(これで枕を高くして眠れる)
中大兄は一安心した。
しかし、まだまだやらねばならぬことがある。
「この際、遷都したらどうかと思う」
それを言い出したのは、鎌子ではなく中大兄の方だった。
「遷都でございますか」
鎌子は、初め難色を示した。
「そうだ。人心一新のため、これに優《まさ》るものはない」
女帝からその弟の皇子に、皇位は譲り渡された。
譲位である。
この国にはかつてなかったことだった。
前は、先帝が崩御しない限り、代替りということはなかった。
また、新しい帝が立てば、すぐに遷都をした。先帝の死で汚れた都を捨てて、文字通り人心一新のため、都を換えていたのだ。
今度は初めてのことながら、譲位という形で新帝が立った。
ならば、それに合わせて都も遷すべきだというのが、中大兄の考えであった。
それに対して、鎌子は実のところ遷都には反対だった。
今は、新政を徹底すべき時である。
何事も金がいる。
遷都には膨大な費用がかかる。
何しろ宮殿も官衙《かんが》も、すべて新しく建て替えなければならない。
その一方で、今までの建物は全部捨てることになる。
移築するものもないではないが、移築も新築も、手間としてはそんなに変わらない。
民力も疲弊する。
都の移転に合わせて、民の多くも住居を移すからだ。しかも自弁である。
むしろ民力の休養をすべき時なのに、遷都とはいただけない。
だが、中大兄は頑強だった。
「皇子様、では一体どこへ都を遷そうとおっしゃるのです」
鎌子はたずねた。
「難波《なにわ》だ」
「難波でございますか」
難波は聖徳太子の建立した四天王寺もあり、まったくの未開地ではない。
いやむしろ、外交使節は難波に上陸して飛鳥を目指すのであるから、むしろ都に準じる市《まち》といってもいい。
しかし、官衙はない。
鎌子はそのことを言った。
新たな官衙を造るには、膨大な費用がかかることを。
「金? よいではないか。政《まつりごと》なのだ。政には費用を惜しんではなるまい」
「それはそうではございますが、金は地から湧き出てくるものではございません」
鎌子は説明しているうちに、あらためて思い知らされた。
中大兄は財政ということを知らない。
国の金には限りがあり、その金を上手に使っていかねばならないこと、そのうえで収入を増やす道を講じなければならないこと、それが政治である。
(皇子様として、何不自由なくお育ちになり、質素とか倹約とかいうことを御存じないのだ)
この皇子にとっては、官衙もおもちゃなのだ、ということに、鎌子は気付いた。
おもちゃはあきれば捨てることになる。
それだけのことだ。
「鎌子、遷都だけは何としてもやるぞ。工夫してくれい」
結局、この件は中大兄が鎌子を押し切る形になった。
意外なことに、新帝もその一件には賛成した。
どうやら、新しい帝として、前の帝の使った宮殿をそのまま使うのは、体面にかかわるという考え方のようだった。
(仕方ない)
鎌子は反対するのをあきらめた。
(だが、代替りのたびに遷都などというおろかしい習慣は一刻も早く改めねば)
その思いは強くした。
海の向うの唐では、そんなことはしていない。
むしろ永遠の都を作ろうという意気込みで、堅固な石造の建物を建て、皇帝が死んでも次の帝がそこに住む。
恒久的な建物であるからこそ何代も保《も》ち、何代も保つからこそ、替りの余分な費用は節約できる。
大きな富を持つ唐が節約をし、貧しい日本が浪費をする。
こんな不合理なことはない。
ほぼ一代ごとの遷都をはじめ、この国は不合理なことが多過ぎる。
それをなんとかしない限り、この国は大きくはなれない。強くもなれない。
鎌子は師の南淵請安をたずねた。
遷都はもはや動かしがたい。しかし、この改革にあたって、最も効果があり、最も初めになすべきことは何か。それを知りたいと思ったのである。
請安は、相変らず物静かに、さまざまなことを研究している。新体制では、僧|旻《みん》と高向玄理《たかむこのくろまろ》が国博士に任じられ、請安は引退していたが、政府の顧問格というべき立場にある。
「前途多難じゃのう。苦労が絶えぬことだ」
話を聞いた請安は、おもむろに口を開いた。
「おそれいります」
鎌子は頭を下げて、
「まずは、この国をよりよいものにするために、何をなすべきか、お教え下さいませ」
「そなたにはもう教えてある」
「はっ?」
「よう思い出してみなされ。唐の国の政の仕組みを」
「はあ」
鎌子《かまこ》は首をひねった。
「根本のことは一つ、わかりませぬかな?」
請安は微笑を浮かべて言った。
「公地公民、これが唐の政の骨髄じゃ」
「公地公民」
鎌子は思わず鸚鵡返《おうむがえ》しに言った。
請安はうなずいた。
「されど、左様なことができましょうか」
「唐では既になされておる。土地とはそもそも公けのもので、人一人が私《わたくし》すべきものではない」
「それは、仰せの通りかもしれませぬが」
鎌子は内心首を傾《かし》げていた。
大王家《おおきみのいえ》の権威は、まだそこまで達していない。
大王の立場は、この国の氏族の連合体の盟主ともいうべきものである。
各氏族はそれぞれ自分の領地と領民を持っている。大王家も固有の領地と領民を持っている。
いわば、この国は私地と私民の固まりであって、公民などというものは無い、公地も存在しない。
大王家ですら、大王家直属の私地私民を持っているだけで、公地公民という概念はない。
(とても無理だ)
と、鎌子は思った。
そのためには、まず各地の豪族に領地と領民を差し出させねばならぬ。それは有り金残らず巻き上げるようなものではないか。
豪族たちが黙っているはずはない。
下手をすると大反乱が起こる。
「まあ、待ちなさい。物事には順序というものがある」
請安はおだやかに言った。
「順序と申しますと」
「いきなり公地公民を成そうとしても無理なこと。まずは部曲《かきべ》と田荘《たどころ》を廃することとしてはどうかな」
「——?」
鎌子は、また首をひねった。
部曲は豪族の私民、田荘は豪族の私地——その両方を廃するとは、全部取り上げることに他ならないではないか。
請安は笑みを浮かべた。
「知恵が無いのう。まず、一度は部曲も田荘も大王家に納めさせる。その上で、食封《へひと》として与えればよい」
「では、名を改めるだけということになりませぬか」
「左様。だが、名を改めることこそ、改革の手始めと申すべきじゃ。何事も一朝一夕にはならぬ」
不服顔の鎌子に、請安は言ってきかせた。
田荘を廃すと言えば豪族たちは怒るに違いない。しかし、そこは説得の仕様があるだろう。田荘のかわりに食封を、部曲のかわりには布帛《きぬ》を与えると言えばよい。
豪族は自分たちの所有物を一時的に国に差し出す形になるが、すぐに同じ物を与えられたことになる。
いわば金と物の持ち数は減らないのである。
だが、それは今後、あくまで大王家から与えられたという形になる。
それが大切なことなのだ。
「それは、ただのごまかしではありませんか」
鎌子が言うと、請安は少しむっとした表情で、
「わからぬかのう。それが手始めなのじゃ。いまは名のみでも、子や孫の代になれば、当たり前になる。そこが肝心かなめのところじゃよ」
「なるほど」
鎌子は思わず膝を打った。
言われてみれば、その通りだ。
子の代に当たり前のことは、さらに変えられる。
本当の公地公民へ踏み込んでいけるのだ。
「先の長い話でございますな」
溜息をつく鎌子に、請安はおごそかに言った。
「それが政事《まつりごと》というものじゃ」