「どうしても譲位せよと申すか」
「はい」
「なぜじゃ」
「これまで、天津日継《あまつひつぎ》の座は群臣協議し推戴するものでございました」
中大兄は言った。
それは事実である。
帝の位は、帝が決める——中国ではそうだ。しかし、日本でそうならなかったのは、日本の帝が終身だからだ。終身のあいだ帝であり、生前に位を譲ったのは一例もない。したがって、次の帝というものは、前の帝が亡くなってから初めて決まる。生前、後継者は指名されてはいるが、その後継者が帝の位に即くのは、周囲に推されてという形をとる。
それをあくまで帝の一存で決める形をとろうというのが、中大兄の、いや鎌子の画策だった。
それは皇権の強化につながる。
だが、母の帝はなかなか納得しなかった。
前例がない。
そのことが、母の決断をためらわせている。
中大兄は言葉をつくして説得した。
入鹿を殺したことについては、母の帝は何とも思っていなかった。
入鹿が皇位を狙っていたというなら、そうかもしれないと思うし、仮にそうでなかったとしても、別に同情はしない。
女帝にとって入鹿は、行きずりの男に過ぎない。
しかし、中大兄は違う。
中大兄は自らの腹を痛めた子だ。
それが言うことを無下にしりぞける気にはならない。
「——わかりました。では、一つだけこちらの言うことも聞いて下さい」
「何でしょう」
「あの子を、皇子とすること」
「なりませぬ」
中大兄は不快感を露わにして言った。
「なぜです」
「これは母上のお言葉とも思えませぬ。あの者は父が皇族でない。そのような者を皇子と呼ぶことは出来ません。これはこの国始まって以来の掟ではありませんか」
「譲位も、この国始まって以来のことですよ」
「それとこれとは違います。もし、あの者を皇子と呼ばねばならないのなら、わたしは首をくくって死にまする」
「それは大仰な」
「本気です」
中大兄はきっぱりと言った。
女帝も返す言葉がない。
「——それでは、母上、譲位のこと、くれぐれもお願い致しましたぞ」
女帝は不承不承うなずいた。