帝は、怒りで顔を真っ赤にして、怒鳴り散らしていた。
「早く捕えよ、后も皇太子も」
だが、誰も、おろおろするばかりで、何もできない。
「帝はお疲れだ。とりあえず、お戻り頂くのだ」
鎌子は舎人を叱咤し、その場を収めた。
帝は、舎人たちに引きずられるようにして、その場を去った。
(皇太子様は御無事だろうか)
鎌子はそのことを思った。
中大兄はその頃、必死で馬をとばして漢殿の館に向かっていた。
色々と考えたが、やはり一番安全なのはそこしかない。
豊璋の館は、誰でも想像がつく。
飛鳥の古京も、目立つところばかりだ。
しかし、漢殿の館なら、万一追手がかかっても充分な応戦ができる。
(それにしても、なぜ馳せ参じぬのだ)
中大兄は、ついこの間まで漢殿を邪魔者にしていたことも忘れて、そう思った。
そう思った途端、馬の左側から、低いがよく通る声がした。
「皇太子様——」
どきりとして、そちらを見た中大兄は、疾走する馬に寄り添うように走っている灰色の衣の男に気付いた。
「虫麻呂か——」
「はい、御先導申し上げます」
虫麻呂は息も切らさずに言った。
「あやつは、なぜ来ぬ?」
中大兄は不満の声を漏らした。
「——主人は皇后様のところへ参っております」
「なに、皇后の?」
その時初めて中大兄は、間人の身にも危険がせまっていることに気付いた。
その間人のところへ漢殿が行ってくれた。ひとまずは安心である。しかし、それはそれとして、中大兄は間人に漢殿が会うということ自体が不快だった。
馬に一鞭くれた。
一刻も早く、行きたい。
そういう気持が芽生えたのである。
「皇太子様」
虫麻呂が言った。
「何だ?」
「この道は危のうございます。先に帝の手勢が伏せております」
「なんだと、なぜそれを早く言わぬ」
中大兄はあわてて馬をとめた。
「こちらへ。間道がございます」
虫麻呂が先に立った。
中大兄は無事に漢殿の館に着くことができた。