間人が人目もはばからず、中大兄にしっかりと抱きついた。
「待て、ここでは」
さすがに、中大兄がたしなめた。
周囲には、漢殿に妻の額田、それに鎌子も駆けつけている。
「かまいませぬ」
間人はかえって強く抱きついた。
「——こうなって嬉しゅうございます」
ささやく声が耳に届いた。
中大兄は驚いて、
「なぜだ。皇后の地位を失うことになるのだぞ」
「かまいませぬ」
間人は繰り返した。
うるんだ瞳には、喜色すら浮かんでいる。
中大兄は、その間人を押しのけるようにして、身の自由を取り戻した。
そして物問いたげに鎌子を見た。
「御無事で何よりでござりまする」
鎌子は頭を下げた。
「どうする」
中大兄は血走った目で言った。
「こうなったら、非常の手段をとるしかございません」
鎌子は重々しい口調で言った。
「まさか——」
「いや、それは違いまする」
中大兄が何を言おうとしたか、鎌子はなぜそれをとどめたか、誰の目にもわかった。
帝をこの際、この世から消す——そのことである。
「では、どうする?」
「都を捨てましょう」
「捨てる? 逃げるのか?」
心外そうに中大兄が言った。
「いいえ」
鎌子は首を振って言った。
「都を戻すのでございます。飛鳥の古京へ」
「何だと」
中大兄は目をむいた。
漢殿以下、その場にいた者全員が驚いた。
なんという大胆な策であろう。
「しかし、都を遷すには、帝の勅《みことのり》がいるのでは——」
「その帝は、皇太子様を憎んでおられます」
「——」
「それゆえ、仕方がありませぬな。母君さえこちらの味方について下されば、難しいことではないと存じます」
「帝はどうする?」
その問いに、鎌子は少しうつむいて、しかしはっきりした声で言った。
「お連れ申し上げるわけには参りますまい。お嫌でございましょうし、来られては、この策が生きませぬ」
「で、では、帝を置き去りに——」
「はい」
「鎌子、それでよいのか?」
中大兄は思わず言った。
「よろしゅうございます。あとは皇太子様が心を強くお持ちになることでございます」
「——」
「母君を説いて、左大臣以下百官すべてに呼びかけるのでございます」
「ついて来てくれるであろうか?」
「そこが賭けでございます。しかし、勝算ある賭けと存じます」
中大兄はまだ混乱していた。
帝を置き去りにして、都を遷すなど、この国始まって以来のことである。
本当にうまくいくのだろうか。
「——そちはどう思う」
中大兄は漢殿にすら意見を求めた。
「はい、死中に活を求める良策かと存じます」
「しかとそう思うか?」
「はい、このまま座して事の推移を待つよりは、はるかに良いと思います」
中大兄は間人も見た。
間人は黙ってうなずいた。
「よし、ならば、皆も一蓮托生《いちれんたくしよう》だぞ」
中大兄は叫んだ。
(そのようなことを仰せにならずとも、黙ってついて来いとお命じになればよいのに)
鎌子は心の中で深い溜息をついた。