妻の声に漢殿《あやどの》はふと我に返った。
海の見える丘の上の邸宅であった。
このところは血腥い仕事もなく、漢殿は平穏な日々を送っている。
しかし、皇太子の「実弟」でありながら、公職には一切就いていなかった。
本当は年上の「弟」を、中大兄が煙たがっていることは、まちがいない。
「いや、帝が新羅の使いを追い返したということをな——」
漢殿は椅子に座ったまま、妻の額田《ぬかた》の方をかえりみて言った。
「考えていたのだ」
「新羅はお嫌いですか?」
額田は聞いた。
「いや、そうともいえぬ」
そう答えて漢殿は苦笑し、
「兄君はお嫌いだがな」
と、付け加えた。
額田は隣に座った。
「なぜでしょう。やはり、唐の風に変えた国だからでしょうか」
「それもある」
漢殿はうなずいた。
「——だが、それだけではない」
「——?」
額田はけげんな顔をした。
「兄君は、そもそも新羅が嫌いなのだ」
「なぜでございましょう」
「——」
漢殿はすぐには答えず、窓の外を見た。
広い海がどこまでも続いている。
「言っておかねばな」
そう言い、漢殿は妻の方へ視線を戻した。
「なぜ、わたしが兄君の弟でありながら、皇族としての待遇を受けられぬと思う」
「——」
「うすうす察しはついておろう。それはな、わが父が異国《とつくに》の人だからだ。それゆえ、母はこの国の天津日継《あまつひつぎ》でありながら、わたしはその一族に迎えられることもない」
「あなた様のお父上は何とおっしゃるのですか?」
額田は夫を正視して言った。
「知らぬ」
漢殿は首を振った。
「御存じない?」
「うむ、知らぬのだ。母上は御名も教えて下さらぬ。ただ、人伝てに聞いたところでは、新羅の国の王族らしい」
「王族?」
「そうだ。この国に使いに来て、母上と恋に落ちられた。それで生まれたのが、このわたしというわけだ」
額田は黙って聞いていた。
漢殿の方が拍子抜けしたように、
「驚かぬのか」
「いいえ」
「なぜ?」
「何かあるとは思っていましたから」
額田はそう言って、
「でも、あなた様はあなた様、誰の御子であろうと、どうでもいいのです」
と、付け加えた。
「そうか」
漢殿の顔から笑みがこぼれた。