遠智娘は目を真っ赤に泣き腫《は》らして抗議した。
「謀反のたくらみがあったからだ」
中大兄は、そっぽを向くようにして、言った。
「うそ、父がそんなことを考えるはずがありませぬ」
「いつわりではない。その証拠に、日向が訴人した」
「日向の言葉など信じられませぬ」
「あの者は、そなたの叔父ではないか」
「父とは、生まれた母が違います。父も、あの者を嫌っておりました」
「——」
「日向は、父をねたんでいたのです。日向は、嘘を言ったに違いありません」
「黙れ、もう終わったのだ」
中大兄は怒鳴りつけ、一転して猫撫で声で、
「それより、腹の子を大切にせよ。もうすぐではないか」
と、言った。
「父を、父をお返し下さい」
泣き叫ぶ遠智娘の顔が、突然苦痛にゆがんだ。
「どうした?」
異変に気付いた中大兄はあわてて、遠智娘を抱き止めようとした。
遠智娘はそのまま床に崩れ落ちた。
「誰かある、誰か」
中大兄は叫んだ。
産気づいたのである。遠智娘は、そのまま奥に運ばれ、非常な難産の末に、男の子を産み落とした。
中大兄は喜んだ。
女の子はいるが、男の子は初めてだったからだ。
だが、遠智娘は死んだ。
産後の肥立ちもよくなく、それに父の死、兄弟の死という出来事が重なったからだろう。
しかも、さらに不幸が重なった。生まれてきた子供は、口をきくことができない身体だったのである。
「石川麻呂の祟りか——」
さすがに中大兄も肩を落とした。この国では中大兄をはじめとして皇族も庶民も、こういうことは死霊の祟りであると深く信じていた。
石川麻呂の財産はすべて国庫に没収されることになったが、その中で珍宝や重宝の類いにはすべて付箋がついていた。
「皇太子様のもの」
付箋にはそう書かれてあった。
それを知った中大兄は後悔し、訴人した日向を九州へ流すことにした。