女帝を中心に、中大兄、古人大兄、軽皇子らが列席し、朝廷の百官も集まっている。
女帝は全員の前で宣言した。
「朕《ちん》は帝の位を譲ることにした」
まず、驚きの声が上がった。
石川麻呂が進み出た。
「おとどまり下さいませ。いまや世の中は泰平にして、国に何の憂いもありませぬ。これはひとえに帝の御徳のなせるわざ」
これは予定の行動だった。
すんなりと譲位を認めたら、臣下一同それを待っていたことになってしまう。それでは女帝の立つ瀬がない。
ここで一度引き止めるのが礼儀というものである。
「いや、朕はこのところ多病にして、国内も平穏無事とは言い難い。ここは新たな帝を迎え、人心一新して、ことにあたるのがよいと思う」
女帝はそう言って、石川麻呂に視線を当てると、
「そなたは、次の帝に誰がふさわしいと思うぞ」
「——そ、それは」
石川麻呂はあわてた。
むろん軽皇子でいくことは衆議一決している。しかし、だからといって臣下の口から、誰それがいいとは言えない。打ち合わせでは、女帝が軽皇子に譲位することを宣言し、臣下がそれに従うということではなかったのか。
女帝から御下問があるなど、考えられないことだった。
一体どういうことなのか。
(母上は拗《す》ねておられる)
中大兄は気が付いた。
漢殿を皇子にすることが出来なかったので、嫌がらせをして、鬱憤を晴らしているに違いない。
「臣下の口からは申し上げられません」
石川麻呂はかろうじて言った。
「では、そなたはどう思う」
女帝は弟の軽皇子に聞いた。
(母上、いい加減になされい)
中大兄は苦り切った。
軽皇子も困っていた。
自分が次の帝に内定していることは、知らされていた。しかし、だからといって、「私が適任です」とは言えない。
「——古人大兄どのがよろしいのでは」
軽皇子はついそう答えた。
(まずい)
漢殿も鎌子も、そう感じた。
古人大兄は真っ青になって首を振った。
「御辞退致します」
「なぜじゃ」
「わたくしは帝の器ではない」
「だが、皆も、そなたがよいと申しておるようじゃ」
女帝の言葉に、古人大兄は、
「辞退致します。わたくし、このところ思うことあり、出家する覚悟でございます」
「出家」
女帝のみならず、一同は驚いた。
「まことか」
女帝は念を押した。
「尊い主上《おかみ》の御前で、嘘いつわりを申しましょうか」
古人大兄は一礼すると、そのまま足早に御前を退出してしまった。
中大兄は呆気にとられて、鎌子を見た。
鎌子は重々しくうなずいた。
「——母上、叔父上にお言葉を」
中大兄がそっとささやいた。
女帝は、何事もなかったかのように、
「では、帝の位は、わが弟、軽皇子に譲ることにする」
儀式は終った。
中大兄は、大極殿から出ると鎌子をつかまえて、柱の陰に引っ張った。
「冷汗をかいたぞ、先程は」
「わたくしもでございます」
鎌子もうなずいた。
「そなたのおかげだ。そなたが古人を脅しておいて——」
「しっ、お声が高うございます。何事も壁に耳ありでございますよ」
「そうだな」
「それにわたくしの手柄ではございません。漢の御方こそ勲功第一——」
「よせ、あの男のことは」
中大兄は苦々しく思っていた。
すんなり終わるはずだった儀式が、あれほどもめたのも、もとはと言えば、あの男のせいである。
「頭から決めつけられるものではございません。あの御方はこれからも使えまする」
鎌子は言った。
「使える?」
「はい、あれほどの手練《てだれ》、敵に回してはなりません」
「そうかな」
「そうでございますとも」
「そなたが言うなら、そうしておいてもいいが」
「そうなさいませ」
鎌子の言葉に、中大兄は納得はしなかった。
冷静に考えてみれば、入鹿暗殺も漢殿の手助けがなくば失敗したかもしれない。
しかし、そう認めたくはないのである。
「ところで皇子様。もう一つ手を打たねばなりませんな」
「——?」
「新帝のお后でございますよ」
「后なら既におるではないか」
中大兄はけげんな顔をした。
「はい、されど皇子様は今度は帝になられるのです。帝におなりになる以上、后は皇族でなくてはなりませぬ」
それは鎌子の言う通りだった。
帝の死後、皇后が皇位を継ぐことも考えられる。現に、今の帝がそうではないか。
「誰か、軽どのへ嫁がせるというのか」
「はい、間人《はしひとの》皇女《ひめみこ》様を」
「なに、我が妹を?」
中大兄は目を剥いた。
「——あれは、だめだ」
「いえ、ここは何としても、そうして頂かねばなりませぬ。皇太子のお名指しもまだ終ってはおりませぬ」
「だが、わしになることは決っておるではないか」
「一度、帝になってしまえば、人は変るものでございます。あの方には有間《ありま》皇子というれっきとした御子もございます」
「——」
「ぜひとも、この一件、御承諾下さいますよう」
鎌子は熱心に口説いた。