「どうなさったのです、心配致しましたぞ」
珍しく、なじるような響きがあった。
「すまん、よんどころない用事が出来てな」
「何か起こったのではないかと——」
「もう言うな。——それより、古人大兄様の様子はどうだった」
「はい、わずかな供を連れ、仏道修行に励まれております。討つのは極めて容易かと」
「仏道修行か——」
漢殿はつぶやくように言った。
その仏道修行に励む者を討たねばならない。
「行くぞ」
漢殿は馬に一鞭あてた。
虫麻呂は地を疾風のように走った。
吉野には夜に着く。
(早く片付けるか)
漢殿はそればかりを考えていた。
吉野の宮滝の奥に、古人大兄の仮住いがあった。
見張りの者など一人もいない。
「こちらです」
虫麻呂は、まるで自分の庭を案内するように、漢殿を導いた。
母屋から離れたところに、小さなお堂があった。
息をひそめて近付き、窓の中をのぞくと、青々と頭を刈りたてた僧が、仏像を拝んでいた。
つぶやくような読経の声がした。
古人大兄である。
漢殿はまた嫌になった。
この男はもう無害だ。しかし、やらねばならぬ。
「見張っていろ」
漢殿は虫麻呂に命じると、堂内に入った。
人の気配に気付いた古人大兄は振り返った。そして、漢殿に気が付くと、顔を蒼白にして後ずさりした。
「ひいーっ」
悲鳴があがった。
「お命を頂きます」
心の中にある後ろめたさが、その言葉を言わせた。
しかし、それは余計なことであった。
「助けてくれ。頼む」
古人大兄は合掌して、哀願した。
「だめだ」
無言で刺してしまえばよかったのである。
命を助けることなど有り得ないのだから。
なまじ言葉を交したために、心のひるみを漢殿は覚えた。
「助けてくれ、助けてくれ」
古人大兄は四つんばいになって、仏の側へ逃れようとした。
(ええい、仕方がない)
漢殿は槍を振りかぶるようにして、古人大兄の背中を刺した。
「ぐえーっ」
獣じみた叫びがあがった。
「わしは何もしておらぬ。わしは何も——」
古人大兄は叫んだ。
漢殿は槍を引き抜いた。
「痛い、痛い、早く医者を。助けてくれ、助けてくれ、助けてくれ」
血の海の中で、古人大兄はのたうち回った。
みっともない、とは露も思わない。
古人大兄には罪はない。
罪なくして殺される者の無念はいかばかりか。
(許されよ)
漢殿は古人大兄を追い、その胸にとどめの一撃を加えた。
古人大兄は、憎しみの目を見せたあと、絶息した。
なまじ恨みの視線を向けられたのが気楽だった。
「入ってはならぬ!」
虫麻呂の声がした。
堂の扉を開けてみると、古人大兄の妃がいた。
その顔が悲痛にゆがんだ。
「あなた」
堂内に駆け込もうとした妃を虫麻呂が止めようとした。
「行かせてやれ」
漢殿が言った。
妃が虫麻呂の手を振りほどくようにして堂内に入り、古人大兄の体にとりすがった。
漢殿はその姿から目をそむけるようにして、外へ出た。
号泣が聞こえた。