「これは、いかがされたのか」
漢殿は驚きながらも、鎌子を奥に通した。
鎌子が直接自分のところへやって来るなど極めて異例の事態である。
「内密の御相談が」
鎌子は切羽詰っていた。
漢殿は召使を遠ざけた。
「いかがされたのか」
「——皇后様と皇太子様のことが、帝に知れました」
「——?」
何のことだ、と漢殿は思った。
中大兄が、実の妹である間人皇后と情を通じていることなど、漢殿はまったく知らなかった。
説明を受けて、漢殿は怒るよりむしろ呆気にとられた。
(それにしても兄君らしい)
後のことは知らないとばかりに、自分の思うように突っ走る。
周囲の思惑など、はなから考えていないのである。
「それで、帝は?」
気がかりなのは、帝の反応である。
「お怒りです」
鎌子は、まずそれを言った。
「そうであろうな」
「皇太子様をとらえ、首を斬るとまで申されています」
「まさか、本心ではあるまい」
「いいえ」
鎌子は首を振った。
「今は、少なくともそうです」
「——」
「それゆえ、しばらく身を隠して頂くのが、よろしかろうと存じます」
「お怒りが鎮まるまで、待つというのだな」
「御意」
「それで、わたしに何をしろと」
「万一に備えて、皇太子様の身をお守り下さい」
鎌子は深々と一礼した。
「——必要があるのか」
漢殿はつぶやくように言った。
「ぜひとも、御承知下さい」
「わかった」
漢殿はうなずいて、問い返した。
「兄君は、どこにおられる」
「ただいまは、百済の豊王子《ほうおうじ》様のところへ行かれておられます」
「そうか、では、とりあえず虫麻呂を出そう」
「かたじけのうございます。それでは、わたくしはこれで」
「どこへ行く?」
「皇后様のもとへ参ります」
鎌子は答えて、再び頭を下げた。
「では、くれぐれも皇太子様のことをよろしくお願いします」
漢殿はうなずいた。
鎌子は出て行った。
「虫麻呂」
鎌子が出て行くと、漢殿はすぐに床下に向かって言った。
「はい」
「聞いていたな」
「はい、聞いておりました」
「では、行け。わたしもすぐに行く」
「——」
虫麻呂は動く気配がなかった。
「どうした?」
「少し、お考えになったら、いかがでございましょう」
「うん?」
漢殿は首を傾げた。
虫麻呂はそれ以上言わない。
「どういうことだ?」
「おわかりになりませぬか?」
「わからぬ、申すがよい」
「——このまま、何もせぬ方がよいのではありませぬか」
「何もせねば、兄君の身に——」
そこまで言って、漢殿は気が付いた。
(このまま、兄君を見殺しにせよ、ということか)
そうすれば、自分は晴れて皇族として認知されるかもしれない。
それが認められないのは、中大兄が執拗に反対しているからだ。
中大兄さえいなくなれば、母はすぐにでも自分を皇族に列してくれるに違いない。しかも中大兄がいなくなったうえに、自分が「皇子」の座を獲得すれば——。
(帝になるのも夢ではない)
漢殿は思った。
「いかが致しましょうや」
虫麻呂が決断を求めた。
「——やはり行け」
漢殿は、苦いものでも飲み下したかのように、しわがれ声で命じた。
「よろしいので?」
「かまわん、行け。そして、兄君の身をお守りするのだ」
「——」
「行け!」
「かしこまりました」
虫麻呂の気配は消えた。
漢殿は溜息をついた。
俄に心は動いたのである。
そうすればよかったのかもしれない。
汚い仕事は全部自分に押しつける「兄」、そしてそれにまったく報いようとしない「兄」——この世から消えてなくなってしまった方が、よほどせいせいする。
しかし、どうしても、踏み切れなかった。
父は違うとはいえ兄弟である。血を分けた兄弟を、むざむざと死に追いやれるものではない。
(勝手なお人だが——)
これも宿命というものかもしれなかった。
その「兄」が、実の妹との色恋沙汰で命を狙われる。
皮肉なものである。
(待てよ)
漢殿はふと思った。
(帝がそれほどお怒りなら、皇后様も無事には済まぬのでは)
鎌子はそこへ向かったが、鎌子一人で皇后を守れるかどうか。
漢殿は槍を手にとった。