名を十市《とおち》とつけた。
額田は、子を生んでから、さらに美しくなった。
漢殿は、この母娘と一緒に過ごしている時が、何よりもうれしい。
額田には歌の才能もあった。
「そなたの歌は、何というか、人の心の真実《まこと》を写しているような」
「それは、買いかぶりというもの」
額田は、寝台に寝ている嬰児《あかご》を見て、微笑しながら言った。
「そうかな」
漢殿は満足していた。
ここ数年は、何事もない平穏の日々だ。
兄の中大兄も、自分の存在を無視している。
しかし、それでいいのだ。
兄が、自分を役立てようとすると、ろくなことはない。
だから、漢殿は難波の宮にも館を移さず、こうして飛鳥の地にとどまっている。
だが、その平穏は次の瞬間破られた。
騒がしい物音がした。
馬のいななきもする。
「こんな夜更けに誰かな」
不吉な予感がした。
「皇太子《ひつぎのみこ》様がお見えです」
召使があわてて伝えに来た。
「兄君が——」
中大兄は案内も乞わずに、ずかずかと館の中に入って来た。
「久しいな」
中大兄はそう言って、額田の方を見た。
その表情に驚きが走り、ついで、ほころんだ。
「ほう、これは妻女か、なかなかの美形だな」
「恐れ入ります」
漢殿は頭を下げた。
「これほどの美女を隠しているとは、いやはや隅に置けぬやつよ」
中大兄はそう言って、額田を遠慮なく見た。
額田は恥じ入るように目を伏せた。
「ときに、何か急ぎの御用件でございますか」
漢殿は、中大兄の注意をそらしたいがために、言った。
中大兄は真顔に戻って、
「そうだ。内密の話がある」
「では」
漢殿は目くばせをした。
額田は嬰児を抱いて別間に去った。
中大兄は漢殿と向かい合わせに座った。
「そちの目は来ておるか」
「は?」
「虫麻呂よ。あやつは控えておるのか」
「は、おそらく近くにいるものと」
「虫麻呂、聞こえたら、返事せい」
中大兄は少し大きな声を出した。
「——お足許におりまする」
床下から声がした。
中大兄はぎょっとして、足を少し引きながら、無理に笑いを浮かべた。
「相変らずだな。では、話を聞け」
「かしこまりましてございます」
中大兄は漢殿に言った。
「左大臣阿倍内麻呂を始末してもらいたい」
そこらの物をどけてくれと言うほどの、何気ない口調である。
漢殿は驚いて、
「始末と申されますと、殺すので?」
「無論だ」
「何故でございます」
「理由《わけ》を話さねばいかんのか」
「ただの庶人ならいざ知らず、左大臣ともなりますれば、理由をおうかがいせねば」
中大兄は漢殿をにらみつけるように言った。
「見せしめのためだ」
「見せしめ?」
「そうだ。かの者は、人臣第一等の身分でありながら、帝のお言葉に従わぬ。これではしめし[#「しめし」に傍点]がつかぬ」
「罰すればよろしいではございませぬか」
「それゆえ、そなたに頼んでいる」
「しかし——」
漢殿は反発して言った。
それでは暗殺になる。
公権力者のやることではない。権力者は権力者らしく、公けの力を振るえばよいのではないか。
「それができるなら苦労はせぬ」
中大兄はうめくように、
「今、左大臣を公けに罰すれば、朝廷は動かなくなる。根が深いのだ、この騒ぎは」
「それで、殺すのでございますか」
「そうだ。逆らう者は命長らえぬ。これこそ、国を保つ道」
「請安《しようあん》先生は、そのように申されたのですか」
漢殿は思わず言った。
南淵請安は既に亡い。後任の国博士には高向玄理《たかむこのくろまろ》が就いている。だが、請安の教え、時に徳を以て世の中を治めるという徳治主義は、中大兄の胸に刻まれているはずだ。
「先生に教えを受けたこともないくせに、生意気なことを言うな」
中大兄が怒鳴った。
漢殿は頭を下げて、
「申しわけございませんでした」
と、ただちに謝った。
「それでよい。左大臣を討つこともよいな」
「それは——」
「聞けぬと申すのか」
「一族皆殺しでございますか」
おそるおそる漢殿はそれを聞いた。
古人大兄殺しの時の後味の悪さは、今も残っている。
ときどき夢に見るほどだ。
血だらけで許しを乞う古人大兄、憎しみに燃えた古人大兄の妻の眼——あんな思いは二度としたくない。
「今度は、左大臣だけでよい」
「まことに?」
「そうだ。女子供には手はつけぬ。阿倍の家はそのままに残す」
漢殿は思わずうなずいていた。
「よいな。騒ぎにならぬように。だが、家人には殺されたとわかるようにせよ」
中大兄は平然と難題を押しつけた。