漢殿はそのことが、どうしても不可解であった。
石川麻呂が謀反を企てていたなどとは、到底信じられないことである。
石川麻呂は二人の娘を中大兄に嫁がせ、反抗する心などみじんもなかった。
それなのに、どうして殺したのか。
(日向の訴えを信じたのか)
いや、それも有り得ない。
もし、信じたとしたら、日向に対する処罰はもっと過酷なものだったはずだ。
つまり、朝廷は公式には、日向の訴えは讒言《ざんげん》だったという立場を取っている。だからこそ、日向を罰した。
石川麻呂の謀反が本当だったとすれば、朝廷はむしろ日向を重く賞しなければならない。
しかし、そうはしなかった。
それは、日向の訴えを讒言と認定したからだ。
だが、それならばそれで、日向をもっと厳しく罰するべきなのである。
日向の言葉によって、石川麻呂以下一族の者が何人も殺された。
その罪は大きく重い。
それを中大兄は、九州への流罪という、比較的ゆるやかな措置で済ませた。
(やはり、兄君は知っていた)
そう言わざるを得ない。
いや、ひょっとしたら、もっと恐ろしいことも考えられる。
(いや、まさか、いかに兄君とはいえ、そこまではすまい)
そう思いたかった。
石川麻呂をおとしいれるために、日向に偽りの訴えをさせる。
そして、それが真実ではないことを百も承知で、石川麻呂を討つ——そんなことをしたとは思いたくない。
「御主人様——」
虫麻呂の声がした。床下である。
「どうだった?」
「やはり御推察の通りでした」
虫麻呂は言った。
「そうか」
漢殿は暗澹たる思いにとらわれた。
そうだったのだ。
中大兄は日向を使って、石川麻呂をおとしいれたのである。
(何ということだ)
改革の理想は血にまみれた。
所詮、血で得られた成果は、より多くの血を流すことでしか守られないのか。
(兄君は血に飢えておいでになる)
漢殿はそれを痛切に感じた。
これから先、中大兄はまっしぐらに突き進み、邪魔する者は蹴散らさずにおかないだろう。
(しかし、これでいいのか、本当に)
漢殿は不安を打ち消すことができなかった。