飛鳥から吉野までは、馬なら半日で行ける。ただし、それは入口までで、吉野川をさかのぼって宮滝へ行くまでには、まだ、しばらくかかる。
芋峠という飛鳥を見下ろす峠がある。
その峠の途中に至ったところで、漢殿は馬をつないで、木陰の石の上に腰をおろした。
愛用の長槍は手元にある。
日はまだ高かった。
今年は少し暑い。
九月になっても、朝夕は肌の寒さを感じない。
一陣の風に、漢殿は心がなごむのを覚えた。
古人大兄をこの手で殺さねばならないことに、まだ相当のこだわりがあった。
兄は、古人大兄に罪があるという。ならば官人をさしむければいいではないか。
どうして、このようなことをしなければならないのか。
(兄君は、失敗《しくじり》を恐れているのかもしれぬ)
古人大兄が、東国へでも逃げてしまえば、大乱の原因にもなりかねない。
その時、漢殿の耳に女の悲鳴が聞こえた。
(何事か)
「助けてーっ」
今度は、はっきり聞こえた。
漢殿は、槍を手に立ち上がり、声の方へ走った。
少女が走ってきた。髪を振り乱し、裸足である。
それを、二人の荒くれ男が追いかけてきた。
「何をしておる」
漢殿は大喝した。
二人の男は、びくっとして立ち止まった。
「お助け下さいまし」
少女が袖にすがってきた。
「もう、恐れることはない」
漢殿は男どもをにらみつけた。
「この野郎、ふざけるな」
男どもは、山刀のようなものを抜いて、斬りかかってきた。
「くたばりやがれ」
そう叫んだ最初の男を漢殿は槍を振って弾き飛ばした。
「こ、この野郎」
もう一人の男を、漢殿は槍の石突で突いた。
「ぐえーっ」
男は白目をむいて悶絶した。
「まだ、やるのか」
漢殿は槍をつきつけた。
男は荒い息遣いで、
「おぼえていやがれ」
と、もう一人の男を助け起こして、ほうほうの体《てい》で逃げて行った。
「ありがとうございました」
少女が礼を言った。
漢殿はそのとき少女を初めて直視した。
そして驚いた。
(何と、美しい)
まるで、野の白百合のような、清らかで目鼻立ちの整った少女であった。
漢殿は一瞬、我を忘れて少女の顔に見入った。
「あの——」
少女は伏し目がちに言った。
「——?」
「わたくしの顔に何かついていますでしょうか」
「——いや、何もついてはおらぬが。なぜだ?」
漢殿の問いに、少女は顔を赤くして、
「そんなに御覧にならないで下さい」
「いや、じろじろとなど見てはおらぬが」
今度は漢殿が赤面し、あわてて、ごまかすように、
「それにしても、そなた、か弱い女性《によしよう》の身で、こんな山の中へ一人で来てはならんな」
と、言った。
少女は顔を上げて、
「薬草を探していました」
「薬草?」
「はい、父が病いに倒れているのです」
「病い? どんな病いだ」
「あなた様は医術《くすし》の心得がおありですか」
「ある」
そんなに自信はなかったが、漢殿はきっぱりと言った。
少女の顔は、ぱっと輝いた。
「お願いでございます」
少女は漢殿の腕にすがった。
「——父を診《み》ては下さりませぬか。お願いでございます」
「よいとも」
漢殿は大きくうなずいた。