「何事じゃ」
帝は露骨に不快そうな顔を見せた。
「一大事でございます」
中大兄は張りつめた表情で言った。
「一大事?」
「右大臣蘇我倉山田石川麻呂に謀反の企みありと、訴人がございました」
「何、むほん、じゃと」
帝は、眠気もいっぺんに覚める思いだった。
「ま、まことか」
「はい、確かでございます。これに控えおります者は、蘇我日向《そがのひむか》、かの石川麻呂の弟にございます。——これ、申し上げよ」
中大兄は日向に言った。
日向はかしこまって、
「兄石川麻呂は、いまの政事《まつりごと》に対して、かねてより不満を抱いておりましたが、先般、左大臣殿の頓死があり、それで畏れ多くも皇太子様の弑逆《しいぎやく》をはからんと思い立ったのでございます」
「何、皇太子を殺すとな」
帝は、まだ信じられなかった。
「弟が、かように兄のことを申し上げておるのでございます。謀反の事実はまぎれもないところ、ただちに討伐の兵を差し向けられますように」
中大兄は声を大にして言上した。
「待て待て、物事には順序というものがある」
帝はあわてて言った。
「何をなさると仰せられるので?」
「詰問使を出す」
「詰問使、これはまた悠長な」
中大兄は呆れたように、
「謀反を企てている者が、詰問使の問いに、左様でございます、謀反を企てておりますと、申すでしょうか」
「——」
「ただちに討伐の兵を」
「皇太子、石川麻呂はそなたの舅《しゆうと》にもあたるのだぞ」
帝の言葉に、中大兄は一瞬返す言葉を失った。
「とにかく、詰問使を出す。すべてはそれからだ」
帝は断を下した。
ただちに、石川麻呂の邸に、詰問使が派遣された。
石川麻呂は、右大臣辞任の決意を固めていた。そして身辺の整理をするために、難波の邸に戻っているところに、突然詰問使の訪問を受けた。
それは石川麻呂にとって、まったくの寝耳に水の驚きだった。
「まったく身に覚えのないことでござる」
詰問使の問いに、石川麻呂はそう言い切った。
無論、本心である。
叛逆など露ほども考えたことがない。
そんなことをすれば、一族全滅の運命が待つだけだ。
(そんなことをするはずがないではないか)
石川麻呂は、あまりのことに、反論する気力すら萎《な》えた。
子もいる、孫もいる。
中大兄のところに嫁いだ娘は、二人の孫を生んでいる。上の娘はもう一人をはらんでいる。臨月のはずだ。
生まれてくる子の運命を暗転させるようなことを、するはずがないではないか。
「すべては帝に申し上げる」
石川麻呂は言った。
中大兄はだめだ。
あの皇太子は人を疑い過ぎる。
(人を殺すことで権力《ちから》を得た者は、同じ形で奪われることを恐れるのかもしれぬ)
石川麻呂はふとそう思った。
詰問使は帰って報告した。
「すべて、朕《ちん》の前で、と申したか」
帝はうなずいて、
「ならば、急ぎ参内させよ、朕は待つ」
「なりませぬ」
横から中大兄がさえぎった。
「なぜか」
帝は心外そうに言った。
「石川麻呂が、それほど参内したがるのは、何か悪計あってのことと見ました」
「悪計——」
「そうです」
「では、どうする?」
「兵を差し向けるべしと考えます」
「待て、それはまだ早い」
帝は二回目の詰問使を差し向けた。
「包み隠さず申すがよい」
詰問使は高飛車に言った。
帝の内意を受けてのことだ。
ただ、詰問使は誤解していた。
帝はよく言い分を聞いて参れ、と命じたのである。必ずしも謀反人と決めつけているわけではない。
しかし、詰問使は頭からそう決めていた。
そもそも疑いがあるから、使者として派遣されたのだ、と思っている。
石川麻呂も誤解した。帝の真意がわからず、やはり疑われているのだと思った。
(もはや弁明はかなわぬか)
絶望の中で、石川麻呂は藁《わら》にもすがるような思いで言った。
「帝に拝謁したい」
詰問使は首を振った。
「申し上げることがあれば、今、述べられよ」
「——」
石川麻呂は沈黙した。
何を言っても駄目だと、観念したのである。
「いかが、された?」
「——帝に申し上げてくれ。右大臣は辞めて、山田へ引きこもりますとな」
石川麻呂は、かろうじて、それだけを言った。
「いよいよ、謀反のこと、まちがいなし」
詰問使の報告を聞いた中大兄は、勢い込んで言った。
帝は沈黙していた。
左大臣が死んで十日もたたぬのに、今度は右大臣を討伐せねばならぬ、とは、どうにも気が進まなかったのである。
中大兄は強引に帝を説得した。
「反乱は芽のうちにつみ取るというのが、古今の鉄則でございます。御決断を」
「止むを得ぬ」
帝はしぶしぶ断を下した。
中大兄は既に、宮廷の兵をいつでも出動出来るように整えていた。将は日向である。兵はただちに右大臣邸を囲んだ。
そこに石川麻呂がいないとわかると、軍勢は山田寺に向かい、そこも包囲した。
石川麻呂は金堂にこもっていた。
「父上、帝の兵が、この寺を囲んでおります」
興志は血走った目をしていた。
石川麻呂は仏前に合掌したまま動かない。
「理不尽でございます。われら兵をたばねて、かなわぬまでも戦いましょう」
「ならぬ」
石川麻呂は一言のもとにはねつけた。
「なぜですか」
興志はいきり立った。
「それでは、本当の叛逆になる」
「しかし、帝は父上のことを誤解なされておる」
「それゆえ、お疑いを晴らすためにも、さからってはならぬのだ」
石川麻呂は仏像に一礼すると、静かに立ち上がり、金堂の階《きざはし》のところへ出た。一族の者が集まっていた。
「皆の者、よく聞け」
石川麻呂は声を上げた。
「わしは帝より、あらぬ疑いを受けた。だが天地神明にかけて無実だ」
すすり泣きの声が聞こえた。
「だが、その疑いを晴らす術《すべ》はない。それゆえ、わしは自害する」
すすり泣きの声が一段と高まった。
「幾度、生まれ変わろうとも、君主《きみ》を怨むことはない」
それが石川麻呂の遺言になった。
石川麻呂は仏前で首をくくった。
妻や長男の興志など八人が後を追った。
しかし、中大兄は容赦しなかった。
兵士に命じて石川麻呂の遺体を取り出させると、その首をはね、体を斬り刻ませた。
さらに、連座として、一族の男十四人を斬殺し、女は絞殺した。
そのうえ十五人を流罪に処した。
都は、この苛烈な処置に、震え上がった。