以前、飛鳥に都があった頃は、頻繁に訪れていたものだが、難波に都が遷ってからは足が遠くなっていた。
しかし、ここは中大兄がくつろげる、数少ない場所の一つである。
中大兄には友人というものが、ほとんどいない。
この国で、帝に次ぐ地位にいるためであった。
幼い頃の友人も、この頃は会うことすらない。
その点、豊璋は何事も気楽に話せる相手だ。
百済の王族であるゆえに、身分のことは気にしなくて済む。しかも、日本育ちの豊璋には政治的野心というものが、まったくない。もっとも、この点については、中大兄はかえって物足らなさを覚えるほどだった。
祖国百済のことを考えるなら、飛鳥の地にとどまっているより、難波の新都に移って朝廷に足繁く出入りすべきだろう。
(それなら、もっと酒を汲み交すこともできようものを)
中大兄は思い切って、それを言ってみた。
「豊《ほう》どの、どうかな、都に土地を進ぜるゆえ、住まわれたらいかがか」
豊璋は微笑を浮かべて首を振った。
「いえ、わたくしはむしろ都でなくなった飛鳥の方が性に合っております。もともと人のにぎわうところは嫌いなのです」
「だが、それでは、この国へ来た意味があるまい」
「と仰《おお》せられますと?」
豊璋はけげんそうな顔をした。
「そなたは百済の大使だ。百済からの船も難波にやってくる。そのような者共とも交わりを深め、国の利益をはかるのが、お役目であろう」
「それはそうですが——」
と、豊璋ははにかんだような笑みを浮かべて、
「いいのです、もうそんなことは」
「いい?」
中大兄は不審気な顔をした。
「はい、わたくしにはむしろこの日本が祖国のようなもの。わたくしは百済のことはほとんど覚えておりませぬ。なじみのないところなのでございます」
「されど、父祖の国であろう」
「左様ではございますが、わたくしはその父祖に捨てられた者でございます」
「——」
中大兄は黙った。
確かに日本と百済両国の親善のためと言えば、聞こえはよいが、実際は人質として豊璋はこの国に送られてきた。それを「捨てられた」と解するのは、あながちまちがいでもない。
「わたくしはこの地で蜜蜂を飼っている方が、気楽でございます」
「王になりたいとは思わぬか」
「王などと、滅相もない。兄たちとは違いまする」
「兄上は何人おられたかな?」
「二人です。いや、もう少しおるかもしれぬ」
と、豊璋は笑った。
実際、王の妻は一人ではない。従って子供も沢山いる。
「いずこも同じだな」
中大兄は卓の上に置かれた酒に手を伸ばすと、ずばりと尋ねた。
「豊どのが王になることは、あるのか?」
「まさか」
豊璋は真顔で否定した。
「なればよいのにな。なれば、わしは応援するぞ」
中大兄は顔を赤くして言った。
少し酔っているのかもしれなかった。
「いま、王になりたいとは思いませぬ。いまの王は大変だ」
「唐か」
「はい、それに新羅も。おそらく父も、心の休まる時がないはずです」
「だろうな」
中大兄は杯をあおると、
「それにしても許せんのは新羅だ。唐の手先となるとは」
「仰せの通りです」
「そなたが王となって新羅を討てばよい。わしも兵を貸すぞ」
「おたわむれを」
「たわむれではない!」
中大兄の目は座っていた。
「いまのうちに、唐を牽制しておかねば、大変なことになる。あの国のやり口はわかっている。まず手先をつくり、その手先と敵を争わせる。そして争わせた後に、今度は手先を討つ。いつものことだ」
「まことに」
「さればこそ、そなたが王になれば、助けると言うておるのだ」
「ははは、お志はありがたく受けておきましょう」
豊璋は頭を下げた。
「われらは兄弟の国だからな」
中大兄は満足げにうなずいた。
(それにひきかえ、新羅のやり口はどうだ)
中大兄の憎しみは、当然新羅の血を引く者へも向けられている。
漢殿もその一人だ。
(いずれは斬るか)
このところ、そこまで考えることが多くなっている。そんな中大兄を現実に戻したのは、都からの急使だった。
「ただちに帰廷せよ、との帝のお言葉でございます」
「一体、何事だ?」
中大兄の問いに、使者は首を振った。
「存じませぬ。ただ、ただ、早く帰れとのお言葉にございまする」
使者は堅い表情で答えた。
「そうか」
中大兄には、さほどの大事とも思えなかった。
(帝にも困ったものだ)
とすら思っている。
中大兄は心の中では帝を侮っていた。
あくまで自分が即位するまでのつなぎ[#「つなぎ」に傍点]であり、妻を寝取られているとも知らない哀れな初老の男でもある。
(まあ、いい。とにかく、急げというのだから行ってやるか)
中大兄は豊璋に別れの言葉を言って、ただちに馬に乗った。
都への道を急いでいると、今度は通りの真ん中に若い男が現われ、平伏した。
「何者だ!?」
中大兄は刀の柄に手をかけて聞いた。
油断はできない。
「内臣《うちつおみ》様からの使者にございます」
顔を上げて若い男は言った。
「鎌子の?」
中大兄は首を傾げた。
鎌子が一体何用だと言うのだろう。
「これをお読み下さいませ」
男が懐中から書状を差し出した。
馬丁の豊人が受け取って、馬上の中大兄に渡した。
中大兄はそれを開いて一読し、真っ青になった。
「何事でございます」
豊人は、中大兄のあまりの表情の変化に、そう聞いた。
「——都へは、うかつに入れぬ」
中大兄はうめくように言った。
「——?」
「とにかく、都へは行けぬ」
中大兄はもう一度繰り返した。