力候補であった。
というより入鹿は、強引に古人大兄を位に即け、そのあと帝の位に自分がのぼる気でいたのだ。
もちろん古人大兄はそんなことは知らない。ただ自分の有力な後楯を滅ぼした中大兄を憎んでいる。
譲位が行なわれるとなれば、我こそはと名乗りを上げないとも限らなかった。
しかし、古人大兄を絶対に位に即けてはならない。
そんなことになったら、中大兄の立場はなくなる。
その危険性はないとは言えなかった。
何といっても譲位については、群臣の意見より当の帝の意志が第一だ。
入鹿を殺した中大兄への腹いせに、母がそういうことをしないとは言えない。
「お任せ下さい」
鎌子は言った。
「どうするのだ?」
中大兄の問いに、鎌子は意味有りげに笑い、漢殿を見た。
「——?」
「お力をお借り致します」
「何をせよ、と言われる」
漢殿は不思議な顔をした。
「わたくしに同道して頂ければよいのです」
「どこへ?」
「古人大兄皇子の館にございます」
「そうか」
漢殿は鎌子の意図を察した。
新体制についての打ち合わせが終わると、鎌子は漢殿と共に古人大兄の館におもむいた。
古人大兄は初め会おうとしなかったが、鎌子が次の帝のことにつき談合したい、と申し入れたので、さすがに受けた。
古人大兄は周囲を家臣に固めさせて、鎌子に会った。
「鎌子、大極殿では大した働きだったそうだな」
古人大兄は、鎌子と漢殿をにらみつけるようにして言った。
「おそれいります」
(入鹿を殺したのは、この男か)
古人大兄は漢殿を見るのは初めてだった。
(中大兄に似ている)
そのことが不快だった。
「次の帝のことと申したな」
「はい」
「臣下が、取沙汰することではあるまい」
古人大兄はぴしゃりと決めつけるように言った。
「取沙汰はしておりません。ただ、帝は御譲位なさるとうかがっております」
「譲位? 誰にだ」
古人大兄は、従兄である入鹿に少し似ている。その眼光は、入鹿ほどではないが、なかなか鋭い。
だが、鎌子はいささかもひるまずに、
「軽皇子様でございます」
「軽皇子?」
古人大兄は眉根にしわをよせて、
「なぜだ。わしも帝の位にふさわしいと思うが」
「御意、さればこそ参ったのでございます」
「——?」
「皇子様、もし帝より御譲位の御沙汰があっても、必ず御辞退なさいますように」
「なんだと」
古人大兄は怒った。
「無礼者! そちがそのようなことを口に出来る立場と思うてか」
「お怒りはごもっともなれど、これは皇子様の身を気付かってのことでございます」
「何と申す?」
「もし、帝の御位《みくらい》に即かれようとなさいましたら、必ず不幸がおとずれましょう」
「不幸とは」
「頓死《とんし》でござる」
「なに、何と申した?」
「帝の御位に即かれる前に、皇子様は頓死なさると申し上げたので」
古人大兄はしばらくその意味を考えていた。
そして、それが自分に対する脅しだと気が付いて、顔を怒りで真っ赤にした。
「ええい、黙れ。何という僭上《せんじよう》者めが、下がれ、下がれ。下がらねば成敗してくれるぞ」
「下がりまする。ただ、一つだけ御覧に入れたき業《わざ》がございます」
鎌子はそう言って、それまで一言も発しなかった漢殿を見て一礼した。
漢殿は衣の中に隠し持っていた手槍を出した。
古人大兄は驚いて、立ち上がろうとした。
その瞬間、漢殿は槍を投げた。
一同は驚愕した。
槍は古人大兄の頭の頂上をかすめるようにして、背後の壁に突き刺さったのである。
古人大兄は、あまりのことに、へなへなと腰を抜かした。
「もし、次の機会があれば、今度ははずしませぬ」
鎌子はそう言い、漢殿と共に素早くその場を去った。
「見事な手並みだな」
漢殿は馬上から、鎌子に声をかけた。
鎌子も轡《くつわ》を並べていた。
「いえ、あなた様こそ」
「脅しの手並は堂に入っている」
「おそれ入ります。これもひとえに皇子様のため」
「——それは、どうかな?」
漢殿が言ったので、鎌子は心外そうな顔をした。
「何を仰せられます」
「大極殿の庭で、わたしを待っていた時、そなたは何を考えていた?」
「——」
「わたしにはわかる、鎌子、そなたは頭が回り過ぎるのではないかな」
漢殿はそう言うと、一鞭くれて走り去った。
残された鎌子は、背筋に冷たいものが走るのを感じていた。