漢殿は自慢の槍を磨いていた。
この槍が血を吸うのは、五年ぶりのことになる。
虫麻呂の気配が床下からした。
「どうだ、左大臣家は」
「あれなら、何の苦労もいりませぬ。忍び込むことはたやすいことでございます」
「そうか」
「でも、御主人様——」
「何だ、何か言いたいことがあるのか?」
「いえ」
虫麻呂は否定したが、何を言いたいのか漢殿にはわかっていた。
兄の道具になるな、ということだろう。
しかし、断わってどうなるのか。
相手は次の大王なのである。
(逆らった時、兄君より恐ろしい人はいない)
本当は年下の中大兄に、漢殿はときどき深い恐怖を感じる。若いが、中大兄ほど恐ろしい人間は、この国にはいないかもしれない。
「行くぞ」
漢殿は虫麻呂に言った。
これから難波の都へ行き、仕事を済ませて帰ってくれば、夜明けになるだろう。やりたくはないが、やる以上は一刻も早く終わらせたかった。
兄が去った夜、すぐに虫麻呂を左大臣家に送った。様子を探るためだ。
その虫麻呂が戻ってきて、まだ半日しかたっていない。
家族は先に休ませた。漢殿は忍び足で外へ出た。馬は、虫麻呂が少し離れたところにつないだ。
漢殿は槍を片手に忍び足で歩いた。
妻や子には知られたくない。
仕事は手早く済ましてしまおう。そして、一刻も早く帰ってくるのだ。
そうするより他にないではないか。
漢殿は、ふと前方に人の気配を感じた。
(何者)
まさか左大臣家の手が回ったわけではないだろうに。
漢殿は、槍を手に身構えた。
「そこにいるのは誰だ」
星明かりが少しあった。
相手に殺気はない。
夜目に輪郭がはっきり見えた。
女の形である。
「あなた、どこへ参られるのです?」
額田の声だった。
(どうして、こんなところに)
漢殿は当惑を隠し切れなかった。
漢殿は黙っていた。
答えようがない。
どうして愛する妻に、これから左大臣を殺しに行くのだと言えようか。
額田は近付いて来た。
漢殿は槍をおろし、背後に隠すようにした。
「どちらへ?」
額田は、再び問うた。
「——兄君、いや、皇太子様の御用でな」
漢殿は、できるだけおだやかな態度を見せようと努力した。
「どんな御用です?」
「そなたは知らなくともよい」
「——」
額田の視線は槍に注がれていた。
漢殿は心のひるみを覚えた。
だが、行かねばならない。
「夜は冷える。邸の中に入っておれ」
「いつ、お戻りになります?」
「わからん。が、できるだけ早く戻る」
それは本心である。
「お気をつけて、行かれませ」
額田は深く頭を下げた。
「うむ」
漢殿は、うしろめたい思いを隠して、その場を去った。
左大臣家には、警戒らしい警戒はなかった。
漢殿は虫麻呂と共に、やすやすと侵入した。
寝台のところで、すやすやと寝入っている阿倍左大臣の頬《ほほ》を、漢殿は槍の穂先で軽く突いた。
「——う、何者?」
左大臣は目をさまし、驚いて言った。
「ごめん、お命を頂く」
漢殿は、槍をいったん引いて、そのまま、ずぶりと胸に突き込んだ。
悲鳴を上げて、左大臣は突っ伏した。
「行くぞ」
漢殿は虫麻呂に声をかけて走り、塀を乗り越えると、邸内を振りかえった。
「——?」
虫麻呂は、不思議そうな顔をした。
もう用済みではないのか。
一刻も早く引き上げるべきだ。
漢殿は、夜目にも、少し笑ったように見えた。
「邸内の皆様方に申し上げる」
漢殿が大音声を張り上げたので、虫麻呂は度肝を抜かれた。
「ただいま、左大臣殿を討ち果たしたのは、帝の御内意である。帝は、騒ぎさえ起こさねば阿倍の家はそのまま残すと思し召されておる。くれぐれも騒がぬことだ」
そう言い捨てて、漢殿は、もう走り始めていた。
虫麻呂はあわてて後を追った。
「聞こえたかな」
馬に乗った時、漢殿は、つぶやくように言った。
「驚きました」
虫麻呂は、馬上の主人を見上げて言った。
「なに、他に方法がなかったのだ」
さらりと言う漢殿に、虫麻呂はあらためてこの人についていこうと思った。